第3話 苦い夢から覚めた朝
ゆらりゆらりと、水の中を揺蕩う。
「——愛しているよ、×××。」
朧気な記憶の中、その優しさに溢れる声が頭の中に響いて離れない。
貴方は一体……?
「——ユリ」
ああ、ダメだ、頭が重い。
思考が停止する。
泡のように、水の中で溶けていく。
「——ユリ、ユリ。」
ユリ?それは……それは、私の名前だ。そう、私は、私の名前は……。
「……り。ユリ。ユリってば!」
ふわふわと体を包み込む柔らかいもの。
ユリーベルの上で、彼女の名前を呼ぶ誰か。
鼻をくすぐるパンケーキの匂い。
「……んー……。」
「ユリ。おはようございます。」
重たい瞼をこじ開けて、眠気眼で自分の頭上にいる人物を確認する。
にこりと陽だまりのような笑顔を浮かべるのはユリーベルが一番愛している人。
「おはようございます。お姉様。」
「はい、おはようございます! ……ってあら?どうしたの!?ユリ!」
マリーベルは、ユリーベルの顔を見るや否や、目を見開いた。
「……何がです?」
「何って貴方……泣いているじゃない!」
マリーベルに言われて、自分の頬に触れてみると確かに湿った感触があった。
「どうかしたの? 何か辛い事でもあった?」
マリーベルにそう尋ねられて、重たい頭で考える。
思い出せるのは、なんだかとても辛い思いをしたという事だけだった。
「何か、夢を……怖い夢を見ていた気がします。」
今でもそれが本当に夢だったのかと疑いたくなるような光景。
恐ろしくて、おぞましくて、全てから逃げ出したくなるような怖い夢。
そんな夢は、夢でしかないのだと、今この瞬間にユリーベルは理解する。
愛らしい顔で心配してくれる、愛おしい姉の姿。そうだ、ここが現実なのだと、そう思うだけでユリーベルの心はほっとした。
ユリーベルが虚ろな瞳を擦っていると、隣から嬉しそうな声が零れる。
「……んふふっ」
「お、お姉様?」
口元を抑えながら優雅に笑みを零すマリーベル、
「あ、ごめんなさい。ただね、貴方も怖い夢を見たら泣いていまうのねと、そう思っただけよ。」
「……それはどういう意味ですか、お姉様。」
「なんでもないわ!さっ。早く降りてらっしゃい。朝食が冷めてしまうもの!」
マリーベルはひらりと黄色のドレスを動かしながら穏やかに微笑んだ。
その笑顔に吊られるように、ユリーベルも頬を緩ませる。
「はい。支度を終えたらすぐに参りますね。」
「じゃあ、先に待ってるわ!」
パタンと扉が締まり、ユリーベルの部屋には彼女以外誰も居ない。
「それにしても、あの夢……。ちゃんとは思い出せないけど、なんだか凄く……」
——凄く生々しかった。
夢と言うには手に残る鉄の感触も、悲痛な叫びで喉を痛めたことも。全部覚えている。
凄く不思議な感じだ。
それに……。
「——お姉様。」
マリーベル・シュベルバルツ。私のただ一人の家族。唯一の姉。
シュベルバルツ家は三年前に先代当主、つまりユリーベル達の父を不慮の事故で亡くした。
以来、自動的に姉であるマリーベル・シュベルバルツが当主の座に着くことになる。
しかし、心優しいノルーベルに、シュベルバルツの仕事をこなせる訳もなく。
そのほとんどは妹のユリーベルに任せられた。
それから三年。ユリーベル自分の姉であるマリーベルが幸せに暮らせる事を何よりも願っている。
あんなにも優しい姉を、帝国の闇に触れさせる訳にはいかない。
汚れ仕事は全部、私が受け入れる。
だから、もしも私の行った悪行の全てが明るみになっても、大好きな姉だけはきっと、味方で居てくれる。
ユリーベルの知る、マリーベルという姉はいつだってそういう人だったのだから。
ユリーベルはゆっくりと立ち上がり、ぐっと背伸びをする。
大きな窓から差し込む麗らかな日差し。
ゆっくりと息を吸い込むと、新鮮な酸素が肺に届く。
「さて、と。お姉様を待たせないように、私も行かなくちゃ。」
ぽつりとユリーベルは呟いて、扉の前に足を運ぶ。
『————。——、——。』
「分かってるわ。私の朝食が終わったら、次は貴方達ね。」
ユリーベルの影がゆらりと揺らめく。それはまるで生きているように。
ユリーベルはその影に微笑みかけると、自室の扉を開けた。
✿
「ご馳走様でした。」
「あら、ユリ……。やっぱり調子が悪いのかしら。お医者様をお呼びする?」
長いテーブルに、純白のテーブルクロス。きらりと輝く銀食器に、美しい彫刻が施された椅子。
食堂で朝食をとるマリーベルは、正面にいるユリーベルの食器を見た。
ご馳走様、と口にしているのに食器の中に入っているスープは半分も減っていない。
「いえ。今日はあまりお腹が空いていなくて。パンケーキもスープも、とても美味しかったですわ。」
「そう……?なら良いんだけれど……。そういえばユリ。今日の予定はあるのかしら?」
スープを掬いながら、マリーベルは話を振る。
ユリーベルは少し頭の中で記憶を整理した後、にこやかに答えた。
「今から残っている作業を終わらせようと。」
「それはどのくらいかかるのかしら……?」
「そうですね……急げは昼前には終わるかと。何故その様な事を?」
不思議になって、今度はこちらから質問をする。
マリーベルは持っていたスプーンを置くと、モジモジと体をくねらせた。
恥ずかしそうに視線を逸らしながらか細い声で伝える。
「実は、ね。最近ユリとお出かけをしていないなって……。だから、その……。」
ああ、とユリーベルは察する。
耳を赤くしながら恥じらう自分の姉に、心がキュンと高鳴る。
我が姉ながら、本当に可愛らしい。
「急いで仕事を終わらせますので……それからでもよろしければ、御一緒に町へ参りませんか?」
ユリーベルがニコッと笑うと、マリーベルの表情もパッと明るくなる。
「はい!行きましょう!」
子供のように無邪気な笑顔を向けながら、身を乗り出すマリーベル。
その愛らしさに、ユリーベルの頬も自然と緩みっぱなしだ。
自らを自制する為の蓋が開けっ放しになってしまう。
「そうとなれば、早速部屋に戻って、作業を進めなければなりませんね。」
ガタッと立ち上がると、ユリーベルはそのまま扉に向けて歩き出した。その度に翡翠色のドレスが揺れる。
「ユリ。無理をしてはいけませんよ?」
「大丈夫ですわ、お姉様。では、また後で。」
そう言い放ち、ユリーベルは扉を閉めた。
姉と別れ、自室に向かう為に廊下を歩く。自分の身長よりも、高い窓から暖かな日差しが差し込んだ。
今日は雲の流れも穏やかで、いい一日になりそうだ。
そんな事を考えていると、ふと、今日の夢を思い出す。
最後に出会ったあの青年は一体、誰なのだろう。
少し寂しそうな顔で私を見ていたような気もするけれど。
あの子が最後に言った言葉が忘れられない。
「——愛しているよ、×××。」
その続きを聞けないまま、目を覚ましてしまった。
彼は何を伝えようとしていたのだろうか。
夢だとはいえ、どうもやるせない気分になる。
そのせいかもしれない。こんなにも気持ちが晴れないのは。
切ない顔で、私に手を差し伸べてくれた青年。その瞳の奥には何を隠していたのだろうか。
——所詮は夢。考えた所で答えなんて見つかるはずも無いわ。
頭の中で色々な光景を蘇らせていると、いつの間にか自室の前に着いていた。
あれこれと考えていても仕方がない。今は、今やるべき事を終わらせるまで。
ユリーベルは静かに扉を開けた。
「——随分と長い朝食だったな。待っているだけで、こっちが寝そうだったぞ。」
それはどこかで聞き覚えのある声だった。
気付けば窓は開いて、外から心地よい風が吹き抜けている。
目の前にいるのは、淡いピンクの色をした髪を靡かせる青年。
ユリーベルはその人を知っていた。いや、会ったことは無いはずなのに。
けれども、ユリーベルはその青年を見たことがある。
それは、今朝の夢で出てきた青年だった。
真っ白な肌が太陽に透けて、人では無いように思う。
けれど、彼は確実にそこに存在していた。
「貴方は……」
ユリーベルの困惑など気にも止めず、青年は静かに手を差し伸ばす。
穏やかな風が部屋全体に吹き抜ける中、その男はにたりと妖艶に笑った。
「——よう。お前の願い、叶えに来たぜ?」
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