縦方向 【 中里 亜都里 】
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マンション前に遺体が遺棄されていたと大騒ぎになった翌日、わたしは会社から午後休をもらい、予約した心療内科の個人医院を訪れた。
遺体は一度も会ったことがないけど、五〇三号室の岩井という女性だそうだ。焼死体で発見されたことに酷く不安になる。ここに引っ越してきてから見る、火に関する夢が徐々に現実味を帯びてきた。他の部屋の住人も不安がってたけど、焼死体で見つかった住人は、岩井さんだけじゃないそうだ。他にも飛び降りて亡くなった人がいるそうだ。
『リバーサイド■■南』はどこかおかしい。部屋に得体の知れない穴があることからしてあまりいいものじゃない。穴から無数の黒い腕が這い出てきたり、夜のエレベーターでたくさんの黒い腕がわたしを捕まえようとあるはずのない鏡から現れたり、夢が現実を侵蝕している。辛うじてまだ無事だとしか思えない。
心療内科の病院はN鉄■■駅の近くにあった。外からは分からないように名前を伏せてあるから、インターネットで検索するしか知りようがなさそうだ。病院名も心療内科と明記してない。向日葵クリニックと言う名前だけ掲げている。ビル内は明るく近代的で、精神を病んだ人が来るイメージとかけ離れている。
わたしの精神に関係する病気の知識があまりにも貧弱だからかもしれない。もっと暗いイメージを想像していた。
院内で名前を告げて健康保険証を出した。院内も明るくて清潔感があって、病院と言うよりちょっとした応接間のあるホテルのような雰囲気で、身構えていた気持ちが少し緩んだ。
ふかふかのソファに座り、ぼんやりと順番を待つ。三十分に一人しか見ていないようで、そんな少ない患者で儲かっているんだろうかと下世話なことを考える。わたしは偏見から、精神科医とは、気持ちの弱い人を相手にする、医療とあまり関係ない誰でもなれそうな医者と思っていた。薬を適当に出して、何でも病気にしてしまうような悪い印象を持っていた。
多分、家族の影響だと思う。家族は精神的に弱い人達を馬鹿にしてたから。
この病院では患者同士が居合わせるような作りになってない。人に見られて恥ずかしいという劣等感を刺激しないように配慮されている。順番が来たらしく、わたしは待機する部屋に案内された。このあいだに先に診察を受けていた患者さんが会計を済ませるのだろう。
やがて名前を呼ばれて、診察室のドアを開いた。書斎のような診察室で、リラックスできそうな落ち着いた色合いの部屋で病院という見た目じゃない。
さすがに先生は白衣を着ているけど、優しい顔つきで声音もゆったりとしていて、最後まで心に残っていた警戒も少しずつ解けていった。
「初めまして、中里さん」
わたしは穏やかな声に安心して自己紹介した。
「初めまして……」
普通カルテを見ながら診察すると思っていたから、先生が会話をするような体勢で私のほうを向いているのに驚いた。
「急に痩せたのと焦げた匂いがする、声が聞こえるとのことですが、今もしますか?」
事前にインターネットのホームページにあった問診票に記入した内容を確認された。けど、マンション以外でそんな現象は起こっていない。それを正直に話した。
「ふむ……、環境が急に変わったというのもあると思うよ。ストレスを抱えてると痩せることがあるかも知れないね」
「はぁ……」
変な病名を付けられて診察が終わると思っていたけどそんなことはなかった。むしろ、訴えを聞いてまずは主訴が何か切り分けてる感じがした。
「焦げた臭いがし始めたのはいつ頃から?」
「引っ越してからです」
「それ以前は?」
「ないです」
先生は何か考えてすぐに他の質問に移った。
「会社にお勤めしだしてからどのくらい痩せたの?」
元々体重を量っていたわけじゃなかったから、サイズが二つダウンしたと伝えた。
「それは急に痩せちゃったねぇ。眠られなくなったとかはあるかな?」
睡眠は摂れていると思ったけど、悪夢をよく見ると答えた。
「焦げた匂いがするのは気になるね。焦げた臭いが症状で出るのに癲癇があるんだけど、昔そういう診断を受けたことは?」
覚えている限りそんな病気にかかったことはない。
「そう、気になるから、一度大きな病院で調べてもらったほうがいいかな。紹介状を書くから。この近くに良い病院があるよ」
今日は紹介状だけ出すので、次回の予約で病院に来たときに、検査結果を見てどうするか決めていこうと提案された。
受付の人が総合病院の脳神経外科に電話をしてくれ、明日の午前に予約を取ってくれた。
今日は薬を処方されず、紹介状だけ持たされて病院を出た。
教えてもらった病院がどこにあるのか確認したあと、わたしは会社に電話をかけた。上司に明日も休みをくれるように頼むと、しっかり調べてもらいなさいと言われて安心した。
ゴールデンウィークのことも聞かれ、五月一日、二日はみんな休みを取っているから君も休みなさいと言われた。その分お給料が減ってしまうけど、誰もいないんじゃ仕事が出来ないので仕方なく休むことにした。
■■地下街に降りて、ちょっと贅沢しようと食事が出来るお店に入り、久々に外食をした。
この日は久々に気持ちも軽く、夕方まで歩き回ってウィンドウショッピングをして楽しんだ。S県の繁華街はここまで賑やかしくないし、いろいろな商業ビルもない。■■にはデパートが少なくとも三つもある。地下街も広くて見ているだけでも心が弾む。考えてみれば、わたしは越してきてから会社と家の往復で、あまり遊びに行ったりしてなかった。
実家にいたときも図書館に行くくらいでお金もないし、友達がいないのもあって、休日に外出して町で遊んだことがなかった。
実家を出たんだから、もっと自由に楽しめば良いんだ。地下鉄に乗って大きな公園に行けば美術館もあるし、一人でも充分に休日を満喫できるはずだ。
ここに来てまで、昔のような暮らしにしがみつくのは損だ。もっと楽しもう。
わたしは心の底から、決心した。もっと早く自由に慣れないと。
暗くて静かな、温かくて安心できる、重力が皆無なとろりと溶けそうなまどろみから、急に引き上げられて、わたしは目を開けた。
部屋のどこからか、小刻みに物がゆれる音と焦げた匂いがする。
安寧な夢も見ない眠りから無理矢理引き上げられて、少し不機嫌になった。せっかく気持ちよく寝ていたのに。昨日の楽しかった余韻を眠りの中で味わっていたのに、急に起こされた。
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