第102話 バックハグ

 逃げるように1階から2階に駆け上がった遥希を追い掛けて、颯は架け橋を登る。2階の床に足を踏み入れるが、遥希の姿は見当たらない。


 だが、不自然な形で颯のフリースペースのドアだけが開いたままになっていた。朝起きて1階に降りる際に閉めたはずだった。


 遥希が自分の部屋に居ることを大方に予測する遥希。そのまま自分の部屋に向けて足を進める。その間、鼓動を刻む胸の臓器は落ち着かない。


 ドアの開いた部屋を覗くと、案の定で遥希の姿が有った。遥希は静かに俯いた状態で床に体育座りしていた。颯の部屋には物音1つすらしない空気が流れる。


「八雲さん」


 バクッバクッと身体中で鳴り響くハートの振動を受け止めながら、颯は恐る恐る遥希に声を掛ける。


「……」


 しかし遥希から返事はない。下に向いた顔すら上げてくれない。


 キーーーンっと颯の耳に激しい耳鳴りが襲う。脳にまで不快な音が行き届く。


「愛海の作ってくれたオニギリを食べなくていいのか? 」


 俯いた体勢のままボソリッと呟く遥希。遥希の身体には哀愁が漂う。


「え…。流石にバトルの平等性に欠けるから食卓から抜けてきたけど…」


 決して視線を合わせようとしない遥希を見つめながら、颯は正直に答える。


「そうか」


 素っ気なく答える遥希。再び颯の部屋に重い静寂が訪れる。


 颯にとって居心地の悪い雰囲気が部屋中に流れる。


「あの。ごめんね。俺の配慮が足りなかったよ。3人一斉に食べるように宮城さんを説得していれば。こんな風には成らなかった筈」


 自身の軽率な行動を心底に後悔し、正直な気持ちで遥希に謝罪を口にする颯。


「…」


 遥希からの反応は無い。


 重い空気だけが颯の部屋を支配する。その空気のせいで颯は言葉を発せない。反射的に強く口を噤んでしまう。まるで金縛りにでも遭ったように。


「…いやだ」


 いつもの凛々しい態度は健在せず、弱々しく消え入りそうな声で沈黙を破る遥希。


「!? そっか。やっぱりダメだよね。そう簡単には許してくれないよね」


 胸中に残念な感情を抱き、颯は力なく部屋の床に視線を集める。現時点で出来ることは下を向きながら無言を貫くだけ。それ以上は身動きが取れない。ただただ遥希の動向を待つことしか出来ない。


「…抱きしめてくれ」


 未だに体育座りのまま俯きながらも、遥希は独り言のようにボソッと言霊を吐く。


「抱きしめる? 俺が? 八雲さんを? 」


「…颯以外居ないだろ。他に誰が居る? 」


 ようやく顔を上げる遥希。流れで颯と遥希の目が合う。普段とは異なり悲しいオーラを纏うが、遥希の両目には真剣な感情が宿る。


「確かに」


 遥希の言葉に呆気なく納得してしまう颯。この場に遥希を抱きしめることが出来る人間など颯以外には存在しない。


「…」


 無言で真剣な眼差しを作って颯だけを見つめる遥希。完全に颯からの行動を待つ瞳だ。


 遥希の美しい瞳に見つめられ、颯は内心ドキッとした。遥希の整った顔立ちに儚さが加わり、魅力が爆発していた。普段の遥希が持っていない弱さを纏っていた。


 流石に断る勇気を颯は所持してなかった。


 黙って住み慣れた自分の部屋を進み、遥希の近くまで移動する。


「前からじゃない。…バックから」


 不満そうに拒否感を示す遥希。どうやらバックハグをお望みのようだ。


「…わかった」


 到底断れる空気は皆無であり、颯は文句1つ口にせずに遥希からの要望を受け入れる。遥希の背中側に移動する。


「ゴクッ。じゃあ、行くよ?…こ、…こうかな? 」


 緊張感を打ち消すように生唾を飲み込み、颯は後ろから遥希を優しく包み込む。


 遥希の身体全体に付着する透明な集合体が颯の鼻腔をいじめるように刺激する。あまりの甘い香りに颯はクラッと軽い目眩を起こす。それほどのインパクトある匂いのパンチが颯にクリーンヒットした。


「あっ…」


 一方、遥希は遥希で変化を見せていた。普段とは様子が異なる。颯からのバックハグに驚きと動揺を覚えたように見える。


「あ、良くなかった? やり方とか違った? 」


 遥希の反応を拒否と捉え、即座に離れようと動く颯。速攻で遥希の柔らかい身体に密着した両腕を外そうと試みる。


「だ、ダメだ!! このままがいい!! 」


 離れようとする颯の腕をしがみつくように必死止める遥希。非常に迅速なスピードであった。


「で、でも…」


「ダメか? このままで居てもらっても? 」


 上目遣いで振り返りながら、遥希は希望を伝える。表情は何処か色っぽく不思議と保護欲を沸かせる。


「それは。…八雲さんが望むなら構わないけど」


 上目遣いで目が合う遥希を直視できず、颯は逃げるように両目を逸らした。


「じゃあ。…お願い」


 キャラに似合わず甘えるような口調でおねだりし、遥希は両手でギュッ颯の右腕を握った。


「心地よくて安心する」


 それからは2人だけの時間が続いた。このちょっと後に瑞貴が帰宅し、勝負が再開されたが。


 勝者は考える必要もなく、遥希になった。

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