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 デパートで引っ越しの挨拶に無難なタオルを買ってきた。生活用品を両手に提げて持ち帰り、布団一式は明日配送の手続きを取った。明日からは多分マンションで暮らせると思う。ただ今日は布団とバスタオルがないので、ネカフェで一泊することにした。


 とりあえず、手土産のタオルを手提げ袋に入れて挨拶回りに廊下に出た。退社時には少し早い時間だったせいか、三〇二号室は留守だった。二○三号室は空き室で、その証拠にドアノブにガス開栓の案内の用紙が紐で下げられている。改めて出直すことにして、最後に三〇三号室の上階に当たる四〇三号室のインターフォンを鳴らした。二回ほどインターフォンを鳴らしてみたがなかなか出てこないから、もしかするとこの部屋も今は留守なのかもしれない。そう思ってドアから離れたとき、錠の外れる音と軋みながらドアが開く音が背後でした。


 ハッとして振り返ると、赤いセーターを着た女性がドアを開けてわたしを見ていた。


「どなたですか」


 女性に声をかけられて、慌てて駆け寄って頭を下げる。


「あの、三〇三号室に越してきた中里です。これ、つまらないものですけど」


 手提げ袋から包みをひとつ取って、両手に持って差し出した。


「下の部屋、新しく入居されたんですねぇ。わたし、堤と言います。よろしくね」


 女性は多分三十代後半で、長い黒髪を耳にかけている。優しい声音が耳に心地よくて、何故か緊張がほぐれていく気がした。


「下の部屋って言うことは、社宅に入られたの?」

「はい。オリエント株式会社です。今年からここで働くことになりました」


 堤さんってなんだか話しやすい人だなと思いながら、挨拶を済ませてそれじゃあと頭を下げたとき、堤さんが「あのぉ」と遠慮がちに言いよどむ。


 何だろうと思っていると、堤さんが恥ずかしそうに口を開く。


「わたし、お料理作り過ぎちゃうから、出来たらでいいんだけど料理をお裾分けしたいの」

「え……と」


 困惑して口ごもってしまう。でも、堤さんのはにかみながら話す言葉に、なぜだか強く惹かれてしまった。彼女の言葉を漏らさず聞こうと耳をそばだてた。


「今ビーフシチューを煮込んでる所なんだけど、寸胴鍋で作っちゃって、ちょっと……、ね?」


 寸胴鍋というとレストランで見かける大きな鍋のことだ。それいっぱいにビーフシチューを作っていると言うから、想像して少しおかしくなってしまった。


「ビーフシチューは好き?」

「はい、大好きです」


 すると、ドアの隙間からビーフシチューの良い香りが漂ってきた。


「良かった。じゃあ、このあと持っていっても良いかな?」

「わたしで良ければ……」

「良かった! じゃあ、出来上がったら持って行くわね!」


 相当嬉しかったのか、堤さんが両手を胸の前で組んだ。


「とっても助かる」


 どれだけ作りすぎたのか聞かないほうが良いだろう。わたしは少し苦笑いを浮かべた。それでも、わたしのことを全く知らない新天地で新たな人間関係を、円満なコミュニケーションが出来る関係を作れると分かって、激しく心が揺さぶられた。


 地元の知人達には変な子供という目で見られてきた。まだ分別が付いていないときにやらかした失敗や昔のいじめっ子のせいで、地元にはわたしの居場所はなくて、家でもいないものとして扱われるか、家族の優越感を満たす為の存在として扱われてきたから、堤さんに純粋に優しく接してもらって、わたしは簡単に感激してしまったのだ。


 白石さんにしても、田舎よりこうした小都市部の人のほうが心が広いのだろうか。わたしなんかに優しくしてもお返しするものなんてないし、思いつかないのに。


「わたし、お料理をするのが趣味なの。ただ、一人じゃ食べきれないくらい作っちゃうから、もらってくれるとすごい嬉しい」


 本当にそう思っているみたいで、声が弾んでいるように思えた。


「こちらこそありがとうございます」


 堤さんの優しい言葉がわたしの心に染み入ってきて、優しくされるのがこんなに温かなものだったんだってしみじみ思ってしまう。


「わたしで良かったら……」


 もう一度頭を下げると、部屋に戻った。




 買ってきたものをひとつずつ開封して、一度洗う為に流しに置いていった。生活を一から始めるのにこんなにも生活用品が必要なんだと、流しに積み上がった皿や鍋などを見て思う。水切りラックを設置して洗い物をしていると、直接玄関ドアのチャイムが鳴らされた。


 もしかすると堤さんだろうか。急いで手を拭いて玄関のドアを開けた。案の定、堤さんが容器を持って立っていた。


「早速持って来ちゃった。どうぞ。お口に合ったら良いけど……」


 お礼を言って反射的に堤さんから容器を受け取っていた。


「電子レンジはある?」


 冷蔵庫の上に確か置いてあったと思い頷く。


「よかった。少し温めて食べると美味しいわよ。実を言うと、あなたの前に住んでた方……、竹田さんにいつも持っていってたの。捨てちゃうことになるくらいなら、食べてもらえるほうがいいもの」


 堤さんは前に住んでた人にもお料理をわけてくれていたんだ。親切な人だなぁと心が温まった。


「竹田さんが急に引っ越しちゃって、わたしも困っちゃってて。あ、食べたくなかったら無理しないで」


 一人暮らしで右や左も分からない今は、堤さんの優しくて親切な申し出はとてもありがたかった。


「前の住人、竹田さんとおっしゃるんですね。この部屋にある家具とかは竹田さんのものなのかなぁ……」


 わたしが呟くと、それを聞いた堤さんが意表を突かれたようなきょとんとした顔つきになった。


「家具を置いて引っ越しちゃったんだね。なんでそんなに急いでたのかな」

「どうしてでしょう……? でも、そういうふうに白石さんから聞いてます」

「白石さん……、親切よね。何でも相談に乗ってくれるから頼りにして良いと思うよ」


「また作りすぎたら持ってくる」と言って、堤さんは自分の部屋に戻っていった。


 早速容器をレンジに入れて温める。温かなビーフシチューをあっという間に平らげた。


 美味しい。もしかするとお店の味に匹敵するかも。料理が得意だなんてすごいなぁと感心しながら、キッチンの流しで容器を洗って水切りラックにおいた。





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