侵蝕 〜とあるマンションの怪異〜
藍上央理
侵蝕 〜とあるマンションの怪異〜
プロローグ 【 中里 亜都里 】
1
「お隣のおじいちゃん、今日死んじゃうよ」と幼いわたしの言葉を聞いた母の顔を、今でも忘れられない。
その日の朝、四歳上の兄が黒いランドセルを背に玄関で靴を履いているのを、登園の準備をすませたわたしはぼんやりと眺めていた。
兄の
要領が悪いわたしは、兄と比べられてはいつも引け目を感じていた。一時期は兄の真似をして、懸命に父母の関心を引こうとしていたけど、兄から「そういうの似合わないし、面白くない」と言われてからはやってない。
玄関に揃えておいた靴を蹴散らしてスニーカーを履く兄を、母が優しく叱っている。わたしの時とは違い、鼻にかかったようなあまい優しい声音で呼びかける。
「竜樹ちゃん、急がないと遅刻するわよ」
兄が何度もハイハイと、面倒臭そうに返事をしている。
「行ってきまーす」
勢いよく玄関を開け、あっという間に駆けていった。母がその後ろ姿を微笑ましく眺めている。
「本当にしようがない子ねぇ」
そんなふうに呟きつつも、母が兄を目に入れても痛くないくらい可愛いと思っているのは分かっている。
兄とわたしに対する母の態度の温度差を、幼いながらも理解できないわけじゃなかった。
わたしは朝日が眩しい玄関の外を見つめた。夏日に玄関の脇に置かれたプランターの花が白く照り返っているのが見える。
「
母が少しイライラした様子でわたしを振り返る。気がつくと玄関のドアを少し開いて母が立っていた。
「はい!」
慌てて靴を履いて外に出る。
じんわりと肌に当たる朝日が、すでに暑い。前髪がにじんできた汗で額にへばりついた。黄色い帽子の中が蒸れて、うなじを汗が伝って落ちる。
バスの停留所は歩いて三分も経たない場所にあった。わたしの前を母が足早に歩く。わたしは一生懸命母を追いかけた。
「亜登里ちゃん、おはよう」
二軒先の家の前を通り過ぎようとしたとき、その家のおじいさんが、いつものようにわたしに声をかけた。
「おはようございます」
大きな声が出ず、口の中で言葉が籠もる。それに気付いた母が軽く頭を下げて、挨拶を返す。
「おはようございます」
「今日も暑くなりそうですねぇ」
おじいさんが母と他愛ない会話を交わしている。
わたしはおじいさんの顔をじっと見つめ、今朝見た夢の内容を思い出した。
目を覚ましているときに見るよりももっと鮮明な風景をわたしは眺めている。原色が強い葉が日に照り、青々と茂る街路樹。それらが作る黒々とした影。縁取りの濃い車が目の前を過ぎ去る。道幅の広い国道に、やけに歪んで響いてくる横断歩道の音楽。停車線でゆっくりと減速して停まる車。
隣家のおじいさんが、信号が青になったのを確認して横断歩道を渡り始める。スピーカーが水の中で響いているように不安定な通りゃんせを奏でる。
歪んだ音が、わたしの耳には不吉な響きを孕んで聞こえてくる。おじいさんがやけにのんびりと横断歩道を渡っているように見えた。薄いベージュのスラックスをはいた足が、ゆっくりとアスファルトを踏みしめる。一歩二歩と進む姿がスローモーションのように目に映る。
何もかもが幼いわたしには恐ろしく見えた。息を潜めて押し黙っていても耳元で心臓の音や呼吸音が大きく聞こえてくる。
四車線の道路を半分ほど渡ったところで、すさまじい音と共におじいさんが弾き飛んだ。わたしの前を銀色の車体のトラックが通り過ぎ、他の車にぶつかりながら停車した。
トラックを避けるように後続の車が次々と停車する。いつの間にかたくさんの人が弾き飛ばされたおじいさんを遠巻きに取り囲んだ。
夢だからか、濃い色はより濃く、薄い色はまばゆく、倒れたおじいさんから原色の赤がにじみ出てくる。おじいさんの手足と頭が、まるで操り人形を無造作に放り出したようにあらぬ方向を向いている。頭はひしゃげて半分潰れ、中から白っぽいものがこぼれていた。
子供の目にも、それがどういうことなのか、理解できた。
火が付いたように泣きながら目を覚ましたわたしを、父と母が困った顔で見つめていた。慰めてもらいたくて母の胸にしがみついたけれど、母が時計を見てわたしの腕を振りほどき、「亜登里ちゃん、朝だから起きましょうね」と立ち上がった。
目が覚めても鮮明に思い出せる夢。夢の中であれほど怖かったのに、目が覚めてみると喉元を過ぎた熱い湯のように何も感じなくなっている。あの頃のわたしはそれを不思議とも思わず、母に言われるままに起きて寝巻き姿で台所に行った。
その夢を、わたしはおじいさんを見て思い出した。母がおじいさんに軽く会釈してバスの停留所に向かっていく。わたしは遅れまいと、小走りで母に追いついた。
今思い出したことを母に教えたくて、母のシャツの裾を軽く引っ張る。
「亜登里ちゃん、服が伸びるから引っ張らないで」
母の手がわたしの手を払った。
その手を握り、母に夢のことを聞いてもらいたくて何度も引く。
「なに?」
面倒臭そうな声音で、母がわたしを見下ろした。
わたしは遠く離れたおじいさんの家を振り向いてから母を見上げる。
「お隣のおじいちゃん、今日死んじゃうよ」
母が目を大きく見開いたあと、眉を険しくしかめ、私の手を邪険に振りほどいた。
「そんなこと言っちゃ駄目でしょ! 亜登里ちゃん」
その目つきは、まるで台所で見つけた気持ちの悪い虫を見る目と同じだった。子供心に母の気持ちを敏感に感じ取って、わたしは手を引っ込めると、小さく
「ごめんなさい」と謝ることしか出来なかった。
泣きたくなって俯いたら、すぐに母から肩を揺すぶられて、「亜登里ちゃん、バスが来ましたよ」と促された。
泣くことも出来ないままバスに乗り込み、目を合わそうとしない母の姿を見つめる。
気がつくと、他の友達が何人かバスに乗り込んできていて、彼らに押されてわたしは奥の席に座った。
窓の外をもう一度見たときにはすでに母の姿はなくなっていた。
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