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「どうしたんですか?」
亜都里が不安そうな表情で白石の顔を窺った。
「『堤』さんと話したのは本当ですか」
「ほ、本当です」
「どんな方ですか。特徴は? 本当にここに入居されてからずっとお付き合いがあったんですか」
すると、しどろもどろに亜都里が説明し始めたが、何か言いかけて何かに気付いたような顔になった。
「あ、赤い服。赤い服を着てました」
それきり考え込むように黙り込んだ。白石はその様子を見て、亜都里がここにいる『堤』を実際に存在していると思い込んだのだと結論づけた。そして、念を押すように亜都里に言った。
「赤い服以外はご存じないようですね……。でも、これは本当に嘘ではないんです。『堤』さんは失踪されてしまって以降、この部屋は空室なんです」
それでも、亜都里は何度もブツブツとビーフストロガノフとかなんとか言いつのっている。おそらく、『堤』が手に持っている容器の中身のことだろう。
きっと、ここに存在しないものを食べさせられて、亜都里はこんなにやつれてしまったのだろう。亜都里自身はきっと本当に美味しいと思って霞を食べていたに違いない。
「信じますよ。堤さんは中里さんの前に現れたんでしょうね。その証拠に、四〇三号室の部屋に中里さんの荷物がありましたから」
「はいっ、はい」
亜都里が笑顔で何度も「そうです、良かった」と繰り返している。きっと、白石に信じてもらえたと安心したのだろう。
不意に何故亜都里がこんな大荷物を持っているのか疑問に思う。この部屋へ『堤』に招き入れられて、ずっと住むことにしたわけではなさそうだ。白石は何気なく訊ねた。
「でも、何故ここに荷物があるんですか? 帰省されるんですか?」
噛みしめるように信じてもらえたことを喜んでいたが、帰省という言葉に反応して、表情を強ばらせた。俯き加減に絞り出すような声で話す。
「三〇三号室に帰りたくないんです……。あそこが怖いんです。せっかくもらったお札も駄目になっちゃって……。あの部屋怖いんです。他の部屋を紹介してください」
亜都里が懇願するような目で白石を見た。
「本当に今すぐにでもあの部屋から出たいんです。社宅じゃないとダメなら他の部屋をお願いしたいんです、三〇三号室以外だったらどこでも良いので」
残念だが、亜都里の要望には応えられそうになく、正直に白石は現状を告げる。彼女が三〇三号室に戻りたくない理由は、何度も電話してきたことに関係している。彼女は知らないかもしれない大きな穴。あの穴が部屋の居心地を悪くして、思いがけない現象を引き起こしているかもしれない。『堤』が見えたなら、亜都里も穴に気付いて、とんでもない目に遭っているのではないか。そして、亜都里が白石に訴えたことで、角大師の護符の効き目がなかったことを悟った。
「社宅の部屋を変えられたいそうですが、今入居可能な空室は、二〇三号室のみです。しばらく三〇三号室で我慢していただけますか?」
「無理です!」
亜都里が即答した。声が震えている。今にも泣きそうな顔で白石を見ている。
「あの、お金ないからできるだけ安い部屋を紹介してもらえますか? お金なら借りてでも作ります。お願いします」
何度も白石に頭を下げてくるので、白石もこんな状況でさすがに三〇三号室に住み続けろとは言いにくくなった。ここより安い物件など事故物件しかない。仮に他の部屋に住めても同じ事が起こる可能性が高い。しかし、それも可能性でしかないから、ここよりましかもしれない。どちらとも言いがたかった。
「それじゃあ、どこか安い物件があるか探してみます。それまで三〇三号室でお待ちいただけますか?」
「無理です。戻るくらいなら近くの公園で待ちます」
どうしても三〇三号室に戻りたくないという亜都里の硬い意思を感じて、白石は苦肉の策を申し出た。
「じゃあ、■■公園で待っててください」
白石は亜都里と一緒に部屋を出て、すぐに書類をまとめるためにマンションを出て会社に戻った。
亜登里の要望に応えるために物件を探すのは良いとして、やはりまともな物件はない。
事故物件が多いか、女性の一人暮らしには合わないアパートしかない。亜都里にそんな物件を選ばせられない。必ず今より面倒な目に遭う可能性が高い。
仕方ないのかと白石は力なく笑った。
失踪したと思っていた『堤』のことが思い浮かぶ。彼女はずっとああしてマンションの自分の部屋だった四〇三号室に住み続けていたのだろうか。もし、他の失踪者も同じなら、どこかに『堤』と同じく隠れているのだろう。たまたま『堤』は思いが強くて亜都里に接触できたのかもしれない。
この世と重なってはいるが、この世ではないどこかがあのマンションには存在していて、『堤』はそこにいる。死んでもいない、生きてもいない。失踪したのが実はこの世でもあの世でもない場所に入り込んだからだとしたら、亜登里はこの世のどこでもない世界と接触してしまったことになる。
このままここにいたら、亜都里は一体どうなってしまうのだろう……。それを考えて、白石は背筋が寒くなった。
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