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 目を開けると、わたしは廊下に立っていた。朝日がわたしの背中に当たってぽかぽかと暖かい。さっきまで夕方だったはずなのに。


 ぼんやりと部屋番号を見ると、四〇三号室の前だった。


 バッグを右肩にかけ、左手にスーツケースを持っている。いつの間にか着替えていて、カジュアルスーツだったから出社するつもりでここに立っているんだと思った。


 今日は何日なんだ? バッグからスマートフォンを取り出して日付と時刻を確認した。


 四月二十八日、午前七時。


 記憶が曖昧だ。昨夜のことをよく思い出せない。でも確かに堤さんの部屋に泊まらせてもらった。


 わたしは、今夜も堤さんの部屋に泊めてもらおうと思って、インターフォンを鳴らした。


 応答がない。もしかしたら、堤さんはもう会社に行ったのかもしれない。会社が終わったら、また堤さんを訪ねて泊めてもらおう。


 そう決めて、わたしも出社することにした。







 もう二十時を過ぎているので外はすっかり暗くなっている。今日は月締めの準備をしなければいけなかったにで残業をしたのだ。


 大型連休に有休を使って長い休みにする社員が多い。わたしもみんなが休んでいるのに出社しても何もすることがないので、みんなと一緒に休みを入れることにした。だから本当なら一昨日と昨日は出社したほうが良かった。今日、川添さんが素っ気なかったのはこれも関係してると思っている。


 忙しいときに休む新人なんて、嫌われても仕方ない。でも病院に行けと言ったのは川添さんなのにと少し恨みがましく思ってしまう。


 会社を退勤して寄り道もせず、マンションに帰った。三階を素通りして四階に続く階段を上った。


 廊下の電灯が煌々と輝いている。その明るさに少しほっとする。最近エントランスが薄暗い気がしていたから、廊下まで暗い雰囲気になったらますます怖くなる。


 わたしは四〇三号室の前に立って、インターフォンのボタンを押す。押してしばらく待っても音沙汰がない。まだ堤さんは帰ってきてないんだろうか?


 何度かしつこく鳴らしたけど、やっぱり留守のようだ。


 私は昨日の今日なので泊めてくれと言うのも気が引けてきて、三階の川添さんの部屋に向かった。彼女とは一緒に退勤したので、今部屋にいるはずだ。嫌われているかもしれないけど、他に頼る人間がいない。勇気を出して、三〇二号室のインターフォンを鳴らした。スリッパの軽い足音がして、チェーンをかけたままドアが開いた。


「中里さん、どうかした?」


 断られても仕方ないと思いつつ、わたしは頭を下げる。


「川添さん、すみません。今日一晩泊めてもらっても良いですか?」


 すると彼女は訝しげな表情を浮かべた。


「どうしたの」


 わたしは他人に言ったら変な顔をされるのを承知の上で、部屋が怖いと告げる。


「……今日一晩だけなら良いよ」


 意外にあっさりと部屋に入れてもらえた。


「ただ、わたし、二十九日から五月七日まで有休使って実家に帰るから今日一日しか泊めてあげられないけど」


 わたしは今日泊めてもらえるだけでありがたかったので、何度も頭を下げてお礼を言った。


 三〇二号室は出窓がないだけで作りは三〇三号室と同じだった。


 川添さんの作った具が卵だけの簡単な焼き飯をいただきながら、テレビを無言で見ている川添さんに遠慮しつつ周囲を見回した。


 なんとなく他人の家は居心地が悪くておしりがむずむずする。


 ゴールデンタイムのテレビ番組が終わったとき、川添さんが奇妙なことを言いだした。


「あのさ、中里さん、あの部屋出たほうが良いよ」

「え?」


 まさか、川添さんはあの部屋に恐ろしいものがあることを知っているんだろうか。


「中里さんの前の住人、部屋が怖いって言ってて精神を病んで引っ越したんだよね。上の階の人はこの前焼死体で見つかったし、六階の住人は向かいのビルから飛び降りたんだよ」


 人の死に様や前の住人がどうなったか聞かされて、わたしは不安に襲われた。


「それって、どういうことですか?」


 川添さんが出て行ったほうがいいという理由なんだろう。


「病院行ってきたんでしょ?」

「はい……」


 もらった薬は抗不安薬と睡眠導入剤だけで、他は検査次第で診断すると説明されたことを告げた。


「ストレスかぁ……」


 川添さんはなんだか納得しかねると言った胡乱な目でわたしを見た。


「わたしが中里さんにストレスかけてたってこと?」


 わたしは慌てて否定する。


「違います違います。新人によくある五月病じゃないですか? 川添さんは関係ないですよ」

「ふーん。でも癲癇じゃなくて良かったじゃない」

「そうですね……」


 ストレスは会社じゃなくて部屋じゃないかなと思っていたけど黙っておいた。


「三〇三は他の部屋と比べてストレスになること満載なんじゃない?」

「そうなんです」


 川添さんがじっとわたしを見つめた。


「じゃなかったらそんなに痩せないでしょ。前の住人も痩せたし。なんかあるんじゃない?」


 前の住人……彼女もわたしと同じように痩せたのか……。


「それに、あの人、声が聞こえるって言って、うちに文句言いに来たし」

「えっ?」


 あの声は川添さんの声じゃないし、ましてや男性がこのマンションに住めるはずがない。でも、四六時中ごめんなさいと声が聞こえてたら気が滅入ってしまう。


「このままじゃあなた飢え死にするんじゃないの?」

「ええ? そんな大袈裟な……。ちゃんと食べてますって」


 今日だってカフェをはしごしておなかがずっとパンパンのままで苦しい。さっきも無理してせっかく作ってくれた焼き飯を食べたばかりだ。


「食べてるなら良いけど。とにかく、あの部屋、縦方向に不幸が続いてるんだよね」

「不幸?」


 すると、川添さんが説明してくれた。


 自分が暮らすようになって五年間で、少なくとも二十件以上、この前のことを入れると数え切れないくらい不審死や失踪が続いている。みんな長くても半年保たない。みんな例外なく、失踪したり、自殺したり、事件に巻き込まれたり、精神的な要因が原因で会社を辞めてここを出ていったりと言うことが起こっている。


 その全てが、二〇三、三〇三、四〇三、五〇三、六〇三での出来事だ。二階から六階まできれいに縦方向に。何か曰くでもあるんだろうか。


 幸いなことに川添さんにはこの五年間何も変なことは起こっていない。


 でも、怪異を体験しているあなたは早く引っ越ししないといけない。


「今すぐ引っ越すだけのお金がないんです……」

「それでも怖いから部屋に戻れないんじゃあ、二万円払い損じゃない。他の社宅でも当たってみる?」


 残念なことに社宅は『リバーサイド■■南』しかないそうだ。これは引っ越しする前に総務の女性から言われた。こんな条件が良い社宅に社員が住んでないのには訳があったのだ。みんな何らかの怪異に襲われたせいで出て行ったのを、川添さんが把握できてないだけなのかも。


「お金がないんだったら実家の親にいくらか借りたら?」


 これを聞いてわたしは湧き上がる激しい感情を抑え込んだ。普通はそうなんだろう。みんな両親に頼るんだと思う。でもわたしの家は違う。到底同じじゃない。だから無理だ。


 怒りと絶望が顔に出たのだろう、川添さんはこれ以上話を続けなかった。

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