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「今、鍵を開けますね」
初めての場所でいろんなものが珍しくて、辺りを見回しているうちに部屋の前に来ていた。白石さんが、部屋番号のロゴが打たれたベージュの鉄扉を鍵で開ける。
鉄扉特有のきしみ音を上げながら、扉が全開になった。白石さんが鉄扉を背中で支えて、中に入るように促した。
「どうぞ」
不意に鉄扉の内側から焦げた匂いが吹き出してきて鼻を突いた。一瞬たじろいだけれど、臭いの元を探そうと鼻を嗅ぎながら部屋の中を見通した。すぐに臭いは途切れ、どこから漂ってきたのか嗅ぎ当てられなかった。
玄関に低い上がりかまちがあってそこで靴を脱いで、薄いベージュ色のフローリングを踏みしめた。ひんやりとしたフローリングの感触が足裏から伝わってくる。一歩二歩と廊下を進んでいくと事前にメールで送ってもらった通りの広いフロアが目の前に広がった。マンションの外から確認できたベランダに繋がる掃き出し窓は大きくて、落ち着いた色合いのカーテンの隙間から差し込んでくる太陽の柔らかい光が部屋中に満ちている。
春の西日はほんわかと温かく、足下から這い上がる冷たさを和らげた。部屋の中央に立っていると、少し鳥肌が立つような寒さがあったので、ベランダ側に退いて改めて内装を眺める。
フロアには片隅に寄せられた楕円形のローテーブル、壁際にはアンティーク調のチェスト、反対側に小さめの液晶テレビ。ちょうどロフトの真下にウォークインクローゼットが備え付けられている。フロアにあるキッチンにはIHのコンロがひとつと流しがあった。キッチンの横には一人暮らしにしては大きめの冷蔵庫もおいてあった。自分だけの冷蔵庫だと思うと嬉しくて、中を見てみた。そこにどんな食材を入れようかと想像を膨らませる。実家では食べられなかった自分の好物を作り置きしようと考えて胸が躍った。システムキッチンの横にラックがあって、湯沸かしポットと炊飯器、トースターまであった。本当に前の住人は何もかもおいて退去したのだ。わたしにとってそれはとんでもなくラッキーだ。使用感のあるものだろうと、これからの生活のことやお金のことを考えるとむしろありがたい。
急な階段を上がると実家の部屋より広いロフトがあり、背の低いカラーボックスが壁際に三個置いていて、中は空っぽだった。残念ながら布団は処分されていたので、頭の中の買い物リストに加えた。
ロフトは奥まっているせいか、少し薄暗かった。間接照明がいるなと思い、それも買うことにした。
ロフトから降りて今度は風呂場を見に行く。風呂場に入る手前に洗面台と脱衣所があり、洗濯機も備わっている。風呂とトイレが別になっていて、実家の風呂場よりも真新しく広くて驚いた。
新生活をこんなに綺麗なところで暮らせるのが嬉しくてたまらない。
1Kロフト付き。家具や家電も付いて月二万円は破格だ。社宅のことを教えてもらえて良かった、聞かなかったら知らないままだった。聞かないままだったら、今頃住むところにも困っていたかと思うと背筋がひやりとしてくる。
だから白石さんが玄関に佇んだまま中に入ってこないこともぜんぜん気にならなかった。
「すごくいいですね。内見できて良かったです」
「気に入っていただけて安心しました」
玄関から一歩も動かず、白石さんが手に持った封筒から書類を取り出した。
「簡単にご説明しますね」
そう言って文字が印刷してある紙をわたしに手渡した。
「三つ注意事項がありまして……」
と言って、紙に書いてある文字列を読み上げた。
『二十時以降のエレベーターの使用はお控えください。ゴミ集積所での喫煙はご遠慮ください。夜間の騒音は住人のみなさんのご迷惑になりますのでお控えください』
どれもありがちな内容だったけど、エレベーターのことだけ引っかかった。
「二十時以降、エレベーター使えないんですか?」
素朴なわたしの疑問に、白石さんが説明してくれた。
「オーナーさんからのお願いなんですよ。二十時以降に利用すると不具合が出るらしくて」
「不具合? 故障してるんですか?」
「故障というわけじゃないんです。とにかく夜の利用は控えてほしいとだけ」
オーナーさんの都合では仕方ない。別に三階まで階段で上がるのは苦じゃないので、素直に注意事項を守ることにした。
それに実家にいた頃のことを思うと、エレベーターに変な決まり事があるくらいでここに住むことをやめたり渋ったりするのは馬鹿らしい。義姉や家族から毎日軽んじられ物置に追いやられて自由な時間が少なかったことに比べたら天国だ。
ここではもう自分を押し殺したり、家族のわたしに対する仕打ちを気付かないふりをしないでいい。それだけで、救われた気分になる。
「それじゃあ、これがここの鍵です。何か分からないことや困ったことがあったら、いつでもこの電話番号に連絡を下さい」
白石さんから電気水道が使えることを教えてもらい、ガス開栓の仕方やシステムキッチンの取扱説明書などの書類と、まるで宝物のように見える銀色の鍵を受け取った。単なるステンレスの鍵なのに、わたしにはキラキラとした特別なものに見えた。
大切にしようと思うと、自然に口元が緩んだ。
「一人暮らし、初めてですか?」
白石さんが鍵を握ってにやけているわたしに聞いてきた。生まれて初めての一人暮らしだが、不安はひとかけらもなかった。
「はい、でもすごく楽しみです」
すると、白石さんが真顔になって話しかけてきた。
「本当に困ったことがあったら相談してくださいね。電話、して下さいね」
白石さんはとても心配性なのか、それともこれも仕事のうちなのか、わたしには判断が付かなかったが、彼女の気迫に押されてうなずいていた。
わたしの反応に安心してくれたのか、白石さんが微笑んだ。
「これから買い物ですか?」
布団や生活用品を買おうと思っていたので、その通りだと返事をした。
「散歩してみようかと思ってます」
「いいですね。この辺り、古い町並みが残っていて結構ノスタルジックな雰囲気ですよ」
白石さんにいろいろと教えてもらって、スーツケースを部屋に残して一緒にマンションを出た。彼女の車を見送ったあと、ここからが一人暮らしの第一歩だと奮起して、買い物の為に繁華街へ足を向けた。
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