第75話 勝利

「…え。はい?…」


 地面に尻もちを付いた状態の藤田は動揺を隠せない様子だ。


 痛みが治まらないのか定かではないが。まるで撫でるように何度も殴られた頬の感触を確かめている。


(や、やった…)


当の殴った本人の颯も実感を持てないでいた。殴った感触は右拳に残ってはいるが、未だに藤田を殴った現実が信じられないでいた。まさか自分が藤田を殴れるなんて思いもしなかった。


一方、目の前の光景が信じられないのか。愛海も両目を大きく見開き、口を半開きに開く。


「痛いな~~。やってくれたな~~~」


電気が流れたように勢いよく立ち上がり、怒りの声を上げ右拳を握り締め、藤田は颯に向かって全力で走る。完全にキレている。その証拠に目も血走っている。


「天音っち! 危ない!! 」


 藤田の行動にいち早く気づいた愛海が、悲鳴のような声を上げる。


(き、来たな。ここからが重要なはずだ)


 未だに藤田に対する恐怖が消えない。しっかりと暴力を警戒して身構える。


 そんな颯の精神状態など露知らず、藤田は接近すると速攻で右のストレートを繰り出す。


(…え)


 藤田の右ストレートに直面し、颯は思わず胸中で唖然としてしまった。


 パンチは怖くも無いし、速いわけでも無かった。颯にとっては、めちゃくちゃスローだった。


 ただ呆然としていれば、藤田のパンチを食らってしまうので、颯は我に返って難なく避ける。


「は……」


 自身のパンチが避けられた事実に驚きを隠せない藤田。両目は、これでもかと大きく見開く。


「この! 今度こそ!!! 」


 リベンジするように、颯に対して何度も拳を繰り出す藤田。やけくそになってる形だ。 


 しかし、現実は藤田の思うように全く進まない。簡単に颯に避けられてしまう。


(え…。俺は、ここまで弱い奴に過剰に怯えてた上、親友との関係を壊されたのか…。何だこの虚しさは…)


 心がどんどん冷め切って行く。藤田に対する恐怖心が、みるみるうちに溶けていく。


「くそ!! なぜパンチが当たらない!! こんな弱者に僕が苦戦するなんて。有り得ない。有ってはならないんだ」

 1発で仕留めるつもりなのだろう。藤田は、これでもかと歯を食い縛り、大振りで右ストレートを放つ。


(もういいよね。終わらせよう。藤田には申し訳ないけど。あ、しまった。身体を動かし忘れた)


 拍子抜けすぎて、うっかりしてしまった颯は藤田から1発パンチを貰う。


 藤田の大振りの右ストレートが颯の左頬に直撃する。


「…」


 全然痛くなかった。全く痛みの無いことにも驚かない。


「流石に弱すぎ。もういいでしょ? 気分は済んだ? 」


 呆れ顔で尋ねる颯。藤田の右拳が左頬に突き刺さった状態でも、会話を出来る余裕は有った。


「っ。きょ、今日は。…この辺にしといてあげるよ。次は、この程度では済まないからね!! 覚悟しときなよ!!! 」


 敵わない相手だと肌で感じたのか。カウンターを受けないように、高速で右拳を引き、間合いを取ると、藤田は背中を向ける。そして、颯から逃げるように愛海を横切り、立ち去ってしまった。


「はぁはぁ。くそ。くそ~~。僕がまたも恥をかくなんて」


 逃げ足だけは早く、一瞬で藤田の背中は小さくなってしまった。颯と愛海は、そんな藤田の背中を消えるまで目で追い掛けていた。情けなく弱々しいダサい背中を。

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