2

 後は警察から返却されたビデオテープを管理室に戻すだけだ。

 結局あれから寝ないで起きていた。今日はぼんやりとして仕事に身が入らなかった。疲れ切った頭で無意識に白石は鍵を使ってエレベーターへのドアを開けた。ガチャンと鉄扉が音を立てて閉まる。ベージュに統一された一畳ほどのスペースにエレベーターと階段へのドアがある。


 エレベーターの上ボタンを押す。すぐに扉が開いた。デフォルトで一階に停止しているはずなのに、白石が地下駐車場に来る前に誰か利用したのだろうかと、ぼんやりと考える。


 乗り込む際大きな鏡が目に入った。扉の正面に鏡が取り付けてあったのだ。


 こんな鏡、あっただろうか? 白石はしばらく鏡を見つめていた。自分の姿が映っている鏡面、白石の背後で扉が閉まるのが見えた。


 ボタンを押そうと思って振り返ろうとしたとき、ぷんと焦げた臭いが漂った。白石は周囲を見ながら鼻を嗅いで、首をかしげた。ここまでボヤの煙でも侵入したのだろうか。


 ふっと気配を感じ、顔を鏡に向けたとき、鏡に自分以外のものが映り込んでいるのが目に入った。


 黒いマネキンが背後に立っている。思わず振り返るが、何もない。どころか、背後に一人分のスペース自体、ない。もう一度鏡を見ると、鏡に映る自分の背後に立つ黒いマネキンの腕が増えている。もう一体マネキンが重なり、腕を前に伸ばしているのが見えた。また振り返るが、何もない。


「え? え?」


 白石は振り返る度に、自分の背後で増え続けるマネキンの頭と腕に恐怖を覚えて、鏡から目をそらした。


 扉を開くボタンを何度も人差し指で押すが、扉は開かない。何度も何度も押し続けた。


『二十時以降のエレベーターの使用はお控えください』


 脳裏にフッと、言葉が浮かんだ。忘れていた。オーナーから言われた、このマンションに住む際の注意事項。


 背後の気配の圧が増してくる。目の端で黒い指がわらわらと蠢いているのが分かる。同時にさわさわと何かが背中を引っ掻いている。


 白石は開けるボタンを諦めて、一階のボタンを何度も押す。すぐにガクンと振動と共にエレベーターが動き始めた。上昇している間も、白石は開くボタンを押し続けた。


 背後の気配が、白石の背中を強く掻きむしり始める。腕を伸ばして鏡から身を乗り出したマネキンの、無数の手が自分の背中を掴もうともがいている様子が脳裏に浮かぶ。


 開いて開いて開いて開いて


 頭の中で念じながら、止まらずに上昇を続けるエレベーターの開くボタンを必死で押し続けた。


 背中を引っ掻いている指が服を摘まみ初め、何度も引っ張ってくる。


 白石の額を脂汗がじっとりと滲む。塩辛い体液がまなじりを伝って垂れ落ち、目の中が痛い。痛くて涙が溢れてくる。


 開いて!


 ようやくエレベーターが静かに止まり、扉が開いた。と同時に、白石は外へ転び出た。


 服をつまんでいた指が名残惜しそうに背中から離れる。


 白石は後ろも振り返らず、階段を駆け下りた。息を切らしながら、エントランスを横切って玄関を飛び出した。マンション前の道路に出て、初めて足を止めた。後ろを振り向き、玄関の右手にあるエレベーターを見つめた。


 心臓の音が高らかに鳴っているのに今になって気付いた。何度も深呼吸をして、呼吸を整える。


 背中にまだつままれた感触が残っている。白石は黒いマネキンを思い出して、全身総毛立つ。怖気に首筋がむずむずした。


 身動ぎもせず、じっとエレベーターを見ていたが、もしも、あの鏡が勝手に取り付けられたものなら、取り外さなければならない。考えただけで呼吸が乱れた。


 ゆっくりと玄関に寄っていき、ガラス越しにエレベーターを眺める。勇気を出して確認しなければならない。


 玄関を開けてエレベーターに近づくことが、なかなか出来そうにない。しかし、管理担当者として不審物は取り除かねばならない。何度も息を吸っては吐いて逡巡していたが、意を決してマンションの中に入ることにした。


 鍵を差す手が震えている。自動ドアが開き、白石はエントランスへ足を踏み入れた。用心深く空気を嗅ぐが焦げ臭さはなかった。背筋が泡立つような感覚もなく、不穏な気配も感じ取れなかった。もういないかもしれない。ただ、エレベーターを開けるまでは分からない。


 指を伸ばして、開くボタンを押すかどうか迷う。何分何秒、指を伸ばしたまま躊躇っていただろうか。しかし、いつまでもこのままではいられない。


 押すしかないと白石はぐっと指をボタンに押しつけた。


 静かに扉が開く。目をそらしていたが、勇気を振り絞ってエレベーターの中に目を向けた。


 鏡はなかった。黒いマネキンもなかった。拍子抜けして白石は呆然と中を眺めていた。あれは一体何なんだろう。鏡がなかったことに少し安心した。


 いきなり自動ドアが開く音がして、心臓が飛び出すくらい驚いた。反射的に振り返ると、亜都里が立っているのが目に入った。


 亜都里が頭を軽く下げる。


「こんばんは」


 不思議そうな顔をして、白石を見ている。白石は慌てて挨拶を返した。その間にエレベーターの扉が閉まる。


「中里さん、お疲れさまです」

「こんな時間にエレベーターの点検ですか?」

「え? ああ、ちょっと確認してたんです」

「夜になると故障するんですよね?」


 故障? と白石は首をかしげる。


「二十時以降は乗れないんですよね」

「ああ……、そうですね」


 白石は気を取り直して、亜都里に説明する。


「不具合が出るんですよ」


 その不具合は霊的なものかもしれないと内心思う。ただそれを告げることは出来ない。さすがに幽霊がなどと言うと亜都里を怖がらせてしまうだろうし、根拠がない。最悪、自分の頭を疑われてしまう。


 すぐに階段に向かうと思っていた亜都里が、白石に近寄ってきて困ったような表情を浮かべた。


「どうかされました?」

「あの、騒音のことなんですけど……」


 注意事項の騒音のことを指しているのだろうか。


「騒音がどうかしましたか?」

「隣の部屋から夜中までずっと話し声が聞こえて……白石さんから注意できませんか?」


 白石は隣室と聞いて、三〇二号室の川添を思い浮かべた。


「分かりました。わたしのほうで注意いたしますね」


 そういうと、安心したのか亜都里の表情が明るくなった。


「お願いします。それじゃあ、お疲れさまでした」

「あ、あの、何か変わったことがあったらいつでも連絡ください」

「はい」


 軽く頭を下げて、亜都里は階段を上っていった。


 このマンションの騒音クレーム、ほぼ全戸から訴えられている。どれも話し声に関することで、テレビや足音、家具を動かすような生活音ではない。


 ただ、亜都里の部屋に関するあることを思いだして、白石は顔をしかめた。


 亜都里の部屋の床には穴が開いている。あの穴はまずい。亜都里はまだ気付いてないのだろうか。内見のときどうしても中に入られなかった。穴の中がどうなっているかは分からないが、玄関にいて尚感じる禍々しさに鳥肌が立った。


 どうせ、亜都里もいずれ出て行くだろう。前住人のように、引っ越していく気がする。自殺や失踪さえしなければ、それでいいと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る