2

 錠が外れる音がした。


 急いでドアノブを握って回した。


 ガチャリと音を立てて、ドアが開く。


「白石さん!」


 わたしは勢いよく玄関から廊下に飛び出そうとした。


 ものすごい熱気がわたしの顔に吹き付けた。


「あつっ!」


 やけどしてしまいそうな程の空気に驚いて、一旦玄関の中に下がった。


 目の前に信じられない光景が広がっていた。赤い舌をくねらせるように炎を上げて廊下が燃えていた。


「え!? 白石さん!?」


 廊下に首を出したいけど、炎に邪魔されて玄関から一歩も出ることが出来ない。


『中里さん? 中里さん!』


 スマートフォンの電話はまだ切れてなくて、電話越しに白石さんの慌てた声が聞こえてきた。わたしはスマートフォンを耳に当てる。


「火事です! 白石さん、どこにいるんですか!?」

『火事? 今部屋の中にいるんですけど、中里さん、どこにいらっしゃるんです?』


 絶望で目の前が真っ暗になった。どういうことか分からないけど、わたしがいる場所に白石さんがいない。でも白石さんはわたしがいない場所にいる。ずっと前、堤さんがわたしに言った。


『異次元が重なってて、違う次元では三〇四号室があるとか』


 あれと同じだ。


 わたしは一体どこにいるの!?


『中里さん! 聞こえてます?』


 呆然とした気持ちでわたしはもう一度スマートフォンを耳に当てた。


「はい……」


 抗えない何かに巻き込まれた。どうすることも出来ない絶望感に、わたしは突っ立っていた。


『穴は? 穴は開いてますか?』

「開いてないと思います」


 まるで現実感がない。一気に何かが奪われてしまったかのよう。今の事態が他人の身に起こっているように思えた。


『じゃあ、一旦ロフトに逃げて』


 白石さんが叫んでいる。そうとしか思えないくらい大きな声で呼びかけてくる。


 我に返ったわたしは慌てて廊下から部屋に移った。


 つい先日見た夢を思い出す。確か、あの夢の中でわたしは下を目指して闇雲に走っていた。でも頭上に光があって、そこに行ったら助かったのかもと、夢の中で感じた。だからロフトに登るのは正解なんだ。


 言われたとおりロフトに登る。一段一段上っていると何かに足を取られたように派手に転んだ。階段を落ちながら、後頭部に強い衝撃を感じて、目の前が真っ暗になった。


 ハッと気付くと白石さんの声が聞こえてくる。


『中里さん! 聞こえてます?』

「あ、はい!」


 慌てて返事をした。


『穴は? 穴は開いてますか?』

「開いてないと思います」


 スマートフォンを使えないから肉眼では分からないけど、さっき確かめたし開いてないはず。


『じゃあ、一旦ロフトに逃げて』


 わたしは言われるままにロフトに向かった。


 階段を上りかけたとき、何かに足を取られ、あっという間にわたしは宙を舞って転げ落ちた。強く頭を打って視界が真っ暗になる。


 ズキズキする頭を抱えて目を覚ますと、白石さんの声が聞こえてきた。


『中里さん! 聞こえてます?』

「は、はい」

『穴は? 穴は開いてますか?』

「穴……、開いてないと思います……」

『じゃあ、一旦ロフトに逃げて』


 なんだかおかしい。さっきと同じ事を繰り返している。


 これが夢の出来事なら、反対のことをしないと。ロフトに逃げようとして失敗するなら、ベランダに出よう。


 わたしは脇目も振らず、ベランダへ走った。あと少しでベランダというところで、タオルに足を取られて転んでしまった。


 立ち上がろうとしたが、足が何かに引っかかって立てない。


『中里さん! 聞こえてます?』


 繰り返される白石さんからの呼びかけが今は恐ろしい。でも電話を切ったら、この世界に閉じ込められそうで怖い。


「ベランダに出ます」

『ベランダ? じゃあ、そこに逃げて! 避難はしごを使って降りたら良いですから!』


 なんとか逃げられそうで、一瞬気を抜いた。


 その途端、ぐっと足を何かに引っ張られた。


「え!? 痛い!」


 足首に何かが絡まっている。あまりの痛みに手で払いのけようとした。


「あつっ!」


 炎の熱風とは違う、かんかんに熱くなったやかんの表面に触ったような痛みを感じて、手を引っ込めた。


 足がズキズキと痛み出し、わたしは我慢できなくて叫んだ。


「痛っ、痛いっ!」


 足首に黒い手が巻き付いていた。


「え!?」


 穴、さっきは開いてなかったのに……。衣服をかき分けていくつもの黒い手が自分に迫ってきた。


 足で黒い手を蹴るけど、切りが無い。掴まれた足の痛みがどんどん鋭い熱さに変わっていく。焼けただれた手の熱に、わたしの足首が燃えてやけどを負っているのだ。


 ものすごい力で、足を引っ張られる。わたしは床に散らばる服やタオルを掴んで、どうにか抗った。テーブルの脚にもすがった。でも、甲斐もなくどんどん引きずられていく。


 何をしても裏目に出る。でも何かせずにはいられない。


「助けて!」


 今まで言ったことも思ったこともなかった言葉がつい口から飛び出た。今まで生きてきて、助けてくれる人なんかいなかった。だから助けてもらおうとか考えたこともなかった。それなのに、今わたしは必死でだれかに助けを求めている。


 白石さんでも良い、堤さんでも良い。だれかに、この最悪な状況からわたしを救ってほしい。


 どんどんわたしは引きずられていく。テーブルの下へと引きずられて、何かに引き込まれていく。


「助けて! 誰か! やだ、やだ! 死にたくない!」


 暗くて一寸先も見えない黒い炭のような穴の中に、私の体が沈んでいく。黒い手の群れに炎が巻き付いている。わたしの足首がそれに焼かれて見る間にただれていく。


 怖くて、死にたくなくて、助けてほしくて、こんなこと到底受け入れたくない!


 指先に力を込めて、フローリングの感触がするものに爪を立てた。でも、そんなの意味なかった。




 暗い空間を全速力で走っている。穴に引きずり込まれて、一旦黒い手が足首から離れた隙に駆けだした。


 足が痛い。足を引きずりながら、精一杯走った。


 この夢を覚えている。きっと背後には炎といっしょに黒く焦げた化け物がわたしを追って来ている。苦しそうなうめき声が背後に迫ってくる。


 想像も出来ないほど現実離れしていて例えようがない。足が何かを踏む感触がない。息ができることが不思議で仕方ない。周囲からは土の匂いがする。穴蔵のような場所を闇雲に逃げている。


 下に向かって逃げたら駄目だ。上を目指さないと!


 顔を上に向けると光があった。あそこへ! あそこを目指して!


 まるで地面が盛り上がるように足場が出来て、わたしは光にどんどん近づいていった。


 背後のうめき声が小さくなっていく。


 良かった! 逃げられた!


 わたしは思いきり光の中に身を躍らせた。




 浮遊感! わたしの体が宙に浮いている。掴まるところもない。手足をばたつかせて抵抗するけど、体は無情に空気を切って落下する。


 眼下にアスファルトが見える。小さな車と、人のような点。落下しながら空気の抵抗を感じる。何かに掴まらなくちゃ! さらに手や足を闇雲に動かした。胃袋が口から吐き出そう。どうしようもない悪寒が全身に走る。わたしは叫びながら、落ちていく。



 死にたくない……! 死にたくないよ————。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る