悪夢 【 中里 亜都里 】
1
ぼそぼそと声が聞こえる。
枕に付けた右耳に壁を伝って這い入ってくる。
男と女の声。
声の調子から女は年若い少女かも知れない。
少女は男を前にして、蹲っている。少しぽっちゃりとした体型で、足が悪いのか立ち上がれないようだ。すごく古いデザインの服を着ている。まるで、母の若い頃着ていたような服装だ。そうだ、昭和の古い時代っぽい。口をパクパク動かして、男に一生懸命言い募っているように見える。話しかけるとかそういう感じじゃない。
なんて言ってるんだろう。よく聞いてみようとしたら自然に二人の近くに体が移動した。
男は少女を見下ろし、片手に一斗缶を持っている。こっちは独り言みたいに喋り続けているけど、少女に対して言っているようにも見える。持っている一斗缶を両手に持ったり片手に持ち替えたりして、何かに迷っているようだ。部屋着なのか下着なのか、白いステテコっぽい半ズボンに白い肌着を着ている。
あ、なんとなく二人がどういう関係か分かってきた。男は父親で、少女は娘なんだ。父親が泣きながら、「すまない」って言っている。何に謝っているんだろう。
娘は必死で「ごめんなさい」って叫んでる。何を謝っているんだろう。
二人とも謝っているけど、なんだかニュアンスが違う。
娘に謝る父親にわたしは何も感じなかった。娘が父親に助けを求めるように謝っているのを見ても何も感じなかった。目の前で起こっていることに気持ちが入らない。
現実にこの場面を見たら、すぐに娘を助けようとすると思った。けれど何の感情も湧かない。
わたしはどうして二人の姿が見えるのかわからないまま、二人を眺めているしかない。無理矢理見させられている気がする。
父親がとうとう一斗缶を逆さまにした。液体が流れ落ちて、娘に降り注ぐ。火が付いたように叫んで、娘が「やめて、ごめんなさい」と這いずって父親から逃げようとした。
一斗缶を今度は頭に掲げて、父親が中身を最後までかぶった。中身のなくなった一斗缶を投げ捨てる。グワングワンと一斗缶が畳を転がっていく。
液体に濡れた手にマッチを持ち、ブルブルと震える手でシュッと火を付けて、それを娘に投げた。
ものすごい熱気と灯油の臭いと体毛が燃える臭いが塊になって、わたしの顔にぶつかってきた。悪臭から顔を庇いたいけど、わたしは石になったように動けない。
父親と娘がバタバタと手足を暴れさせて、見る間に黒い消し炭になっていく。赤い炎が二人に巻き付いて、上から下まで舐め尽くしている。
歯がガチガチと震えて音を立てる。目をそらしたい。鼻を押さえたい。熱くて顔を向けているのも辛い。
声を上げたい。声を上げて、逃げ出したい。逃げ出さないと、炎がわたしを襲ってくる。炎に巻かれた黒い腕が、わたしに助けを求めて迫ってくる。炎に包まれて転がりながら、わたしに向かってくる。
怖い怖い怖い
体が一ミリも動かない。あと数センチで黒い指が、炎に巻かれて消し炭になった指が、わたしの体に触れそうだ。触れてしまう。
いやだいやだいやだ
触れられたらわたしも燃えてしまう。捕まってしまったらもう二度と目が覚めない。
死にたくない————
叫びながら目が覚めた。何度も浅く息を吐いて、今自分がいる場所を目で確認する。暗がりに少しずつ目が慣れて、ぼんやりと物の輪郭が見えてくる。いつものわたしの部屋だ。
腕を上げてみた。良かった、なんともない。
でも、鼻はあの焦げた臭いを嗅ぎつけた。部屋中に臭いが微かに漂っているのだ。いまだにどこから匂っているか分からない。
枕元に置いたスマートフォンを手に取って、夢日記を付けようとした。昨日の夢に、父親と娘の今日見た同じ夢が記されていた。スクロールしていくと、一週間くらい同じ夢を見ていた。
やっぱり忘れてしまう。忘れない為の日記なのに。それともちゃんと見返さないからダメなのか。わたしが悪夢の内容を忘れてしまうなんて、らしくない。実家にいた頃はいつも夢と同じ事が起きないか用心深くしていたのに。
それに、なんだかここに引っ越してきて悪夢しか見てない気がする。普通の夢を最後に見たのはいつくらいだろう。
今まで見た夢の中で知らない人が出てくることは滅多になかった。このマンションに住み始めてからずっと、知らない人の夢を見る。時代がかっていて、最近の様子じゃない。ずっと昔のフィルムを見ているような気分だ。
もしかしたら、過去にこのマンションで起きたことを夢に見ているのかもしれない。わたしに過去を見るようなことが出来るのか知らないけど。
まだ四時前だ。もう一度寝ようと寝返りを打つ。
枕に付けた左耳にぼそぼそという話し声が聞こえてきた。
女性限定マンションで何故男の話し声がするのか、普通に考えてみてありえないことだ。
明日になったら、白石さんに電話してこのことを聞いてみよう。白石さんは管理会社の人だし、何か知っているかもしれない。
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