奈落 【 中里 亜都里 】
1
わたしは真っ赤な空を見上げて、オレンジ色にたなびいている雲を眺めていた。視界の左右を占める■■■■■の古い町並みが日に陰って暗い。
隣には堤さんがいて、いっしょに歩いている。わたし達はとぼとぼと『リバーサイド■■南』に向かっていた。
もう一度周囲を見る。コントラストと彩度がおかしい。影の部分がネズミ色で緑がかった縁取りの家屋。空は鮮明な原色なのに、色の薄い部分は白飛びし、影は暗く灰色がかって目に映る風景。
隣を歩く堤さんは赤い服を着ているけど、顔や手足はモノクロでノイズがかかっている。
わたしも自分の手を見つめる。肌色に緑色の水彩絵の具を混ぜた色味をしている。左手で灰色のスーツケースを引っ張って、右肩にバッグをかけている。わたしの全財産だ。
気付けば、周囲の景色も歪んでいる。傾いでいるのか全てが斜めに見えた。
堤さんがいつもの優しい声でわたしに話しかける。
「大丈夫? ぼんやりしてると危ないよ」
わたしはハッとする。体が傾いで、よろよろと歩いていた。なんだか景色が背中に寄り掛かっているようで、体が重たい。
「わたし……。ここは……?」
見たことがあるような、でも見たことがない風景に戸惑って呟いた。
「ずっといっしょに散歩をしてたんだよ。もうすぐマンションに着くよ」
「散歩……。そうかぁ……」
堤さんがいなくなったから、探しに行って、今いっしょにマンションに帰っている途中なんだ。
堤さんが嬉しげに笑う。
「中里さんのおかげで、わたし、いつもと違うことが出来たんだ」
「いつもと違うこと……?」
「そう、ずぅっと同じ事を繰り返してた。どうしても抜け出せなかったんだ。だから、ありがとう」
逆光で堤さんの表情は分からないけど、なんだか幸せそうだ。
堤さんが手を繋ごうと手を伸ばして、わたしの左手を握った。その手にやけどの跡がある。
堤さんの言っている意味が分からないけど、なんだか景色の様子がおかしいし、多分これは夢なんだろう。
「堤さん、いなくなったと思ってました」
夢の中でも、堤さんが側にいてくれて良かった。どうしたら良いか分からなくて不安だったから。
「いつもいっしょにいたよ。気がつかなかった?」
気付かなかった……。わたしには堤さんが見えてなかったんだ。
これからどこに行くのか分かっていたけど、何故か全然怖くない。きっと、堤さんがいっしょだからだろう。
「どこに行くんですか?」
分かっていたけど、堤さんと話していたくて訊ねた。
「マンションに帰ってるとこだよ。まだやることがあったでしょ?」
「やること……」
何をやるんだろう。でもこれは夢だ。なんだか幸せな夢だから、あまり気にしても仕方ない。現実なら堤さんが側にいるのは変だし。目が覚めたら、公園にいるはず。だって今はまだ昼過ぎで、夕方じゃない。
マンションが見えてきて、二人で鍵も開けずにエントランスへ入る。自動ドアが閉まるのをわたしは振り向いて見た。ほら、夢だ。現実だったら鍵がないと入られない。
エレベーターに乗り込むと、現実にはない鏡が正面にかけてあった。堤さんとわたしが鏡に映っている。鏡越しに見る堤さんは、結構××××。それに引き換え、わたしは冴えない顔をしている。なんだか悲しそうだ。悲しくないのに。
三階に着いたので二人でエレベーターから降りる。
廊下の突き当たりにある三〇三号室の前まで来た。
「わたし、先に行って待ってるね」
堤さんがわたしの手を解いた。
「じゃあね」
手を振る堤さんを見送って、わたしは部屋に入った。
そこで、初めて我に返った。
「あれ?」
真っ暗な玄関に突っ立っている。電気のスイッチを探して何度もカチカチ押したけれど、電気が点かない。
さっきまでなんだか変な色彩の世界だったのに、部屋に入った途端、現実に引き戻されたみたいな色合いになった。
慌てて振り返り、玄関のドアノブを握る。ひんやりと冷たい。ガチャガチャと回したけど開かない。
手が震えている。ドアの鍵を開けようとしたら、何故か鍵のつまみがなかった。
「え? え?」
真っ暗な中、一生懸命ドアを触って鍵を探した。普通の鉄扉で触ると冷たい、それだけでいつもと変哲がない。
夢なのか夢じゃないのか、全然分からない。現実だったらありえないことがいくつもあった。きっとまだ夢の中にいる。目を覚まさないと!
そのとき、スマートフォンが鳴った。ポケットからスマートフォンを取り出して表示を見ると、白石さんからだった。恐る恐る電話に出る。
『中里さん、今どちらにいらっしゃるんですか? ご紹介したい物件の書類お持ちしましたよ』
白石さんの声がスマートフォンから聞こえてくる。
わたし、ここに来る前どこにいたんだっけ? 思考を巡らせて、なんとなく公園のベンチに座っていたことを思い出した。
そうだ、公園で白石さんを待っていた。マンションに戻れないと言って、新しい物件を紹介してもらうことになってた。
でも、何でわたしはこんな所にいるんだろう。
『中里さん?』
「は、はい……」
『どちらにいらっしゃるんですか? どっどちらに』
「あ、あの……、マンショ……」
言いかけて、電話口の白石さんの様子がおかしいことに気付いて黙る。
『ど、ど、どどどどどち、ちらららににに、にいらっいらっしゃしゃしゃしゃるる、るんで、ですすすす、かっかっか』
一瞬で背筋が凍り付いた。耳を離して、電話を切った。
「なに、これ。なんなの」
これって夢だよね。夢じゃないなら、さっきみたいな変な声にならないよね。わたしまだ公園で寝てるんだよね。
スマートフォンのカメラ機能を立ち上げて、スマホ越しに部屋の様子を窺う。至って普通の部屋だ。床一面に服やタオル類が散らばっている以外、何の異常も見られない。不思議なことにキッチンの横に洗って置いておいた容器や鍋がなくなっていた。部屋の真ん中にカメラを向ける。今は穴も見えない。
いきなりスマートフォンが鳴って、わたしは驚いて声を上げた。恐る恐る表示を見ると白石さんだった。さっきの電話を思い出して怖くなったけど、勇気を出してもう一度出た。
『すみません、急に切れちゃったみたいで……』
白石さんが申し訳なさそうにしているのを聞いていると、あれは電波がたまたま悪かったんだと思えた。
『公園に来たんですけど、どちらにいらっしゃるか分からなくて……』
「あの、マンションにいるんです。でも玄関の鍵が開かなくて……、出られなくて」
『マンションに? お部屋にいらっしゃるんですか? 玄関の鍵が開かないんですか』
まるで支離滅裂なことを言っている気分になる。けど、何か察してくれたのか、白石さんが安心させるように言う。
『今からマンションに行きますね。じっとしていてください。マスターキーを持っているので、玄関を開けますから』
「あ、ありがとうございます」
思わず口から漏れた。切羽詰まってパニクってたのか、涙が出そうになる。一体何が起こっているのか、これからどうすればいいのか、本当に分からない。
『それから、中里さん、穴には気をつけてください。それじゃあ、一旦切りますね』
白石さんがなんであの穴のことを知っているんだろう。わたしは驚いて聞き返したけど、電話は切れてしまった。
スマートフォンを握り締めて、わたしはもう一度カメラ機能を立ち上げて穴を確かめた。この穴のこと、白石さんは知っていた。もしかして最初から知っていたんだろうか?
スマホに映る部屋はモノクロに沈み、静かだ。物音一つ聞こえない。息を潜めてじっと立ちすくんでいた。一秒が一分に感じられて、もう何時間もこうしているように思えた。
一体どのくらいそうしていただろう。また、スマートフォンが鳴った。白石さんだ。慌てて電話に出た。
『今部屋の前にいます。開けますよ』
やっと白石さんが来てくれた! このドアの向こうに彼女がいる。わたしはようやくほっとして、鉄扉に向き直った。
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