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 焦げた臭いは部屋中に充満している。カタカタという物音を立てているのはロフトじゃない。多分、ロフト下の部屋。そこには前の住人が残した家具が一式置いてある。


 ロフト真下にはクローゼットがある。そのクローゼットがカタカタと鳴っている。地震なら、部屋全体が音を立てるだろうから、地震じゃないのがはっきりと分かった。


 せっかくの安眠を妨げられて、わたしは機嫌が悪かった。起き上がって、スマートフォンを取り、画面越しに穴を確認したが、今は閉じているようだ。


 スマートフォンのライトを点し、恐る恐る階段を降りていく。


 クローゼットに光を当てると、小刻みに揺れているのが分かった。


 焦げた臭いもクローゼットから漂ってくる。煙も何も見えないので、火事というわけではなさそうだ。第一、たばこも吸わないのに火が着くわけがない。


 そっとクローゼットに近寄って扉に耳を付けると、中から微かなうめき声が聞こえてきた。だれかいるんだろうかと身構える。一体誰がこの部屋に侵入してクローゼットに潜んでいるんだ。


 背筋に寒気が走った。このまま放置して逃げることも出来る。


 でも、これは本当に現実なんだろうか。玄関の鍵を締めているのに、鍵も開けずに中に入ってきてクローゼットに籠もる人なんているんだろうか。


 勇気を出して、クローゼットの観音開きの扉をそっと開けてみた。


 目の前には数着の服があるだけだった。安堵のため息を吐こうとしたけど、気を抜いた途端にすさまじい悪臭が顔に吹き付けた。まるで髪の毛が燃えるような臭いだ。


 まさか自然発火するようなものが中にあるのだろうかと、わたしは服をかき分けて頭を突っ込んだ。クローゼットの奥は薄ぼんやりとしていて、奥に何かのシルエットが見える。じっと目を凝らしていると、そのシルエットが何か分かった。


 広い空間にマネキンの山がある。臭いもさらに強烈で、すすり泣くような微かなうめき声も相変わらずだ。小刻みの揺れは、マネキンの山が少しずつだけど崩れている為に起こっているようだ。


 だいたいクローゼットの奥にこんなに広い空間があるはずがないし、そこにマネキンが積み重ねられているのもおかしな話だ。やっぱりこれは夢なんだと確信した。


 これは夢だ。そんなふうに考えながら、黒いマネキンが群がってこちらに向かってくるのを覗いていた。だんだんと近づいてくるマネキンがよく見えるようになって、驚きに体が固まった。


 丸坊主の黒い顔が正面を向く。瞼のない白く濁った目玉がわたしを見ている。体中の黒い炭がひび割れて、赤いマグマのような血肉が見える。真っ黒い穴のような口を開けて、やけに響く低い声で唸りながら、数え切れないくらいの黒い人間が這ってわたしに迫ってくる。


 あと数十センチで黒い手がわたしに届く。わたしはひっと息を吸い、体をのけぞらせた。


 頭の中が恐怖で染まっていく。


 怖い怖い怖い


 来ないで来ないで来ないで


 辛うじて震える手をクローゼットの扉にかけた。


 何本もの腕と黒く焼け煤けた人間が、重なり合い押し合って、クローゼットから出ようとのたうっている。


 わたしは叫びながら音を立てて扉を閉じた。


 ここを離れたほうがいいと思って座ったまま一メートルくらい後退る。


 そのとき扉が軋んだ音を立ててわずかに開いた。


「ひっ」


 もうだめだと思って目をつぶり悲鳴を上げた。


 軽い音を立てて何かがクローゼットから落ちた。何だろうと薄く目を開けてスマートフォンのライトを当ててみる。


 土だ。何故土がこんな所から出てくるんだろう。あの黒い人間達は全て土だったのか? 


 あの化け物達が本当にいなくなったのか確認せずにはいられなくなって、恐怖とせめぎ合う気持ちをなだめながら、もう一度クローゼットの中に頭を突っ込んだ。


 けれど、予想に反してクローゼットの奥には広い空間も黒い人間の山もなかった。それなのに膝の下にある土の感触は消えない。よく見るとクローゼットの中に土の山が出来ていた。


 こんな夢は今まで見たことがない。こういうパターンの夢を覆すにはどうしたら良いんだろう。


 焦げ臭いんだから何かが燃えていたんだろう。黒い人間は何を指すんだろう。わたしの脳裏に黒い手が浮かぶ。


 まさか、このあいだ見た消し炭で出来たような腕と同じものなのか? もしも、これから起こることを指した夢でないなら、ここに来て見てきた夢は全て過去に起こったことなんだろうか。過去に起こった事柄を覆すことは出来るんだろうか。


 ジャリッと土を踏む足の下で音が鳴る。土は消えずにここにあった。


 もしもこれが夢でないなら、電気を付けても土が消えないなら、考えたくもないけど夢が本当に現実になったことになる。


 わたしは立ち上がって、スイッチを壁伝いに探し出して電気を点けた。遮光カーテンを閉めた室内が昼光色に浮かび上がる。


 用心してカメラ越しに穴の確認をしたが、やはり穴は開いていない。今度はクローゼットをカメラ越しに見た。床に黒い土が散乱している。土を踏んだ足と膝が黒くなっている。払いのけたら土のざりざりする感触が手のひらに残った。


 夢なのか夢じゃないのか分からなくなったわたしは、必死で土を払った。ベランダからカラスの声が聞こえてくる。朝が来たんだろうか。スマートフォンの画面を見て時刻を確認すると、まだ五時頃だった。


 夢が現実になるんじゃなくて、現実に何かが起きているのだけは理解できた。これをどうしたら良いのか見当も付かない。


 そのとき、わたしは白石さんがくれたお札のことを思い出した。お札はテーブルの上にある。お札を手に取って、ゆっくりと近づいて、クローゼットの開け放たれた扉の内側にお札を貼ってみた。両面テープを白石さんが貼ってくれていたおかげで手間取らなかった。


 本当にこれで大丈夫なのかは分からない。このお札の効果がすぐに現れるかどうかも分からない。分からないけれど、今はこれしか対処がない。


 わたしは用心深く辺りをカメラ越しに確認した。部屋の真ん中に開いていた穴はやっぱり閉じている。


 穴を何かで隠せば、少しはましなんじゃないか。穴から手が出てくることもないんじゃないか。穴が開かないのはきっと白石さんがくれたお札のおかげかもしれない。


 わたしはクローゼットの中身とタオル類を床に広げてみた。こんなことをしても無駄かもしれないけど、これ以外の対策がない。空になったクローゼットにもうおかしな空間はなかった。


 床に散らばった土を手でかき集めてゴミ箱に捨てた。床一面に服が散らばっている。まるで空き巣が入ったみたいな有様だ。


 この部屋にこれからも住む気持ちが急激になくなっていくのがわかる。向日葵クリニックの先生はストレスからかもしれないと言っていた。この部屋がストレスの元凶なのだ。


 次第にこの部屋にいるのが辛くなってきた。引っ越しも出来ないのに、今はもう部屋から出て行きたいと思っている。


 でもどこに行けばいいんだろう。わたしが身を寄せられる場所がどこにもない。絶望的な気分になってきた。とりあえず、身支度してここから出よう。あと数日で大型連休がやってくる。出来ればその間だけでもここを離れていたい。


 わたしは呆然と突っ立ったまま、クローゼットを睨んでいた。

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