階段 【 中里 亜都里 】

1

 新入社員歓迎会の飲みの席で、同期の子がわたしの隣に座り直して声をかけてきた。


「元気〜?」


 とても陽気で、始まったばかりなのにもう酔っている様子だ。この子とは別の部署に配属になったから、同期と言ってもそれほど親しくない。でも、同期と言うだけで親近感を持ってくれる。わたしも新しい人間関係に戸惑いはしているけど、自分が変われば、今までとは違う人間関係を築けると信じている。それでもなかなか変われないでいるけど。


「最近痩せた?」


 同期の子が心配そうに、でも少しだけ好奇心に輝く瞳でわたしを見てきた。


「そう?」


 痩せたと言われて少し照れてしまう。自分でも最近スリムになったと思ったから。今まで入らなかったワンサイズ下のスカートが難なくはける。


「ちゃんとご飯食べてる?」


 でも、次の言葉でガッカリした。昨日も川添さんに言われたばかりだ。ちゃんと食べているのにと料理を取り分けられた皿を見せて、「食べてるよ」と返した。


 家に帰ってもほぼ毎日何かしら堤さんがお裾分けしてくれるし、結構食べ過ぎてるかなと思えるほどなのに。多分堤さんの料理はカロリー抑えめなのかもしれない。大豆のお肉とかそういうカロリーの低い素材を使っているのかもしれないし、そのおかげで痩せたんだと思う。


「知り合いのお姉さんが毎日お裾分けくれてるから、心配しなくても大丈夫だよ」

「そうなんだ。ねぇねぇ社宅ってどんな感じなの?」


 同期の子は自宅から通っているらしい。それがちょっとうらやましいと感じる。両親とうまくやってるんだと思うと、思わず自分の家族と比べてしまう。わたしも普通の親が欲しかった。


「きれいなロフト付きの部屋だよ。広いし、おしゃれ」


 騒音のことは黙っておいた。何にも知らない人に新居でこんな嫌なことがあると話をしても、理解してもらえないと思った。わたしの変な夢を見ることとかと同じ。うっかり口にして、後から気味悪がられていじめられたくない。できるだけ自分のことは黙っておくほうがいい。


「へぇ〜、いいなぁ」


 同期の子はうらやましそうな声を上げた。


「またね」


 そう言って、他の子達の所へ、移っていってしまった。わたしはどうしたら良いか分からなかったから、座ったまま料理を食べたり慣れないお酒をちびちび飲んだりしてた。


 そのうち同じ部署の先輩達が来て、ビールをどんどんコップに注がれてしまって、気持ち悪くなるくらい飲まされてしまった。すぐ他の先輩が気付いて、よそに移ってくれたから助かった。


 しばらくトイレに籠もって戻ってきたら、二次会に行くか行かないかって話になっていた。先輩達のおごりらしかったけど、飲まされたビールでふらふらだったから断って帰ることにした。




 気付いたら二十時を過ぎていた。お酒で火照った頭に四月の夜気が心地よく当たって、少しずつ酔いが覚めていく感じがした。気持ち悪いのがなくなったら、お酒もそれほど悪くないかもと思えてくる。なんだか大人になったような気分で繁華街を抜けて住宅街を歩いた。


 夜の住宅街はとても静かだ。ちょっと大通りから外れただけでがらりと雰囲気が変わる。明かりは外灯だけになって、商店はとっくの昔に照明を消してシャッターを閉めている。人っ子一人いない様子にまるで異世界に迷い込んだような気分になる。


 わたしだけがこの夜の住宅街に存在しているような気分を味わいながら、マンションに辿り着いた。


 明るいエントランスに入ると途端に夢見心地から冷めた。


 いつものようにエレベーターのボタンを押す。珍しく地下一階からエレベーターが上昇してきた。だれかが先に地下駐車場へ降りたみたいだ。

『お待たせしました』とアナウンスが流れて扉が開いた。乗り込もうとしたとき、強烈な焦げ臭さにわたしは顔をしかめた。気付くと目の前に鏡があって、わたしの姿が映っている。


 こんな鏡、今朝あったかなと首をひねったけど頭がぼんやりして思い出せなかった。エレベーターに鏡があったら身だしなみを整えられるから良いなとふと思う。


 そこまで考えて、わたしは乗り込もうとする足を止めた。


 鏡面にわたしだけでなく、何かが映っているのを見たからだ。


 黒い腕がわたしの背後から飛び出した。黒い人工物みたいな腕が、まるで背後から生えてくるように現れる。


 わたしは声も出せずに体を硬くした。逃げたくても背後に腕が無数にあるんだと思うと、反対に動けなくなった。


 黒い腕がおどろおどろしくわたしの背後でわたしを囲むように広がった。そのまま掴まれてしまうような恐怖感に襲われる。エレベーターに乗り込んだら逃げられると何故か思って、足を踏み入れたとき、新たな腕が手を伸ばして鏡から飛び出した。それまで後ろからわたしを掴もうとしていたはずの無数の腕が、鏡の中から掴みかかってきた。五本の黒い指が虫のように蠢いている。鏡から突き出された黒い手があまりにもリアルすぎて、わたしは叫びながら後退って尻餅をついてしまった。


 二十時以降エレベーターに乗ってはいけない理由はこれだったのだ。


 わたしは這いつくばったまま階段に逃げた。壁際に隠れて、黒い手が襲ってこないか、息を潜めて様子を窺った。


 エレベーターの扉が閉まり、エントランスはしんと静まりかえった。わたしは床に座ったまま、多分二、三分じっとしていた。


 結局、エレベーターの扉は開かなかった。


 わたしは立ち上がり、三階へと階段を上っていった。ゆっくりと手すりに掴まって一段一段踏みしめながら三階を目指した。二階のマークが見えた。あと一回登れば三階だ。ようやく部屋に帰られる。そう思って階段を上り、顔を上げて階数のマークを見た。


「え?」


 マークは四の数字だった。三ではない。おかしい、わたしはいつの間に三階を通り過ぎてしまったんだろう。理解できなくて今度は降りてみた。今度は過ぎてしまわないようにマークがすぐに目にとまるよう顔を上げていた。マークが見えてきた。


「え……」


 マークは二と表示されていた。いつの間に三階を通り過ぎてしまったんだろう? 今度は急ぎ足で上へ上がる。マークが見えた。四階だった。


 どういうことなんだろう。まるで三階が消えてしまったようだ。何度登って降りても三階に辿り着かない。


 どのくらい階段を上り下りしたんだろう。二階と四階の間に当たる踊り場にしゃがみ込んだ。これ以上どうすれば階段から抜け出せるんだろう。


 エレベーターを使えば、三階行きのボタンがある。でも、エレベーターには鏡がある。乗ればまた黒い腕に襲われてしまうかもしれない。


 わたしは座り込んだまま、泣きたくなってきた。泣いたってどうにもならないけど、困惑でどうしたらいいか分からない。このまま三階にたどり着けなくなるのだろうか。絶望して、立てた両膝の間に顔を俯かせた。


「あれ? 中里さん?」


 聞き覚えのある声を耳にして、じっと体育座りをしていたわたしは顔を上げた。


 目の前に容器を手にした堤さんが立っていた。座り込んだわたしを不思議そうに見ている。


「どうしたの、こんな所に座って。何かあったの?」


 心からほっと安堵して、わたしはよろよろしながら立ち上がった。


「今、ちょうどお料理を持っていこうと思ってたんだ。今日は筑前煮。たまに和食を食べたくなるよね」


 いつも通りの堤さんだ。満面の笑みを浮かべている堤さんにわたしはお礼を言った。


「いいの、いいの。わたしが好きで作ってるんだし」


 容器を差し出す堤さんに、わたしは、「すみません部屋まで一緒に付いてきてもらえますか?」とお願いした。一人だとまた階段から永遠に抜け出せなくなるかもしれないと怖かったからだ。



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