2

 気がつくと、わたしは窮屈な暗い所に横たわっていた。体を動かそうと身動ぎするけど、何故か動くことが出来なかった。腕を上げようとしても何かが上から私の体を圧迫して動かせない。


 動けないだけじゃない。何か悪臭が充満している。吐き気がするくらい臭い。汚物を混ぜてそのまま放置したみたいな臭いだ。浜辺の崩れかけた公衆トイレでこんな悪臭を嗅いだことがある。悪臭に何か焦げた臭いも混じっている。


 顔を背けたくても首すら動かせない。体の上に何かが乗っている。顔が押し潰されそうなほど重たい。目を開いているけど周囲は真っ暗だ。


 ドスンと何かが上から落ちてくるような音がする。そのたびに強い衝撃が伝わってくる。


 今、目が開いているのなら、目の前にあるのは黒いマネキンのような物体だろう。しかも周囲から微かな呻き声が聞こえてくる。


 やがて、離れた場所からパチパチと何かが弾ける音がし始めた。音はどんどん近づいてくる。


 次第に周囲が熱くなってきた。脛や腹、頬に火花が散ったような痛みが走る。熱いのか痛いのか、定かでないくらいの激痛がわたしを襲った。痛いと叫ぶけど声が出ない。


 赤い炎が視線の先に映る。わたしは焼かれている。火が付けられたんだ。炎がめらめらと黒いマネキンを包み込む。その炎に肌を舐め上げられて、わたしは絶叫した。煙に巻かれて息が苦しい。


 死んでしまうんだという恐怖に叫び続けながら、目が覚めた。

 まだ体がじんじんと痛む。でも目が覚めたら熱さも息苦しさも消えた。

 わたしは枕元のスマートフォンで時刻を確認した。まだ明け方の四時だった。


 何だったんだろう……、夢の意味を考えながら、スマートフォンのメモ帳アプリを開いて日記を付けた。この夢はわたしに何を教えているんだろう……。まさかいつか分からないけどボヤどころじゃない火事が起こるんだろうか。


 わたしはたばこも吸わないし、火に気をつけようにもキッチンに備わっているコンロは電気で調理するIHだ。火が生じる心配はない。


 火に気をつけるようにという夢なんだとしたら、わたしはこの夢が現実にならないように、何を回避すれば良いんだろう……。何度も自分で書いた日記の文面を眺めて考えた。




 翌日、昼休みに川添さんとお昼を食べていた。二週間もすると話題も尽きて、趣味も好みも違うから会話をするのにものすごく神経を使ってしまう。それは川添さんも同じみたいで、たまにテレビの話題を振ってくるけど、わたしの見る番組じゃなかったりして、会話が成り立たない。


 黙々とご飯を食べていると、途中川添さんが電話に出る為に席を立った。


 彼女が戻ってきた後、話すことがなくて気まずい空気が流れたとき、昨日、白石さんに話した騒音の話題を振ってみた。


「そういえば、昨日、白石さんに三〇四号室の話し声、相談してみたんですよ。静かになってくれたら良いんですけど……。なんだか、男の人が一方的に女の人を責めてるみたいで、女の人は一晩中泣いてるんです」


 すると、川添さんが眉を寄せて訝しそうな顔をした。


「三〇四?」


 なんだか腑に落ちない様子だ。川添さんには聞こえてないのかな? わたしはもう一度説明した。


「わたしの隣の部屋ですよ。毎日夕方から夜中までずっと声が聞こえるんです。結構耳について、それに痴話げんかとなんだか違ってて……」


 わたしが言い終わらないうちに、川添さんが遮った。


「三〇四号室なんてないよ」


 なんだかちょっと不機嫌だ。なんでだろうと思いながら、彼女の言葉に反論した。


「え? あるじゃないですか」

「あなたの部屋、三〇三号室は角部屋なんだけど。冗談言ってるの?」


 川添さんに言いきられて、わたしは言葉に喉が詰まった。


「声は三〇四号室から聞こえてるって何の冗談?」


 二度も同じことを言われて、わたしは心臓が止まりそうになった。


「で、でも……、本当に聞こえるんです」

「本当に?」

「本当に三〇四号室から」


 間違いじゃない。この耳ではっきりと聞いた。本当ですと何度も言っていると、苛ついたように川添さんが言い放った。


「悪いけど、三〇四号室なんてないの。中里さんの部屋は角部屋。確かめてみたら?」


 この話題はこれで終わりとでも言うように川添さんは空の弁当箱をしまい、トイレへ行くと席を外した。


 突き放された言い方をされて、しかも本当に三〇四号室から聞こえてくるのに、それも否定されて、わたしは納得がいかなかった。


 どうして信じてくれないんだろう。なんだか実家にいた頃を思い出してしまった。


 結局悶々としたまま終業時間を迎えた。まだ仕事を続けると川添さんに言われて、わたしはそそくさと会社を出た。



 

 本当にわたしの部屋は角部屋だっただろうか……? その辺りを思い出そうとしたけれど、ぼんやりとして思い出せない。


 わたしはアプローチ側のポストを眺める。どの階も三号室までしかなかった。三〇四号室はポストには存在しない。それでも納得がいかなくて、わたしはエレベーターで三階に上がった。


 エレベーターに乗ると異様に寒く感じて腕をさする。微かに焦げた匂いがする。いがらっぽい臭いに軽く空咳をした。


 三階に降りて廊下の端まで行ってみた。三○一、三〇二、三〇三。三〇四のドアはなかった。


「嘘……」


 廊下の行き当たりの手すりから体を乗り出してみる。増築もない。


「あれ……?」


 引っ越してきたときに確かにタオルを渡したような気がする。あのときちゃんと確認してタオルを揃えたのに。ありもしない部屋が存在していると思い込むって、自分の頭はどうかしてるんだろうか。


 わたしは頭をひねった。それならあの声はどこから聞こえているんだ……。


 ドアを開けて部屋に上がり、急いで声が聞こえていた壁を眺めた。


「え……?」


 今まで気付かなかった出窓が壁に据え付けられていた。出窓の記憶が無い。カーテンも掛かっていないがらんどうの出窓の棚。ここに住み始めてからずっと、わたしはここに出窓があること自体目に入ってなかったんだろうか?


 でも、ごにょごにょと責め続ける男の声と女のすすり泣きは聞こえてくる。壁からでないなら一体どこから聞こえてくるんだろうか。


 もう一度、買ってきたタオルの余った数を数えてみる。上下左右の部屋の数だけタオルを買った。二枚は川添さんと堤さんに渡したはずだ。部屋に残されたカラーボックスの引き出しを開けて確かめてみたら、余ったタオルは二枚だった。二〇三と二〇四。引っ越してきたばかりの時、わたしは何を見たんだろう。まるで狐に化かされたみたいだ。


 そのとき、玄関のインターフォンが鳴った。いきなりだったので、驚いて心臓が跳ね上がった。


 玄関を開けると、容器を持った堤さんが立っていた。


「こんばんは。余り物で申し訳ないんですけど」


 堤さんがにこやかに挨拶した。


「あ、こんばんは……。いつもありがとうございます」


 堤さんが気さくに笑った。


「堤さん、ここにどのくらい住んでるんですか?」


 わたしは堤さんがいつからここに住んでいるのか、訊ねてみた。こんな不思議なことを堤さんも経験あるんだろうか。


「そうねぇ。もうそろそろ三年かな」

「三年……、じゃあ三〇四号室の話って聞いたことありますか?」


 もしかすると、わたしだけでなく昔ここに住んでいた人も同じ経験をしているかもしれない。


「なぜ?」

「あの、隣から話し声が聞こえてくるんです。夜中まで聞こえてくるんですけど、これって堤さんも聞いたことありますか?」

「声……? うーん、聞いたことないかなぁ。わたしの階は静かだけど」


 それを聞いてわたしはガッカリしてうなだれた。


「もしかすると鉄筋を伝って声が聞こえるのかもよ? たまにラジオの電波を受信することがあるみたいだし。引っ越してきてからずっと聞こえてるの?」


 堤さんは突き放さずに、わたしの話を聞いてくれる。今も聞こえている。


「今も聞こえてます」

「有るはずのない三〇四号室かぁ。なんだか不思議ね。ここでない場所に存在する部屋ってことよね」

「ここでない場所……」


 そんな幻影のような部屋の音を感知しているのか。存在しない部屋の音にずっと悩まされているんだろうか。


「そう、存在しない三〇四号室」


 わたしは堤さんの推理を聞いて背筋が寒くなった。


「異次元が重なってて、違う次元では三〇四号室があるとか」


 そんなことを言った後、テレビの見過ぎだねと堤さんがケラケラと笑った。

 わたしは堤さんからロールキャベツの入った容器を受け取って、部屋を見回した。


 声は相変わらず聞こえてくる。より鮮明に聞こえ初めている気がする。その内容を知らないほうが良い気がして、わたしはテレビの音量を上げた。

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