6
ずいぶん仕事もスムーズに出来るようになってきた。相変わらず残業はないけど、一日の業務を終業時間までに終わらせられるようになった。
いまだに川添さんはよそよそしい。会えば挨拶するし、昼休みにも一緒にご飯を食べて話をする。それでもなんだか踏み込んだ話が出来ないでいる。
別に私の実家の話をして愚痴を言いたいわけじゃない。それともこのくらいの距離感が普通なんだろうか。中学高校と昔のわたしのことを知らないクラスメイトと円滑な人間関係を築けていた割りに、わたしは友人を作るのが苦手だった。
小学生の頃、いじめっ子を助けてしまって夢の結末を変えてしまったから、わたしは大けがを負った。それがある意味怖いのかもしれない。自己犠牲なんて偽善だって分かってたから、夢で起こる災厄を大幅に変えようと思わなくなったんだろう。
もしも、友人を作って、彼らが夢でとんでもない目に遭うのが分かったら、わたしはきっと助けたくなる。それで災厄がわたしに返ってくると分かってても、友人が恐ろしい思いをするのは嫌だ。でも、毎日見る夢を全て変えることで代償が大きくなれば怪我じゃ済まなくなる。死にたくないから、友人を作ることを諦めた。
川添さんがわたしと親しくしようとしないのは、わたしにとってラッキーなことなのかも。夢が本当になるなんて他人に話せないし、気味悪がられるだけだ。この二週間でいろいろと悩んだけど、わたしも川添さんとあまり親しくならないことにした。
そう決めたある夜、わたしは夢を見た。
目を開けると、体が動かなくなっていた。暗闇の中、目に入る全てのものがモノクロに沈んでいる。
夢だと思ったのは、ロフトで寝ているのに下の様子が手に取るように分かったからだ。
コントラストや彩度がおかしい視界じゃなくて、どんなものも白と黒にしか見えない。やがて暗闇で目が慣れるように、モノクロからうっすらと灰色を帯びた風景に変化した。モノクロ写真のような見え方じゃない。どちらかというと、普通の風景に灰色のセロハン紙をかぶせたような見え方だ。
階下の床に丸い穴が開いている。真っ黒い穴の中で何かが蠢いているように見えた。ペタペタと音がして穴の縁に四本の細長いものが現れた。穴の円周に、黒い細長いものが触手のようにわらわらと群がっていく。
あれは何だろうと、好奇心からじっと見ていると、四本の細長いものがやがて五本になり、縁からどんどん外側に伸びてくるにつれて、それが手だと分かった。
黒い手が指を床に這わせながら蠢いている。やがて現れた腕はとてつもないほど長く、次々と穴から這い出てくる。五本の指が爪で床を引っ掻き、腕を引きずる。まるで巨大な蛇が何匹も穴から這い出てくるように。
徐々に腕の一本がロフトに続く階段を上り始めた。長い指が黒いプラナリアみたいに蠢いている。
わたしは息を殺して階段をよじ登る腕を見つめる。実際は頭の中に見える映像を眺めながら、どうすることもできなくて震えるしかなかった。
カリカリ。
爪が階段の縁を引っ掻く。
カリカリカリカリ。
ロフトの床を音を立てて這ってくる。
声を上げたくても声帯まで思うとおりにならなくて、唸ることしか出来ない。
腕は長い指を伸ばして、とうとうわたしの足先まで迫ってきた。わたしは懸命に足を引っ込めようと頑張った。黒い指の爪がチクッと左足の甲を鋭く刺した。
痛いっ。
声にならないかすれた息が口から漏れた。
爪が肌に食い込む。ガリッと皮膚を引っ掻きながら、足首を掴んだ。熱いのか痛いのか、どちらとも取れる感覚にわたしは思わず叫んでいた。
叫びながら、わたしは目を開けた。喉からは弱々しく息が漏れている。びっしょりと汗を掻いているのが分かる。足首はまだ痛い。勢いよく起き上がって間接照明を付けた。枕元が明るく照らし出される。
布団をめくって、左足を引き寄せた。スウェットの裾をまくり上げると、赤く手形が付いていた。赤いだけでなく、所々水ぶくれのようになっている。まるでやけどみたいだ。じんじんと痛みが走る。足の甲にもミミズ腫れが出来ていた。
足を冷やすべきなのか、それとも絆創膏を貼るだけで良いのか、全然分からない。
とりあえず夢日記を付けようとスマートフォンのメモ機能を起動させた。そこではたと思い出した。
「あれ? これ……」
夢の内容にデジャヴを感じる。メモした過去の夢を確認してみると、同じ夢を一日おきくらいに見ていることに気付いた。すぐに気付かなかったのは前に見た夢の続きだったからだ。足首を掴まれたのは今日が初めてだった。何故日記を付けるまで忘れていたんだろう。いつも目が覚めてから気付いている。
それにしても、この夢は何を意味するんだろう。やけどに注意しろと言うことだろうか。それともやけどを負うような火に気をつけろと? それなら火に関する夢を見るはずだ。でもそんな夢、初日に見た夢以外に見たこともない。
ロフトの柵越しに見下ろした。穴はテーブルより左側に開いていた。わたしはロフトを降りて、穴を隠すようにテーブルをずらした。
ふと気付くと、壁越しに話し声が聞こえてくる。会話の内容は、いつもと同じようにやっぱり聞き取れない。こんな夜中まで何を話しているのか気になったけど、朝までずいぶん時間があるからもう少し寝ていようとロフトに上がりかけた。
いきなり、ものすごいベルの音にわたしは飛び上がって驚いた。
「何? 何……!?」
聞き慣れない音に狼狽えていたけど、火災報知器の音だと気付いて、心臓がどくんと跳ね上がった。
「火事!?」
夢の通りになった! やっぱり火に関する夢だったんだ。やけどのような傷を負った足首がずきんと痛む。今は手当どころではない。わたしは慌てて玄関に向かった。コートかけに提げたバッグをひっつかんで、廊下に出た。
「中里さん」
同じく青い顔をした川添さんが廊下に出てきた。三○一号室の住人も一緒だ。私たちは慌ててエレベーターへ走り、ボタンを押した。エレベーターが全く反応しない。
「なんで? なんで?」
必死で押していたら、川添さんがわたしの肩を叩いた。
「火事だから。階段で降りよう」
その言葉で、火事や地震の時、エレベーターが緊急停止するのを思い出した。
「はいっ!」
転げるように階段を駆け下りる。上階の住人も階段で降りてきていた。わっとなだれ込むようにして、私たちは外に出た。
夜気が肌に寒い。火元を無意識に探す。地下駐車場から白い煙が立ち上ってきていた。
「なんだろう……」
わたしの背後に川添さんが立って呟いた。
「な、なんでしょう……」
何が燃えているのか分からない。車が燃えてるんだろうか……?
しばらくすると、サイレンが聞こえてきて消防車がやってきた。火を消す準備が整うと、消防隊員が煙の出ている地下に降りていった。
ものの十分もしないうちに消防隊員が戻ってきた。煙もやがて収まった。車が燃えるような火事ではなかったのだろうか。
周りを見回すと近所に住む大勢の野次馬が、消防車やマンションを眺めながら話をしている。ガヤガヤとする人達の間をかき分けて、わたしはマンションのオートロックを鍵で開けて中に入った。そういえば堤さんは逃げられたのだろうかと外を見てみたけど、人がごちゃごちゃと入り交じっているせいで見つけられなかった。
ぼんやりエントランスに立っていると川添さんが入ってきた。
「すごい騒ぎだったね」
川添さんが外を気にしながら声をかけてきた。
「火事、大丈夫だったんでしょうか……」
「聞いたら不審火みたいだって。またゴミ収集所で喫煙したヤツがいたんじゃない?」
確か、注意事項のひとつにそんなことが書かれてあった。
「前も何度か同じ騒ぎがあったんだよね。ほんと、いい加減にしてほしいよ……」
川添さんがため息を吐いて、階段を登っていった。
それ以上のことは分からないまま、わたしも部屋に戻った。
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