火事 【 中里 亜都里 】

1

 翌朝、早くから家を出るという川添さんにほぼ追い出されるようにして、わたしはマンションを出た。


 これからどうしようと悩みながら、スーツケースを持って繁華街まで歩いて行った。ネカフェに入り、仮眠を取ったり漫画を読んだりして過ごした。我ながら時間を有効活用できてないのは分かってる。でも、今は町を散策したり映画を見たり美術館に行ったりするような心の余裕がない。


 仮眠を取ってようやく十八時になった。


 この数日でお金がどんどんなくなってきて、心許ない。なんとかネカフェで済ませるならあと二日は過ごせそうだ。ホテルに泊まったりしたらこの三倍はかかるだろうし、ゴールデンウィークに空いているホテルなんてない。

 十八時になると■■はもっと人が多くなる。芋洗い状態とまでは行かなくても似たような混雑振りだ。


 雑踏を避けて歩いていると、自然と繁華街を外れてマンション近くまで戻ってきていた。古い町並みと階層の高い商業ビルが混在する風景だ。

 空はオレンジ色と紺色が複雑に混ざり合って、そろそろ夕闇に包まれそうだ。

 外灯がポツンポツンと点き始める。外灯の明かりの届かない薄闇の中で全てが灰色に沈んでいる。ますます光と闇を隔て、影を濃く見せている。


 マンションの裏手通りを歩いていることに気付いた。なんだか見覚えがあると思ったら、廊下から見てきた景色だ。ちらほらと看板に明かりが点っている。とても気になっていた純喫茶っぽい店の前に立ち止まる。

 チカチカと明滅し電球が切れかけている、白地の看板に『るみにえ』と手書き風の黒いフォントで書かれてある。だけど表のガラス窓には『樫の木』とあった。どうやら昼間は喫茶店で、夜は明け方までスナックのようだ。


 前々から気になっていたのもあって、わたしは好奇心からドアを引いた。

 カランコロンと涼やかな鈴の音が響く。


「あら、いらっしゃい」


 スナックを耳にしたことはあっても実際に入ってみたことがなかったので、勝手に想像していた。スナックのママは厚化粧で変な声音で喋るとか。

 でも、出迎えてくれたママはエプロンをした七十歳くらいの小柄なお婆さんだった。


 カウンターにはすでに先客がいてコーヒーを飲んでいる。薄い頭を隠すようにニットの帽子をかぶり、きれいに刈り揃えた白い髭を蓄えている。多分ママと同じ七十歳くらいに見えた。

 わたしのスーツケースを見て、おじいさんが声をかける。


「ここには観光できたの?」


 わたしは自分の格好とスーツケースに目をやって、苦い笑いを浮かべる。


「いえ、その……、観光客じゃないです。ここの正面にあるマンションに住んでます」


 すると、二人が興味深そうな様子で口々に「へぇ」と呟いた。


「あなた、あそこに住んでるの?」


 家が近くにあるのに帰らずにスーツケースを持っているわたしを、ママが不思議そうに見つめた。


「はぁ」


 店内には五人かけのカウンターと四人かけのボックス席が二つ、二人がけの席が一つあった。きょろきょろと見回して二人がけに座ろうとしたら、老人から声をかけられた。


「ここに座れば良いのに」


 なんで声をかけられたか分からなくて戸惑っていたら、ママが老人の飲みかけのカップにコーヒーを注ぎながら言う。


「なんか、事情があるんじゃないの?」

「そっちに座ったら話が出来ないからねぇ」


 何か根掘り葉掘り聞かれるのか、ここに入って失敗したかなと身構えると、老人が椅子を回してわたしのほうを向く。


「あのマンションに住むなんて奇特だね」


 なんだか『リバーサイド■■南』のことを知っていそうな口ぶりだ。そうなると、わたしも老人達に話を聞きたくなった。

 勧められるままに、老人の隣に座った。


「あのぉ、あそこについて何か知ってるんですか?」


 すると、ママと老人が顔を合わせる。


「あのマンションは近所じゃ有名よ」


 ママが言った。老人がその言葉に続ける。


「ついこの間もまたボヤを出したし、人が死んだろ?」


 確かにたくさんの野次馬が近所中から集まった。みんなあのマンションに何かあると知ってるんだ。


「あそこに何か謂れがあるんですか」

「謂れというかねぇ、あそこは土地が悪いのよ」

「伊東さんもなんであそこ買ったのかねぇ」

「どういうことですか?」

「何か頼む?」


 ママに言われてコーヒーをお願いした。


「そういえば、なんでそんなに荷物を持ってるの。帰るんじゃないならどっかに行くとこなのかい?」


 老人がわたしのスーツケースをやたら気にしている。


「どこかに行くというか……、あのマンションに帰りたくなくて」


 わたしは正直に告げた。ここでごまかしたらあのマンションのことを詳しく聞けないかもと思ったからだ。


 老人とママが、わたしの返答を聞いて『さもありなん』というふうに頷いている。

 クローゼットで見たものは焼けて炭になった人間だと思う。人間があんなに大量に焼けて死んだ土地なんだろうか。火事に関連する夢を何度も見ているし、この人達が何かヒントをくれるかもしれない。じゃないと、何をしてはいけないのか分からない。夢の通りにしたらわたしは確実に死ぬ気がする。


「あそこねぇ、マンションが建つ前はアパートだったのよ」

「え? 駐車場じゃなかったんですか」


 白石さんに教えてもらったことと違うので驚いた。


「駐車場にして、一旦土地を寝かせたんだろうね」

「でも、寝かせただけじゃダメだったのよねぇ」


 どういうことだろう。



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