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少し強めに言ったらすっかりむくれてしまったのか、午後の仕事中、亜都里に美海子が声をかけても聞こえてないのかたびたび無視された。
美海子は腹を立てながら、平静を装って亜都里に仕事の内容を教えた。しかし、本当ならすぐにでも亜都里を怒鳴って、白石に有りもしないことを吹聴したと謝らせたかった。
美海子は断じて夜中に騒ぐようなことをしていない。
そういえば、三〇三号室に住んでいた前の住人も同じことを言っていた。
その女性は美海子に直接苦情を言いに来た。
『ちょっと、すみません。あの、夜中大きな声で話すのやめてもらえませんか』
女性は開口一番、美海子にこう言った。
『はぁ?』と美海子は目の前の女性の人格を疑った。『いきなり何を言ってるんだ?』喉元まで出かかった言葉を呑み込み、柔和な顔つきで返す。
『失礼ですけど、勘違いではないですか?』
すると、女性は食ってかかるような勢いで言いつのる。
『勘違いじゃないですよ。現にそっちから男の人の声を聞こえてくるんですよ? ここ女性限定で男性をマンションに呼んだらダメなの知ってるでしょう』
美海子はむっとする。
『男性なんて部屋に上げてませんよ』
強めに言うと女性はひるみ、語気を荒げて喋るのをやめた。
『本当に寝られないくらいうるさいんですよ』
『そんなことわたしには関係ない』という言葉が出そうになったが、ぐっと堪えた。
『男の人が女の人を責めてるのか、女の人の泣き声がうるさいんです。ごめんなさいごめんなさいって一晩中聞こえてくるんです。本当に男の人はいないんですか?』
女性がぐぐっと首を伸ばし、目を皿のように見開いて部屋の中を覗いてくる。気味悪く感じた美海子は開けていたドアを閉めようとした。それを女性が閉めさせないように足をドアの隙間に突っ込んだ。
それにはさすがの美海子もぎょっとした。
『ちょっと、何するんですか』
女性は部屋の中を、『中に男性いますよね?』と覗き込んでくる。
『いい加減にして下さい。警察呼びますよ!』
さすがに侵入されそうで怖くなった。
『そんなにうるさいなら、ラッキールームに言ったらいいじゃないですか!』
散々押し問答をして、女性は三〇三号室に渋々戻っていった。美海子は、その後ろ姿をドアの隙間から確認して閉めた。
美海子は二十歳でオリエント株式会社に就職してから、五年間この社宅に住んでいるが、変な注意事項以外はとても住みやすいと思っている。女性限定なので結婚している住人はいないし、独身の住人ばかりなので適度な距離を置くことも出来る。干渉されない生活に満足しているというのに、最近ずっと三〇三号室の住人に安寧を乱されている。
三〇三号室の女性は他の住人とかなり親密にしているらしく、廊下で立ち話しているのをよく見かけた。
何の話をしているのか耳をそばだててみると、『いつもお料理ありがとうございます』と話している。料理を渡している女性も、『全然。もらってくれて助かってます』と作りすぎた料理をお裾分けしに来ているようだ。相手は、たまに階段で見かける女性で、どうも上階に住んでいるようだった。
しかし、その女性を見かけなくなってから、三〇三号室の女性がどんどん目に見えてやつれていった。結局精神を病んで、会社を辞めて田舎に帰ったそうだ。
三〇三号室は亜都里が入居してくるまで一年以上空室のままだった。このマンションの社宅は空室が多い。知っている限り、二〇三号室と二○二号室は長らく空室だ。
下手するとこのマンション全体で空室が多いかもしれない。ポスティングされたチラシが溜まっているポストを見て、多分そうだと美海子は見当をつけている。
三〇三号室の前の住人が言っていた騒音のクレームは、おそらくマンション全室の住人が抱えている問題だろう。でなければ、一階の掲示板に『夜間は静かに』という注意事項が貼り出されるわけがない。要するに騒音で嫌な思いをしているのは、亜都里だけではないということだ。
いつもながら仕事が終えるのは十九時過ぎ。買い物をして、マンションに帰り着くのが二十時を回った頃。注意事項のこともあって長いことエレベーターを利用していない。健康の為に習慣で階段を三階まで上る。
美海子は自分の部屋の鍵を開け、暗い部屋の電気を付けた。明るい部屋からさっと
玄関を入ってからずっと、ぼそぼそと声が聞こえている。声は三〇三号室側の壁から漏れ聞こえる。五年も経つと、ずいぶん話の内容も分かるようになるのだなと、美海子はぼんやりとビールのプルトップを開けて飲んだ。
美海子は亜都里がバラエティを見ないことやドラマもそれほど好きではないのを知っているから、テレビの音じゃないことはわかっている。
騒音の発生源は三〇三号室だ。それがきっとマンション全体に響いているのだ。そんなふうに美海子は妄想している。ただ、それを亜都里に指摘したら、彼女はショックを受けるだろう。
この音を亜都里が出しているとは思っていない。なぜなら、前の住人の時から聞こえているからだ。聞こえるはずのない話し声。でも美海子にだけ聞こえているわけではないので幻聴ではない。
美海子はテレビのリモコンを手に取り、ドラマのチャンネルボタンを押した。ボリュームを少しずつ上げていくと、ぼそぼそと聞こえていた話し声は、テレビの音にかき消された。
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