四〇三号室 【 中里 亜都里 】
1
自分が夢を見てるのは分かっている。
わたしは真っ暗な空間にいて、背後から迫ってくる何体もの黒く焦げた人間から逃げている。
全身が炭のようになって、所々ひび割れて生焼けの赤い肉が裂け目から見える。白濁した眼球が真っ黒な頭部でぎょろぎょろと動き、口の中まで焼けて舌がボロボロになった口腔を大きく開けて、前に突き出した二本の腕を蠢かして追ってくる。
決して速くない速度なのに、わたしはもう追いつかれそうな程、足をもつれさせて逃げ惑っているのだ。まるでぬかるみに足を取られているようで、一歩一歩が重たい。けれど自分がどんどん下へ下へと逃げているのは体感として分かった。
階段を転げるように坂道を下っていくと、目の前に焼け焦げた人間がひしめき合っているのが見えた。
わたしは慌てて後ろを振り向いた。背後からも何体もの黒い人が迫ってくる。左右も同じだ。取り囲まれてしまった。
上を仰いだら、明るい光が一点見えたけど、もう遅い。かなり下まで来てしまった。
背中を掴まれ、腕や首や腰に腕が巻き付く。嫌な匂いがする。髪の毛と肉が焦げた臭い。わたしにまとわりつく黒い肌がわたしの肉を焼いていく。
高熱に熱せられた鋼のような黒い人間が、わたしの上に何体も積み重なって、焼かれながら黒い人間の中に埋まっていく。
熱いと叫ぶと、肺が熱風を吸い込み肺を焼いた。激烈な痛みに泣き叫ぶごとに肺が焼かれていく。気管が焼けて、口の中がただれて、頬や鼻、顔の突起は全部焼け焦げて落ちていく。耳も髪の毛もくすぶる炭に変わっていく。目玉の中の液体が熱に沸騰して破裂した。
何も見えない……何も聞こえない……ただ痛くて熱いだけ。
目を開けたら、すごい汗を掻いていた。
目の前に冷たいベージュ色の鉄扉があった。
「え?」
わたしはどうしてこんな所に突っ立ってるんだろう……?
訳が分からなくて一歩下がると、目の前のドアに403と言う数字があった。
周囲を見回してから、わたしは何も持たずに廊下に立っているんだと分かった。
ドアノブを握って、回してみるけど鍵がかかっている。インターフォンのボタンを人差し指で強く押す。なんの音も出ない。ボタンを押すのにスカスカとなんだか手応えがない。
もう一度ドアノブを回そうと見てみたら、ガス開栓のお願いという用紙が入った透明な袋が、ドアノブに輪ゴムで引っかけてあった。
「え?」
理解が追いつかない。どういうことなんだろう。ガス開栓って、引っ越してきたときにやる手続きだ。これは空室のドアノブに引っかけられているヤツだ。
空室? でも、堤さんが住んでる。住んでるから空室じゃないはず。
そうだ、インターフォンが鳴らなかった。電気が開通してないってことなんだろうか。
意味が分からない。だって、わたしはここに泊まらせてもらって、堤さんの料理を食べてテレビを見ながらおしゃべりをして、そして……、そしてどうしただろう?
記憶に曖昧なところがある。
「堤さん! 堤さん! ここを開けてください。わたしです。中里です。堤さん!」
何度も堤さんを呼んでいるのに、ドアの向こうは静かだ。耳を当てて様子を探るけど物音一つしない。
一体、何が起こってるんだ? どうして堤さんは出てくれないんだ? わたしは一体どこにいたんだ?
手荷物は一切持っていなかった。それでも何か手がかりになりそうなものがあるかもしれないと、カプリパンツのポケットを探ってみた。
スマートフォンが入っていた。パニックになりかけていたから、それを見たおかげで少し落ち着いた。
時刻はすでに十四時を指していた。丸一日の記憶が曖昧だ。堤さんならわたしが何をしていたか知っているはずだ。
それでも、堤さんとの連絡手段がない。連絡先を聞こう聞こうと思っていたのに、結局聞かずじまいのままだ。
わたしはスマートフォンを睨みつけて、次はどうすべきか考えた。
そうだ、荷物はどこにやったんだ? まさか、この中に忘れてきたんだろうか。もう一度ドアノブを回したけれど、ガチャガチャと音を立てるだけで開く気配もない。
隣室の騒音のことで何度も電話をして、しかも堤さんの部屋に忘れ物をしたから開けてほしいだなんて、白石さんに頼むのは気が引けたし、住んでいる人がいるのに勝手に開けてほしいなんて本当はいけないことだ。
でも、堤さんが帰ってくるまで待てない。いや、堤さんは一体どこに出掛けたんだろう。
狼狽えて指が震える。必死で画面をタップして、白石さんに電話をした。正直に堤さんの部屋に忘れ物をしたこと、堤さんがどこにいるか分からないこと、あと三〇三号室を出たいこと、安い別の部屋を借りたいことを言わなくちゃ。ぐるぐるとそういったことが頭の中を回る。全然整理できない。
『はい、ラッキールームの白石です』
白石さんの言葉にかぶせてわたしは必死で話していた。
「白石さんっ、堤さんの部屋。堤さんの部屋に忘れ物をしたんですけど、堤さん、いなくて……、中にその……、荷物を」
『どうされたんですか? 中里さん? 落ち着いて。堤さんってどなたですか?』
言葉に詰まって息が乱れた。深呼吸しながら、もう一度落ち着いて話した。
「四〇三号室の堤さんの部屋に忘れ物をしたんです。でも、堤さんがいなくて、荷物がそのままで……、荷物を取りに行きたいんですけど、白石さん、部屋のドア開けてもらうって出来ますか?」
しばらく沈黙があって、白石さんが言った。
『四〇三号室は空室ですよ?』
「え? でも……、堤さんが……」
わたしは白石さんの言葉が信じられなくて言い返した。
「だって、わたし、ずっと堤さんからおかずをお裾分けしてもらったり、昨日だって泊まらせてもらったり、本当にいろいろとお世話になったんですよ? 空室って、そんなわけないですよ」
すると、白石さんが困ったように返す。
『いえ、本当に空室です。別のお部屋と間違われてませんか?』
「信じてください。本当に四〇三号室に堤さんが住んでて、わたしそこに忘れ物したんです!」
また、白石さんは黙った。
沈黙されるとすごく落ち着かない。なんだか暗に責められているような気分になる。焦れったくなって何か言おうとしたときに、白石さんが提案してきた。
『四〇三号室は空室ですけど、昨夜だれかが侵入して、中里さんを中に入れたと言うことですね?』
違うけど、白石さんはそう思いたいみたいだ。
「あの……、堤さんが……」
わたしが言い終わる前に白石さんが強く言った。
『今からそちらに行きます。不法侵入されていないか確かめますので、そのままお待ちください』
有無も言わさない感じの言い方だったから、わたしは思わず「はい」と返事をした。
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