声 【 中里 亜都里 】
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今日は少し仕事の処理に手間取ってしまい、川添さんより先にマンションに帰った頃には二十時を過ぎていた。自動ドアが開いてエントランスに入ると、エレベーターの前に白石さんがいた。驚いた様子でわたしを振り返り、表情を和らげるとわたしに笑顔を向けた。
「こんばんは」
わたしの言葉に、白石さんが目元を緩ませて、「お疲れさまです」と答えた。二十時を過ぎているのに、ここにいるということは仕事なんだろうか。現にエレベーターの中を点検していたように見える。話しているうちに扉が閉まり、白石さんがわたしに向き直った。
「こんな時間にエレベーターの点検ですか?」
すると、曖昧な返事が返ってきた。何故かは知らないけど、二十時以降、エレベーターは故障するんじゃないのか? そんなエレベーターなんて聞いたこともないけど。
白石さんが「確認していた」と言ったので、川添さんが言ったように故障してないか、それを確認していたんだろうか。
「夜になると故障するんですよね?」
すると、白石さんが不思議そうな表情を浮かべた。
ちょっと違和感を覚えて、もう一度、聞いてみた。
「二十時以降は乗れないんですよね」
「ああ……、そうですね。不具合が出るんですよ」
不具合……、どんな不具合かは知らないけど、川添さんの言ってたことは嘘じゃなかったんだ。
そうだ、白石さんに言っておかないといけないことがあったんだった。毎晩ぼそぼそと聞こえてくる隣室の話し声、注意してほしいとずっと考えていた。管理会社に電話するのも気が引けたから今まで無視してきたけど、ちょうど白石さんに会ったのも何かの縁だろうから、ちょっと話してみよう。
「どうかされました?」
もの言いたげに見えたんだろう。わたしを訝しげに眺めて白石さんが聞いてきた。わたしは思いきって口にした。それに、あの声、聞き間違いじゃなかったら、男の人と若い女の人の声だった。何気なく聞いていたからそれが正しいか分からないけど、女性は泣き声だったように思う。泣かすような責め方をしているんだろうか。それなら早く注意してもらって、女の人が泣いてしまうような状況をどうにかしたい。第一、注意事項に騒音のことが書かれているんだから、どの部屋にもあの声は聞こえているのかもしれない。だから、いつもより少しだけ勇気を出した。
「あの、騒音のことなんですけど……」
「騒音がどうかしましたか?」
白石さんが不思議そうな表情を浮かべた。
騒音のことを注意事項に書くほどだから、他の部屋の住人からも注意してくれって言われたんだろう。それなのに、まるで初めて言われたみたいな顔をしている。なんだか胸の中がもやっとする。だからはっきりと言うことにした。
「隣の部屋から夜中までずっと話し声が聞こえて……白石さんから注意できませんか?」
「分かりました。わたしのほうで注意いたしますね」
白石さんにちゃんと話せたことで、わたしも少し安心できた。
「お願いします。それじゃあ、お疲れさまでした」
頭を下げて、階段へ体を向けた。背後から、白石さんが声をかけてきた。
「あ、あの、何か変わったことがあったらいつでも連絡ください」
わたしは立ち止まって、振り返る。白石さんが心配そうにわたしを見ていた。そんなにわたしは困っているように見えるんだろうか。白石さんは親切な人だな、まだここに住み始めて間もないわたしのことを心配してくれる。なんだかそのことで胸が温かくなる。
白石さんや堤さんがとても親切に接してくれるのが心強かった。今までこんな風にわたしを気遣ってくれる人なんていなかったから、心がくすぐったくなるほど嬉しかった。
「はい」
もう一度軽く会釈して、わたしは階段を上っていった。顔が変に見えなかったか気になりながら、三階へ向かう。
階段を登っている途中、二階の踊り場の照明が切れかかっているのか、カチカチッと点滅している。一瞬暗くなるたびに夜の闇が階段に零れ落ちてくるように感じた。そこを通り過ぎると、また明るい場所に出る。三階まで登って、廊下と階段を隔てるドアを開き三階の廊下に出た。
マンションの裏手はすっかり夜闇に沈んでいる。真下の家屋の窓は暗くて、人気を感じない。向こう側の道路越しから建屋が見える。遅くまで開いている店があるのか、カーテンを引いた大きな窓から光が漏れて見える。その店がある通りは煌々と光を点す外灯に照らされていた。
今度の土日にでもあの喫茶店っぽい店に入ってみようと思いながら、三〇三号室のドアを開いた。
玄関で靴を脱いでちゃんと揃えておくと、下駄箱の上にバッグを置いて中からスマホだけ取り、まず電気を付けた。そのままキッチンに向かう。
冷蔵庫を開いてジュースのパックを取り出した。ストローでジュースを飲みながら、ローテーブルの上に置いたリモコンを取り、テレビの電源を入れる。この流れが帰ってきたわたしのルーティンだ。
一息吐いたら部屋着に着替え、シャツを洗濯機の中に放り込んだ。
「おなか空いたー」
呟きながら、また冷蔵庫を開き、何か食べるものはないか探す。コンビニに寄って何か買ってから帰れば良かったかなと、野菜を物色しながら思った。買い置きのソーセージとキャベツを取り出した。朝炊いたご飯がまだ炊飯器に保温されて残っている。一人暮らしは多少ずぼらでも誰も何も言わないのが気楽だった。毎日蔑まれて生きてきた二十年間から嘘みたいに解放されて、自由を満喫している。
キャベツを刻もうとまな板を出したとき、インターフォンが鳴った。自動ドアのオートロックからの呼び出し音じゃなくて、玄関のドアに据え付けられたインターフォンからの音だ。
堤さんかな、とわたしはすぐに包丁を置いて玄関に向かい、ドアを開けた。いちいちインターフォンで答えなくても、このマンションでわたしを訪ねてきてくれるのは堤さんくらいだ。
「どうしたんですか?」
ドアを全開にして、玄関の前に立つ堤さんに挨拶すると、彼女がにっこりと微笑んで両手に持った鍋を差し出した。
「また作り過ぎちゃった」
そんなことを言いながらはにかむ堤さんはとても優しい顔をする。わたしは、堤さんのことを今では本当の姉のように感じ始めている。別にご飯に釣られているわけじゃない。堤さんはご飯だけじゃなく、わたしの話をちゃんと聞いてくれる人だ。
「いつもありがとうございます。あの、お茶飲んでいきますか?」
わたしの言葉を、堤さんは丁寧に断って、「じゃあ」と言って去って行った。
一度くらい、部屋に上がってお茶を飲んでいってもらいたかったから、それが少し残念だった。
わたしは鍋をローテーブルの上に置いて、蓋を開けた。ほわほわと湯気が立ち上る。食欲を刺激する香りにじゅわっと口の中につばが溢れた。
「おいしそう。ビーフシチューだ」
茶色いブラウンソースの中にジャガイモやにんじんが見える。
お風呂に入ってから、ゆっくりテレビを見ながら食べようと思い、一旦鍋をコンロの上に置いてから下着を持って風呂場に行った。
風呂から上がり、濡れた髪のまま、ローテーブルの前に座って、皿に盛り付けたビーフシチューを食べ始める。テレビのチャンネルを変えながら、面白そうな番組を探す。こんなことまでわたしには贅沢な時間に思える。
テレビの中のタレントがしゃべる声に混じって、また男の人と女の人の話し声が聞こえ始めた。
話し声はまるでわたしが帰ってきたのを見計らっているように思えた。
テレビのボリュームを上げれば聞こえなくなるかもしれないけど、そうすると騒音の発生源が自分になってしまう。わたしは四つん這いになって、三〇四号室に隣接した壁に耳を近づけると、より声が大きくなった。
やっぱり隣りだと確信する。声はずっと同じ調子で続いている。ご飯を食べ終わって食器を洗った後も声は漏れ聞こえてくる。ロフトに上がって横になってもずっと途絶えることがない。
日に日に声は大きくなっていっている気がする。そのうち話の内容も分かるんじゃないだろうか。微妙な大きさの声に、わたしはなんだか実家にいた頃の自分を思い出した。
わたしもネチネチと家族から説教されることがよくあった。そういうときの家族はとても楽しそうだった。わたしを心配する振りをして一、二時間よくそんなに話すことがあるなぁと感心するくらい、家族はわたしを静かに罵るのが好きだった。こんなことだれかに話しても信じてもらえないだろう。彼らは生き生きとした表情を浮かべて、わたしを正座させ自分は椅子に座り、わたしの生き方を、同時に性格を非難した。
でも、もうそんな生活は来ない。二度とあの家には帰らないと決めたからだ。だからどうしてもここにいたい。話し声がうるさいくらいで出て行くなんて考えられなかった。それに、声の調子からすると、男の人が一方的に女の人を責めているように感じた。きっとわたしは女の人に自分を重ねているのかもしれない。白石さんに注意してもらって、こんなことをやめさせたいと思う。
声を聞きながら考えているうちに瞼が重たくなってきた。
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