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六時になるのを待って、わたしは部屋を出た。遮光カーテンを閉め切ったままなので、名残惜しそうな感じで暗い気配がわたしの背中に絡みついてくる。見えない分、背後が怖い。穴から出てきた黒い腕が虫のような関節を伸ばしてわたしの肩に触れそうなくらい近づいている感じがする。
振り向かないようにして、後ろ手で鉄扉を閉じた。廊下から外を眺めると、カラスが鳴きながら飛んでいるのが見えた。すずめの声も微かに聞こえてくる。外はすっかり夜が明けていた。
自然光の下、部屋から出て、ようやく一息吐いて、わたしは予約をした総合病院に近いチェーン店のカフェで時間を潰すことにした。
ようやく八時を回り、病院の受付が出来る時間になった。わたしは紹介状を持って受付を済ませ、九時の診察を待った。
向日葵クリニックがあまりにも病院らしくなかったから、思わず総合病院の待合室と比べてしまう。向日葵クリニックはリラックスしてもらおうと気を遣っているのがよく伝わってきたけれど、総合病院は本当に待つだけの場所で、椅子も固いし周りに外来の患者さんがいるから落ち着かない。予約時間を少し過ぎて、わたしの順番を示す数字が受付の液晶画面に表示された。
先生の簡単な質問に答えたあと、CT検査を受けることになった。CT検査が終わると、また待合室で自分の名前が呼ばれるのをぼんやりと待った。
ようやく検査結果を聞くために診察を受ける。
結論を言うと、わたしは癲癇じゃなかった。向日葵クリニックの先生に渡すための診断書を受け取った時にはもう昼になっていた。
総合病院での待ち時間ですっかりくたびれてしまったわたしは、ぶらぶらとするだけの気力も無くて、お昼ご飯を食べるためにまたカフェに入った。
サンドイッチを食べながら、これからどうしようと頭を悩ませる。
部屋に戻ればあの不気味な穴とクローゼットがある。お札が少しでも効いてくれたら、部屋の雰囲気もずいぶんましになるかもしれない。でも一晩あそこで過ごすのは嫌だ。やむを得ない理由がない限り部屋に入るのも避けたい。
市内に友達と言える人はいないし、だからといって地元に戻るなんて選択肢はない。
本当にわたしには頼れる友達すらいないんだろうか……。
わたしに考えつくのは、堤さんか川添さんのどちらかに頼るしかないし、それとも両方に頼ることしか思いつかない。
川添さんは少し抵抗がある。半ば強引に病院へ行くように手配したのは川添さんで、そのことについてはありがたいって思っている。ただ、なんとなく壁を感じてしまう。親切だと思うけど……。
同じ親切でも堤さんとは違う。堤さんにこれ以上甘えるのは良くないと思うけど、頼ることに抵抗を感じない。
こんなことなら堤さんに電話番号かSNSでやりとりできるように連絡先を聞いておけばよかった。
時刻を確認すると十四時だった。堤さんも会社勤めしているだろうから、十七時過ぎじゃないと帰ってきてないかもしれない。
それまでどうやって時間を潰そうかと考えながら、カフェを出た。
上手な時間の潰し方が分からなかったので、結局ネカフェで十七時まで過ごした。疲れていたので仮眠が出来て結局はこれで良かったのかもしれない。
『リバーサイド■■南』の前に立って、これから堤さんに事情を話して一晩泊めてもらえるようにお願いするんだと気合いを入れて、エントランスに入った。エレベーターも階段も用心したほうがいい場所だ。このマンションに安全なところなんてないかもしれない。
わたしはゆっくりと四階を目指した。
無事に四階に辿り着いて、四〇三号室へ向かう。
何事もなく四〇三号室の前に立つことが出来た。ほっと息をつく。ドアの横に設置してあるインターフォンのボタンを押した。
ドアの向こうからインターフォンの呼び出し音が聞こえる。しばらく待っていると、不意にドアが開いた。
堤さんがドアから首だけ出してわたしを覗き込んだ。
「あれ? 中里さん、どうしたの?」
わたしは喉に言葉がつっかえるような言いにくさを感じていたけど、勇気を振り絞って声を出した。
「あの……、今夜だけで良いんです。一晩泊めてもらえないですか?」
「どういうこと? 別に良いけど……」
「自分の部屋にいるのが怖いんです……。おかしいと思われるかもしれないけど……」
「そっか、わかった。いいよ。荷物はそれだけ?」
そこで、わたしは自分のうかつさに血の気が引いた。荷物をまとめて今朝出掛ければ良かったのに、手ぶらで出てきてしまった。それで仕方なく、頭を下げてお願いした。
「すみません……、部屋に一人で戻りたくないから、付いてきてくれませんか」
「わかった」
堤さんは二つ返事でサンダルを履いて出てきてくれた。
それを見ただけで、わたしは堤さんの優しさに涙が出そうになった。
「ありがとうございます」
鼻をすすって涙を堪え、わたしはお礼を言った。
二人で階下に降り、堤さんに部屋の前で待っていてもらうことにした。
とにかくスーツケースに服をかき集めて入れて、部屋を出ないといけない。
急いで中に入ると遮光カーテンが閉め切られた部屋は薄暗くて、なんだか昨夜の恐ろしいものの澱が溜まっているように感じられた。
慌てて電気を点ける。部屋の床中に服やタオルが広げて置いてある。事情を知らない人が見たらとんでもない汚部屋だと思うだろう。
今はそんなことを考えている暇はない。クローゼットからスーツケースを出そうと、恐る恐る扉に手をかけて少しずつ開いた。
扉を開けた途端、はらりと何かが落ちた。何だろうと足下を見てみる。四方が黒く焼け焦げたお札だった。
「えっ」
言葉にならなかった。すぐにでも逃げたい気持ちに駆られたけど、今ここで逃げたらまた戻ってこないといけない。なんとか堪えて、目を閉じてクローゼットの中に手を入れ、スーツケースを引っ張り出した。
それからあとは必死で下着や服をかき集めてスーツケースに突っ込んでいったので、あまりよく覚えてない。
早足で部屋の外に出ると、堤さんが待っていてくれた。
「すみません、お待たせしました」
もう安心だ。わたしは胸をなで下ろして堤さんを見上げた。
「じゃあ、今夜はうちで夕飯だね。腕によりをかけてお料理するからね!」
堤さんが嬉しそうな様子で張り切っている。今晩はどんな料理だろう。考えるだけで、おなかが空腹で鳴った。
笑い声が聞こえてきて、わたしは目を開けた。
眼下に堤さんがいる。マンションの廊下でだれかと立ち話をしている。
堤さんが声を出してケラケラと笑っているのは初めて見る。
堤さんは手に容器を持っている。話している相手はわたしじゃなかった。誰だろう。知らない女性だ。
女性も堤さんと同じようにおなかを抱えて笑っている。何を話してるんだろう。笑い声は聞こえるのに、会話の内容が耳に入ってこない。
女性は堤さんから容器を受け取って部屋に入っていった。部屋番号が見える。よく目をこらして見ると、それが三〇三号室だと分かった。
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