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 入社式の日の午前中は業務がなく、午後に配属先の社員と顔合わせがあった。


 わたしは営業事務として研修を受けることになり、教育担当として隣室の住人、川添美海子かわぞえみうこ先輩が紹介された。多分、偶然じゃなくて隣室同士だから、と言う理由だと思う。




 社宅に住み始めた翌日の夜、ちょうど三〇二号室のドアが開閉する音がしたのだ。テレビを見ながら夕ご飯を食べていたわたしは、慌てて引っ越し挨拶のタオルを手に取った。帰ってすぐにインターフォンを鳴らすのは気まずいかも知れないと思って、息を殺す必要もないのに静かに十分ほど待ってから、ようやく玄関を出た。


 インターフォンを鳴らして出てきた女性に、タオルを渡す。


「昨日越してきた中里亜登里です。よろしくお願いします」


 引っ越しの挨拶はこれでいいのか分からなかったけど、隣室と言うこともあって気を遣わなければいけないと強く思っていたから、余計なことを言わないように細心の注意を払ったつもりだった。


「中里さん……、こちらこそよろしくお願いします。え、と……わたしは川添美海子かわぞえみうこです」


 川添さんはわたしをじっと見て続けた。


「一人暮らしは初めてですか?」


 わたしは川添さんの言いたいことが分からなくて戸惑った。


「じゃあ、注意事項教えてもらったでしょ? あれ、守っておいたほうが良いですよ」


 確かにここに入居した当日に白石さんから注意事項が書かれた紙をもらっていた。その紙は玄関の靴箱の上に置いてある。


「え……? あの、それって……」


 不思議に思って訊ねたら、川添さんがドアをもう少し開けた。


「エレベーターだけど、わたしも越してきたばかりの時に一回だけ間違えて、二十時以降にエレベーターに乗ったんですよ。でもドアが閉まらなくて。あれって、多分壊れてるからですよ。まぁ、階段のほうが運動になって良いですけどね」


 日頃から階段を使っていると川添さんが言った。

 階段を使うと決めていたら、注意事項の一つ目は気にしなくて良いかもしれない。自分も階段を日頃から使うようにすれば、エレベーターが故障して閉じ込められるような危険を避けられるだろう。


「あと、このマンション、音が響きやすいのか、結構騒音のクレームがあるみたいだから、気をつけて」

「あ……はい、分かりました」

「隣室になったのも何かの縁ですし、仲良くやっていきましょう」


 親切に注意事項の詳しい情報を教えてくれ、「じゃあ」とドアを閉めた。四〇三号室の堤さんと比べてそっけないけど、普通はこんなものだろうと思い直して、部屋に戻った。


 その後、四月一日の入社式までに廊下で何度かばったり出くわしても、お互い軽く会釈する程度だった。


 堤さんは相変わらず作りすぎた料理を容器や鍋ごとお裾分けしてくれた。貯金を崩して生活しているから、堤さんの親切に思わず甘えてしまう。


 その堤さんと川添さんを比べてしまうわたしがいる。せっかく同じ会社に勤めているから、もう少し親しくなりたいというのが本音だった。でも、お互い知り合って間もないから仕方ないか。


 それにここに来て変な夢を見たのは初日だけだから、このまま落ち着いてほしい。初日に見た夢はちょっと怖かったし、もう二度と見たくない。


 そこまで考えて、わたしは軽く頭を横に振った。夢のことは考えないようにしよう。


 新天地で悪夢が現実になるかどうかを心配したくない。ここに来て見た初めての夢はあまりに非現実的だった。だからあれは普通の悪夢なんだろう、そう考えてわたしも部屋に戻った。





 入社して一週間が経った。覚えることが多すぎて、毎日処理と手続きに追われている。教育係の川添さんに出来上がった書類のチェックをしてもらいに席を立った。


「川添さん、お願いします」


 書類を受け取った川添さんが、営業さんが発注してきた内容を記載した発注用紙に目を通す。


「うん……、だいぶん慣れてきたね」

「……はい!」


 自分に自信が持てなくていつもおどおどしてしまうけど、川添さんにオーケーをもらえると素直に嬉しい。彼女は特に厳しくないし、かといって甘いわけでもなく、淡々と教えてくれる。それが返って私には合っているように思えた。


 毎日少しずつすることが増えていく。それでも研修中なので残業することもなく終業時間が来れば、川添さんから帰るように促された。わたしも最初は残業する川添さんに悪いと思って残ろうとしたけど、「怒られるのはわたしだから」と尻を叩かれ、それからは自主的に帰るようになった。


「まぁ、じきに残業しないと業務終わらない日が来るから、帰れるときは積極的に帰ったほうが良いよ」


 わたしがテレビを見ながら夕飯を食べている時間帯、だいたい二十時くらいにいつも三〇二号室のドアを開閉する音が聞こえる。自分もそうなのに、その音を聞くたびにぼんやりと「営業事務は大変だなぁ」と思ってしまう。


 研修期間は一ヶ月。ゴールデンウィークが明けたら一人で仕事をしないといけない。それまでに業務内容を覚えてしまわないと、と心を引き締めた。


 今日も、残業する川添さんに挨拶をして定時で上がった。会社から歩いて十五分の場所に社宅があるのはとても便利だ。社宅が近いから残業したとしても気が楽だ。通勤に費やす時間で一日が逼迫するのに比べたら雲泥の差だ。


 夕飯の材料を買ってから帰路につく。まだ十八時半なので気にせずエレベーターを使った。


 壊れてるかもと川添さんは言っていたけど、昼間は何の問題もなく動いてるから、どこが壊れているのかと不思議に思う。三階で降り、廊下を渡って部屋の鍵を開けて中に入ったとたん異臭が鼻を突いた。


 慌てて鼻を手で覆う。

 何かが焦げた臭いだ。煙はなかったけど、何が燃えているのか慌てて部屋に上がり、火元を探そうとした。


 キッチンを見たけど、IHコンロはスイッチが消されているし、風呂場にも異変はない。


 気がつけば臭いは消え去っていて、何が原因なのかもう分からなくなっていた。


 落ち着いて部屋を見回す。ローテーブルの脇に積み重ねておいたクッションが四方に散らばっていた。わたしはクッションをひとつ持って、気がついた。


 クッションの端が少し焦げている。他のクッションやぬいぐるみも見てみたけど、全部端っこがわずかに焦げていた。


 火が出るような延長コードもないし、第一わたしはたばこすら吸わない。眉を寄せて、テーブルをずらした。もちろん疑わしいものは何もなかった。


 わたしは考えられる問題を思いついて、怖くなった。


 まさか、だれかが留守の間に部屋に入ったとか?


 もしそうだったらどうしようと考えながら、クッションとぬいぐるみを元の場所に戻した。もし何度も続くようなら白石さんに電話しようと決めた。


 ふと気付くと、微かに生活音が聞こえてくる。三〇二号室からじゃないのははっきりしている。川添さんはまだ会社だろう。生活音はここに越してきた頃から


毎日聞こえてきているけど、今日みたいに気にしたことはなかった。テレビを付けたり何かに集中していれば、全く気付かないくらい微かな音だったから。


 でも今日はなんとなくいつもより大きく聞こえてくる。人の話す声だ。なんと言っているか分からない。隣の部屋から聞こえるテレビの音みたいな感じだ。


 同じ階の隣室なら、社宅の住人と言うことになる。どこの部署の人だろう……。


 冷蔵庫に買ってきた食材を入れる為、床に放り出していたコンビニ袋を手に取って、冷蔵庫を開けた。


 食材を詰め込み、扉を閉めたときに冷蔵庫にテープで貼ったマンションの注意事項が目に入った。


『夜間の騒音は住人のみなさんのご迷惑になりますのでお控えください』


 わたしはジュースをローテーブルに置き、脇に置いたクッションに腰を下ろした。ここに越してからほとんど習慣的に、リモコンを手に取ってテレビの電源を入れた。


 実家にいた頃、テレビなんて部屋になかったし、自分の見たい番組なんて見られないのが普通だった。リビングに集まってテレビを見る家族団らんの輪にも入られなかった。


 ゆっくり好きな番組を見るのは引っ越してきて初めてのことで、テレビを付けているとなんとなく安心した。やっぱりまだ慣れていない部屋で無音のまま過ごすのは寂しい。静けさが鼓膜に当たって痛くなるほど、一人きりだと知らしめてくる。元々孤独だけど、一人が好きというわけじゃなかったから、人の会話を聞くのは嫌いじゃない。隣室の会話もテレビを付ければかき消える。何を話しているか気になるけど、聞き耳を立てるほど悪趣味じゃない。


 それにあんまりうるさいようだったら、これも白石さんに知らせたらいいか……、などとぼんやり考えた。





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