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 それから十分もしないで、白石さんが肩で息をしながら階段を上がってきた。わたしを見つけて軽く会釈して、廊下の奥にある四〇三号室の前に立つわたしの所まで小走りでやってきた。


「おはようございます」

「おはようございます……」

「四〇三号室に入られたって本当ですか?」


 白石さんが疑り深い目つきでわたしを見た。わたしは嘘を吐いていないから、堂々と中に入れてもらったことを話した。


「堤さんとおっしゃってましたか? 本当に」

「はい、堤さんです。ここに越してきた日から親切にして下さってました」


 すると、白石さんが考え込んでから言った。


「堤さんは確かにこの部屋を借りられてましたけど、もう半年以上前の話ですよ。それ以降、この部屋は空室のままです」


 なんだかわけありげな言い方だ。


「堤さんに何かあったんですか?」


 白石さんが何か思案するように視線をわたしの隣にやりながら、眉を寄せる。


「堤さんは失踪されてまだ見つかってないんです」

「え?」


 そんなわけない。嘘だ。だって本当に堤さんはいたし……。


 わたしがこう言おうとしたのを遮って、白石さんがドアの前に立って鍵穴に鍵を差し込む。


「本当に四〇三号室は空室なんです」


 ガチャリとドアの鍵が開いた。ふわっと漂ってきたのはクリーニングした部屋の空気だった。人の住んでいたような匂いは一切しなかった。


 靴を脱いで白石さんが中に入る。わたしは気後れして玄関に突っ立ったままでいた。


「中里さん」


 中から白石さんがわたしを呼んだ。わたしは慌てて部屋に上がった。短い廊下を通って部屋の中が見えてきて、わたしは自分の言っていたことが嘘じゃなかったと確認できた。


 何もない部屋の真ん中に、わたしのスーツケースとバッグが置いてあった。


「ほら、わたしの荷物……!」


 白石さんを見返すと、なんだか浮かない顔をしている。


「どうしたんですか?」


 わたしは不安になって訊ねた。白石さんが真剣な表情を浮かべている。


「堤さんと話したのは本当ですか」

「ほ、本当です」

「どんな方ですか。特徴は? 本当にここに入居されてからずっとお付き合いがあったんですか」


 しつこく聞かれると、不安を感じる。何故だろう。本当に仲良くしてもらったんだから、それを言えばいいだけなのに、段々自信がなくなる。だって……、どうしても堤さんの顔や格好が思い出せないから。堤さんと話した内容は思い出せると思う……。でも、一体どんな顔で髪型で背格好で、となると本当に霞がかかったようになる。何か思い出せることはないかと堤さんと初めて会った日のことを思い出した。


「あ、赤い服。赤い服を着てました」


 でもそれ以上答えられない。わたしが答えに困っていると、白石さんがわたしの隣に視線をやって、すぐにわたしを見つめる。


「赤い服以外はご存じないようですね……。でも、これは本当に嘘ではないんです。堤さんは失踪されてしまって以降、この部屋は空室なんです」


 わたしは何も言えなくなって黙った。


 堤さんが元々いなかったとして、わたしは誰からおかずのお裾分けをしてもらったり、部屋に泊めてもらったりしたんだ? ずっと堤さんをお姉さんみたいに思っていた。でも、最初から存在してないなんて、誰が信じられる? あんなにはっきりしていたし、味もおかずの味も……。


 ここまで考えて、わたしは焦りを感じた。


「いつもビーフストロガノフとロールキャベツと筑前煮を分けてもらってた……。それ以外は食べたことない。どんな味だったか思い出せない……」


 白石さんが気の毒そうにわたしを見る。頭がおかしいと思ってるんだろうか。


「でも、でも、わたし、頭がおかしいわけじゃないんです。ただ、混乱して思い出せないだけで……」


 混乱してるわたしに白石さんが優しい声で話しかける。


「信じますよ。堤さんは中里さんの前に現れたんでしょうね。その証拠に、四〇三号室の部屋に中里さんの荷物がありましたから」

「はいっ、はい」


 やっと信じてもらえたと、わたしは安心して何度も「そうです、良かった」と繰り返した。


「でも、何故ここに荷物があるんですか? 帰省されるんですか?」


 わたしは自分のスーツケースを見た。俯いていたけど、どうしても言わなければいけない。


「三〇三号室に帰りたくないんです……。あそこが怖いんです。せっかくもらったお札も駄目になっちゃって……。あの部屋怖いんです。他の部屋を紹介してください」


 わたしは顔を上げて白石さんをまっすぐ見つめた。


「本当に今すぐにでもあの部屋から出たいんです。社宅じゃないとダメなら他の部屋をお願いしたいんです、三〇三号室以外だったらどこでも良いので」


 白石さんが神妙な顔つきになった。


「社宅の部屋を変えられたいそうですが、今入居可能な空室は、二〇三号室のみです。しばらく三〇三号室で我慢していただけますか?」

「無理です!」


 わたしは思わず大きな声を出した。


「あの、お金ないからできるだけ安い部屋を紹介してもらえますか? お金なら借りてでも作ります。お願いします」


 白石に頭を下げて頼み込んだ。


「それじゃあ、どこか安い物件があるか探してみます。それまで三〇三号室でお待ちいただけますか?」

「無理です。戻るくらいなら近くの公園で待ちます」


 白石さんが少し考え込んだ。


「じゃあ、■■公園で待っててください」


 白石さんが指定してきた公園は■■南に近いところにある公園だ。


「分かりました」

「部屋の書類をまとめたらお電話いたします」


 私たちはそう約束してマンションを出た。白石さんは社用車に乗って会社に戻った。わたしは歩いて■■公園に向かった。




 公園に着くと、疲れ切って棒のようになった足を休めたくてベンチに座った。スーツケースを傍らに置いて、背もたれにのけぞる。公園には親子がたくさんいる。連休中のせいか人が多い気がした。


 わたしは堤さんがいないことに、少なからずショックを受けていた。あるはずの無い部屋の話をしたのに、今度はいるはずのない住人がこの一ヶ月わたしに食べたかどうかも分からないお裾分けを持って来てくれた。


 痩せこけた自分を信じられなかったのと同じで、あれほどはっきりと話をして仲良くしてくれてた堤さんが、実は失踪していたことが信じられなかった。


 わたしがずっといると思っていた堤さんは何者なんだろう……。堤さんじゃなかったら一体誰なんだろう。


 まとまりのない考えがぐるぐるしてきて瞼が重たくなってきた。


 日差しが暖かくて、気持ちが良いのもあってか、段々と思考がとりとめなくなっていく。瞼が重くなっていって……。

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