2
お迎えがないのはいつものことで、停留所から家に向かって歩いて帰る。今朝、挨拶を交わしたおじいさんの家の前を通り過ぎた。玄関の鍵をバッグから取り出してドアを開ける。すると、ちょうど母が黒い服を着て、どこかに出掛けようとしているところだった。
「ママ、おでかけするの?」
母が黒のパンプスを履いて、黒いバッグを手に取った。わたしを一瞥すると、何も言わずに出掛けてしまった。
あとから、お隣のおじいちゃんが事故で死んだと兄が言っているのを聞いて知った。
「事故見たヤツが言ってたけどさぁ。脳みそが出てたんだって」
わたしは忘れかけていた夢を思い出して、兄に釘付けになった。
そんな兄を、母がやんわりと叱っている。わたしと目が合うと、それまで笑っていた顔からスッと表情がなくなるのがわかった。
あれは話してはだめなものなのだと心臓がぎゅっと縮み上がる。
でも、寝てしまうといやでも見てしまうのだ。他愛ないことでも、その通りになると気味の悪い目を向けられた。そのたびに、わたしは泣きたくなった。夢を見て同じ事が現実でも起こる不安を、父母に話すことで安心を得たかった。でも、同じことを何度も積み重ねてわたしは学んだし、学んだ頃にはすっかり家族の中で孤立していた。
「パパもママも、なんで亜都里に冷たいの? 亜都里が変なやつでも家族なんだから仲良くしなきゃ」
食卓を囲んで夕ご飯を食べているとき、父母がわたしのことを無視するようになったのを見ていた兄が無邪気に諭した。その日、差別について考えるという道徳の授業を受けたようだった。
「竜樹ちゃんは優しいのね」
「そうだな、竜樹の言うとおりだね」
父母は兄を見て目尻にしわを作って兄に賛同した。けれど、その目がわたしに向けられることはなかった。兄だけがニヤついた表情を浮かべている。
「亜都里もさ、気持ち悪いこと言うのやめな。みんなが気味悪がっても俺だけはおまえのことよく分かってるから」
気持ち悪い虫にも五分の魂があると情けをかけるような、同情に溢れた瞳でわたしを見た。
その視線に背筋がもぞもぞとして落ち着かず、俯いてしまう。
「ほら、亜登里、竜樹にお礼を言いなさい」
父に促されて、わたしは「ありがとう」と小さく呟いた。
それ以外の言葉があったか当時のわたしには分からなかったし、今も分からない。兄が間違っているとはっきり言えただろうか。いまだにわたしはこの言葉に反論できずにいる。思い出すに付け、モヤモヤとした不快感が沸き起こる。けれど、その感情が一体何なのか、名前すら付けることが出来ずにいる。
字が書けるようになってまずわたしがしたことは、日記を付けることだった。大学ノートに見た夢のことを書くのだ。人に見せる為じゃない。夢の内容を覚えておく為に必要なことだった。
夢はいつも現実で起こるとは限らなかったし、いつ起こるのか予測もつかなかった。当日の時もあれば、何日も先のことだったりする。
夢で見るのは他人のことだけじゃない。自分のことも夢に見る。もし夢の内容を忘れてしまってうっかりしていると、失敗することもあった。
小学二年生になったわたしは、夢のことをクラスメイトに話しては気味悪がられるという失敗を繰り返し、クラスで浮いていた。まだ、このときは敬遠されるくらいでいじめられてはいなかった。
小学六年の時、昼休みの時に、委員長の女子が仲間と一緒にわたしを囲んで、言い放った。
「亜都里ってさぁ、今もひとをノロってるの? ノロイとかって性格の悪い人がすることだよ」
側にいたクラスの女子達がざわざわと「ノロイ?」と騒ぎ出した。
わたしは「呪ってないよ」と小さく反論した。わたしが夢のことを話していたのは低学年の時だけだ。今は極力夢の話をしないようにしていたのに、クラス替えで小学二年の時のクラスメイトと当たってしまったのが、良くなかった。
「じゃあ、里中はノロイ女だ! 気持ちわりぃ! おまえ、俺たちのことノロってるんだ?」
わたしを特にいじめていた男子が、わたしの左肩を右手で突いた。
「ノロうのは人間としてどうかと思いまーす」
ニヤニヤしながら、委員長が大きな声を上げる。騒ぎを聞きつけたクラスメイトがわらわらと寄ってきてわたしを囲んだ。好奇と恐れと蔑みと哀れみの視線がわたしに注がれた。わたしはみんなの敵意の目に狼狽えた。首を回してみんなの顔を見る。スッと無表情になってわたしを見つめている。両親と同じ目つきだ。
「ノロうって何?」
無邪気に訊ねる子達に、委員長が教える。
「亜都里は、他人が不幸になるようにノロうんだよ」
「えー」
何も知らなかった子達すら委員長が言うのだからと、わたしよりも委員長を信じた。
「おまえ、ひとのことノロうなよな!」
さらに肩を突かれて、わたしはよろけた。気味悪がった子達がわたしを避けて後退る。
「呪ってないよ……」
「ノロってるだろ!」
わたしの肩を小突いた男子が、さらにわたしの肩を強く押したせいで、尻餅をつきそうになって辛うじて机にすがった。
「ノロイ女、わら人形を作って、それでノロってるんだろ」
「ちがう……」
こうなると、誰もが興奮したように頬を上気させてわたしを見つめた。
彼は「ノロイ女」と言いながら、わたしが倒れるまで小突いた。
夢で見たことが本当になることをわたしは止められない。呪われてるのはわたしのほうだ。夢を見るせいで、わたしは家族からも孤立している。泣いても無駄なのはよく知っている。だからぐっと唇を噛んで耐えた。
悲しいことに夢は本当になる。誰にも言わなくても、夢の通りに怪我をしたり病気になったり。些細なことならクラスメイトが忘れ物をする夢まで見た。幼いときは教えてあげることで相手が気をつけてくれると思っていた。最悪を相手が回避してくれると。
でもそうはならなかった。夢の通りにみんなは動き、どうするかを選択する。みんなを変えることは不可能に近かった。
しかも、たとえ変えることが出来たとして、災難はいろいろな形でわたしに降りかかった。幸い今のところ、不審者に追いかけられるくらいで済んでいる。
学校生活は地獄だった。一人の男子からものを隠されたり突き飛ばされたり、精神的肉体的にいじめられた。最初のうちは我慢していたらいつか飽きてくれるんじゃないかと期待していた。でもそれは間違いだった。抵抗されないことで、彼は歯止めが利かなくなっていったのだと思う。
学校に行くのが苦痛で仕方なかった。けれど、自分の悩みを両親に訴えることも出来なかった。叱られるか無視されるだろうし、今以上に針のむしろのような毎日を強いられるかも知れない。幼いわたしには自分の心を言葉にすることが出来なくて、だれにも自分のつらさを訴えられなかった。
わたしに出来るのは、
いつものコントラストと彩度が少しおかしな、音も歪んで聞こえてくる世界。鉄骨や鉄柱が置き放たれ壁や屋根が崩れた大きな廃工場の敷地内を、いじめっ子の男子が仲間と一緒に歩き回っている。
すぐにこれは夢だと分かった。
何かしきりに仲間同士で話しているけど、音が膨張したり収縮したり、こもって聞こえてきて何を喋っているか分からない。わたしはやや俯瞰で彼らを見守っていた。
彼が仲間にもっと奥に行こうとでも言っているのか、鉄柱を乗り越えて奥へ奥へと進んでいく。
雑草が茂る空き地を横断し、足下にがれきが増えてくる。体のバランスを崩しながら、よろよろとがれきに登っていった。
がれきの山に登って、手に取った鉄棒でがれきを叩きまくっている。高揚としているのか、わたしをいじめているときのように頬が赤く染まっている。視界と音がおかしな世界でも、彼が興奮しているのが手に取るように感じ取れた。
よろよろとがれきを踏みながら、仲間に呼ばれて彼が降りていく。登ったときと同じように慎重に降りれば良いのに、彼は登ってきたがれきを勢いよく降りようとした。
「あ!」
彼の上げた悲鳴に空気がブルブルと震えた。一瞬で彼の姿が消えた。わたしの視線が徐々にがれきの上に移動して、見下ろすように彼の姿を探す。
がれきの下で仲間が騒ぎ始め、そのうち一人が大きな声を上げて走り出した。釣られて他の仲間がわっと走り出して次々に廃工場の敷地から出て行ってしまった。
彼は助けを呼んでもらえるわけでもなく、放置されてしまった。
わたしは恐る恐る彼を探した。
がれきが崩れて、穴が開いている。穴の中には鉄骨が何本も立っている。その一本が彼の胴体に突き刺さっていた。ヒクヒクと手足を痙攣させて、口からピンク色の泡を吐いている。もう助からないと、子供のわたしでも見て取れた。
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