2

 今度は堤さんと一緒に階段を降りると、あれだけ辿り着けなかった三階にあっけなく降り立つことが出来た。


「よかった……」


 わたしは小声で呟いた。堤さんに話しても分かってもらえないかもしれない。こんなこと話したら、堤さんに嫌われるかもしれないと思うと怖くなる。


 三階の廊下の先にあるわたしの部屋に二人で向かう。


「さっきはどうしてあんな所にいたの?」


 堤さんに聞かれても、なんと言い訳すれば良いか思いつかない。


「何か分からないけど、話したくなったら話して」


 堤さんの優しさに心が救われる気がした。

 部屋の前で容器を受け取った。ただ気になるのは部屋に、堤さんから借りた容器と鍋がたくさん溜まっていることだ。


「あの、堤さん。お鍋と容器、返したいんですけど……」


 すると、堤さんがにこにこと笑って、「いいよいいよ、今度まとめて受け取るから」と答えた。


 結局できたての筑前煮を受け取って、堤さんと別れた。


 ドアを閉めて暗い玄関に佇む。カーテンを閉め切った部屋は闇に包まれて何も見えない。遮光カーテンがぴっちりと閉め切られていて微かな光も入ってこないから、本当に真っ黒く塗りつぶされたように見える。


 しばらくぼうっとしていたけど、のろのろと靴を脱ぎ、電気を点けた。どうしようもなく疲れてしまった。階段を何往復もしたから両太腿が筋肉痛で痛む。


 下駄箱にバッグを置いて、キッチンまで足を引きずっていく。両手に持った容器をシステムキッチンの台の上に置いて、ローテーブルを眺めた。


 クッションが散らかっている。微かに焦げた臭いが部屋に漂っている。換気扇を伝ってどこかの部屋の臭いが入ってきているのだろう。


 確かなのは、マンションで何かおかしな事が起こっている。スマートフォンのメモアプリを開いて夢日記を確かめたけど、階段の夢は見ていなかった。


 飲み慣れないお酒をたくさん飲んで、かなり酔っていたのかもしれない。夢でもないのに、こんな悪夢を現実で味わうはずがない。


 きっとそうだ。これは酔っ払ってしまったせい。今まで何事もなかったのに、お酒を飲んだ日に限って起こったんだから、これはお酒のせいだ。今度からはあまり飲まないようにしよう。


 わたしは気を取り直して、お風呂に入ることにした。



 

 あまりおなかは空いていないけど、キッチンに置いた容器の中身を見てみる。白だしを使ったのか色味の薄い筑前煮だった。一口頬張ると、意外にしっかり味付けされている。


 飲み会でそこそこ食べていたつもりだったけど、筑前煮が呼び水のようになって食欲が湧いてきた。


 箸と容器を一旦ローテーブルに載せて、クッションに腰を下ろした。途端に尾てい骨から虫が這うような寒気を覚えて、思わず息を飲んだ。


 夢を見てからすでに四日経っていた。黒い穴の中から這い出てくる黒い腕のイメージがまだ消えてないのか、あれからローテーブルでご飯を食べるのが気持ち悪く感じるようになっていた。


 黒い腕がフラッシュバックしたのと同時に、エレベーターで見た黒い腕も脳裏に浮かんだ。


 わたしは腕をさすりながら、容器を持って立ち上がりロフトを登っていった。どうしても夢で見た黒い穴が気になって仕方なかった。あの夢以来、落ち着いてテーブルでご飯が食べられない。


 目には見えない黒い穴が実は開いているんだろうか。焦げた臭いはその穴から出てきているんだろうか。


 いつの間にか設置されていた鏡から、黒い腕が襲ってきた夢を思い出す。何十本も黒い腕がわたしに向かって突き出された。わたしを捕まえようと指が蠢いていた。


 わたしの姿が映っていたから鏡だと思ったけど、本当は違うのかも知れない。堤さんが言っていた、『異次元が重なってて、違う次元では三〇四号室がある』という言葉が蘇った。


 声とは違うから同じ物とは限らないけど、声は現に聞こえてくるし、もしも穴が本当にあるなら目に見えるはずだ。肉眼で見ることが出来ないなら、別の方法で見えるかもしれない。


 それに何度も見る夢が単なる夢とは思えなかった。わたしが見る夢は現実になる。夢を現実にしたくなかったら、夢とは違うことをしないといけない。そのためには穴があるかどうか確かめてみるべきだ。


 わたしはスマートフォンをポケットから出して、カメラ越しにロフトから下を覗いた。


 ベランダがスマートフォンの液晶越しに映し出された。何の変哲もない風景。問題のローテーブルへカメラレンズを向ける。


「ひっ」


 予想はしていたけど、実際に見てしまうと総毛立ち怖気にスマートフォンを持つ手が震えた。


 ローテーブルの上で、黒い穴がブラックホールのように周囲を吸い込み渦を巻いている。穴は床に空いていたはずなのに、テーブルで隠しても意味がなかった。


 あんな場所で落ち着けるわけがない。クッションがいつも散らかって少し焦げてしまう理由も分かった。渦を巻く穴から、ゆらゆらと赤い炎が見え隠れしている。この部屋の焦げ臭さは、この穴が原因なんだ。


 穴を写真に撮れれば、自分の勘違いじゃないと思える。わたしは震える手で、何枚か穴の写真を撮った。


 確認しようと写真アプリを開いて見てみたら、いつも通りの部屋の画像が何枚かあった。写真を撮るときは確かに穴があった。それなのに、画像に収められない。


 もう一度、カメラ越しに穴を確認する。底の見えない暗い穴がぽっかりとローテーブルに空いている。また写真に撮って確認する。やっぱり、穴を画像に収めることができない。


 わたしは穴が見えない場所まで後退って、膝を抱えた。


 ここで生活できない。でも、行く当てはない。

 一番良いのは他の社宅を紹介してもらうことだけど、これは会社に掛け合うしかない。もうひとつは自力で引っ越すこと。白石さんに相談してみようか……。だけど、管理会社が賃貸会社みたいなことをするだろうか。


 でも、これ以上貯金を崩したくない。引っ越しするだけのお金がないから、かなり無理をしないといけなくなる。


 最後の手段として実家に帰るべきか考えてみたけど、あんな家に今更戻りたくない。ようやく出てきたのに、戻ったらどんな目に遭うか考えるだけで全身に震えが走る。


 きっと、義姉からは『やっぱりね、あんたが自立とか出来るわけないんだよ。社会不適合者だからね。それにあんたがここにいないとお義母さん達が困るんじゃないの? あたしは竜樹とこの家出るから、一生お義母さん達の世話をしてたらいいよ』と言われるだろう。


 母からは『帰ってくるって分かってました。亜都里ちゃんが一人で生活できるわけがないから。ママとパパがいないと。あなた、あんまり人付き合いがうまくないでしょ? 変なこと言ってもママなら理解してあげるから。だからずーっとこの家にいて、ママとパパの老後を看てね』と言われる。


 兄も『おまえ、落伍者だって周りから思われるの悔しくないの? ここにいたら、もしそうだとしてもまともに扱ってもらえるんだぜ? ここにいろよ。ママもパパもおまえを頼りにしてるんだからさ』


 みんなわたしを自立もできない出来損ないとして、都合良く家に縛り付けてくると思う。


 どっちにしろS県の実家に戻ったら会社を辞めなくちゃいけない。せっかく就職できたのにやめるなんて絶対に出来ない。


 それに、ここで諦めて帰れば家族に負けたことになる。一生あの人達の奴隷として生きていかないといけなくなる。それは絶対に嫌だ。わたしの人生を勝手に決めようとする人達に負けたくない。


 どうすれば、実家に戻ることなくここから出ていくことが出来るか、わたしは膝に顔を埋めて考えた。


 ここにこのままいたら無事では済まない。きっと、とんでもない目に遭うに違いない。どうにかして出て行かないといけない。そうしないと夢の通りになってしまう。


 でも、闇雲に出て行っても、現実的じゃない。毎日夢に注意して、お金を貯めながら働くほうが一番いいだろう。夢の通りにならないよう、いつか引っ越しをするために……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る