第19話 吾輩、今世は間一髪“せぇふ”となる

「……」

(……腹減った)

 誰だ、猫の勘が当たると言った奴は。

 ひげも耳も落としてとぼとぼと歩きながら、モジャはため息を吐いた。歩きすぎて肉球が痛い。アスファルトは猫の足に優しくない。


(秋刀魚とまでは言わぬ、にゃおにゅーるも望まぬ、この際バッタでいい……)

 と言え、東京には草むらすらまばらだ。しょんぼりすれば、おなかがぐうっとなって、しっぽまで垂れ下がった。


 日はすっかり暮れてしまった。

 昼前に姿を見かけた“香枝”を探して歩いているが、すっかり迷……見知らぬ場所を探索することとなっている。

(直也の阿呆め、なぜちゃんとついて来ぬのだ!)

 止める直也を無視したことなどもちろん都合よく忘れ、モジャは八つ当たる。


「ピッ、ツツィー、ビビビビビ」

(気ぃ付けろ、気ぃ付けろ、狼が来るど)

「かかかか」

(だから騙されぬと言っておる! あまりうるさいと食うぞ。いやむしろ食わせろ)

 モジャはすでに暗くなった空に張り巡らされた黒い線に留まる小鳥の影へと、牙を剥きだした。


「……」

 ふと脇の路地から複数の視線を感じた。光る目に見つめられ、モジャは睨み返すと、そちらへと足を一歩踏み出す。猫の会合という奴だ。

 一番手前にいたキジ猫がびくりと体を震わせた後、耳をペタンと後ろに倒し、身を低くする。そして後退っていった。

「シャーっ!」

 とどめとばかりに一鳴きすれば、そこに集まっていた猫どもは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 モジャはすきっ腹を一時忘れて、ふふんと顎をあげた。

 当たり前だ、モジャは子猫とは言え化け猫なのだ。爪を交えずともその辺の猫など簡単に制すことができる。

(……、っ、あああああ、しまったああああ)

 脅したりしないで、香枝に似た人間がいないか聞けばよかった……。

 さっきの猫に負けず劣らず、モジャは耳を後ろに引き倒した。


(? なんだ……?)

 現代風の長屋、マンションやアパートが立ち並ぶ道の向こうから、賑やかな音が聞こえてきた。赤錆色の目を向ければ、角二つ向こうが眩く光っている。まるで昼間のようだ。

(……吉原、だったか)

 江戸の世にもそんな街がいくつかあって、香枝の友達だったやつがそこに行った、と悲しそうに話していた。香枝も行くかもしれない、と……。

(……人ってのは、相変わらず残酷だ)

 交尾するのに、獲物を狩って差し出すわけでも戦って強さを示すわけでもなく、銭を払うのだという。そして、そのために香枝たちのような女が悲しい思いをしたり、怯えたりせねばならなくなる。

 けど――そうしなきゃ死ぬしかないという状況なら、それは残酷なことなのか? そこに行っていたら、香枝は死なずにすんでいたかもしれないじゃないか。

 でも将次が死よりつらいものがこの世にはあると言っていた……。

「……」

 二回目の猫生だけど、モジャにはわからず、顔を伏せる。

 が、それより何より問題は、腹が減っていることだと思う。腹の虫がぐうぐう音を立てて暴れ出した。



 人の気配は濃いものの、なんとなくそっちに行きたくなくて、モジャは手前の角を曲がった。

 行く先の道は隣接する建物からの窓明かりと街灯に照らされている。江戸ほどでないにしても、薄暗く寂しい雰囲気だった。

 その先に見える狭い夜空は厚い曇に覆われていて、星も月も見えないが、時折下からの光に照らされ、雲がほの輝く。お天道様やお月様に上から、という光景はしょっちゅう見たけれど、人の光に照らされる雲というのはひどく奇妙に見えた。

 道はるか先に二人、人がいるのを見るともなしに見て、モジャも同じ方向へと歩き出した。


 街灯に蛾がひらひらと群がっている。

(あれも“電気”か、本当にどこにでもある……)

 雷神様のお力と同じものを利用した明かりだ。

 家の壁のそこかしこに鼻の穴だけが覗いているのが気になって、ほじくろうとしたら、佳代子にめちゃくちゃ怒られた。「びりびりってして、死んじゃうよ!」と。あれは“こんせんと”という妖らしい。

 賢いモジャは因果を理解できる――今の世は障子がなくなって目の妖、目目連もくもくれんが消えた代わりに、壁に鼻の妖こんせんとが生まれたのだ。人はそいつに電気を提供させ、家の明かりや妖術箱改め冷凍庫、こたつ(!)など様々なものを操っている。

 こんせんとが無口なのは酷使されすぎて疲れているから――。

 そう言ったら、鳴屋やなりがクローゼットの戸を叩いていた。化け猫たるモジャの知恵に感心したに違いない。

(なんにせよ妖をも使役しようとは、人、おそるべし。やはり早いうちに滅ぼさねば)

 香枝(推定)は除く。あと佳代子も。父はお情けで見逃してやってもいい。だが、直也、お前はダメだ。今もそばにいないし!


「ピッ、ツツィー、ビビビビビ」

(気ぃ付けろ、気ぃ付けろ、狼が来るど)

「んにゃ」

(だから、狼は滅んだと……)

「?」

 違和感にモジャは立ち止まる。今は夜だ。真っ暗だ。確かに今の世の夜は江戸に比べて明るくなったけれど、それでも鳥が鳴くのはせいぜい夕刻までのはず――。


 何かに呼ばれるように、モジャは視線を路地に戻し、前方で歩いている人間に焦点を合わせた。モジャからより遠い方の女が立ち止まって、背後を振り返った。

 暗闇の中で光る猫目がその顔を捕らえる。次の瞬間、ひげがびりりっと震えた。

(っ、い、いたっ、香枝!)

「にゃああ!」

(待って、香枝!)

 だが、モジャが走り始めるのと同時に香枝(推定)も走り出した。

「みゃ?」

 しかも、なぜか間にいたやつまで同じ方向に走り出す。

(なんなのだ??)

 疑問に思うものの、逃げる獲物を追うは猫の本能というもの――ちょっと楽しくなってきた。


(ええと、どっちだ……)

 が、猫の狩りは本来待ち伏せ型――長時間は走れない。

 息切れしたところで、ふと蛙の歌とせせらぎが聞こえてきた。鼻をひくつかせれば、馴染んだあの川の香りがする。

(おお、ちゃんと戻ってきた! そうとも、化け猫たる吾輩が、迷子などになるわけがない! あとは香枝を探すだけだ!)

「見つけた」

「むぎゅ」

 尻尾を再びあげたところで、首根っこを掴まれた。

「もう見つからんかと思った……お前、これで何度目だよ」

 無礼にもひょいっと持ち上げられれば、目の前で汗だくの直也が情けなく眉根を下げている。

「母さんも心配してるぞ、オヤジなんか責任感じて半泣きだし。俺は今度こそ車にでもはねられてるんじゃないかと……よかったあ」

「……」

 ぎゅうっと汗臭い体に抱きしめられてモジャは目を瞬かせた。

 色々ある気がするが……なんだったっけ。


 直也が脇に挟んでいた紙がはらりと落ちた。瞳孔を広げ、目に入る光量を上げてそれを見つめれば、モジャの写真付き。その脇に何やら文字が書いてある。

 将次が手伝う寺子屋にちょくちょく顔を出していたせいで、モジャは少しだけ字が読める。昔の字と違って今は一つ一つがばらばらになっているから、読みやす……。

「シャ!」

(だ、誰が迷い猫だっ! 我はただ見回りをしていただけ……じゃない!)

 そうだった、探し人の最中だった!


 鬱陶しい直也の頬を前足で押して地面に着地するのと、猫の優れた聴覚が女の細い悲鳴を拾うのは同時だった。しっぽがぶわっと膨らむ。


「モジャ? ああっ、また、お前ってやつは……!」

「こんにょは、にゃんと付いてこいっ」

 悲鳴の方向に走り出したが、いつもならすぐ遠ざかっていくまわりの景色が全然そうはならなくて、モジャは焦りを覚えた。


 あちこちで半鐘が乱打されていたあの夜の光景が蘇る。夜なのに空が赤く燃え上がり、人々が逃げまどっていた。

 濡れた半纏を被った老婆が念仏を唱えてよろよろと歩き、走ってきた纏持ちの火消しに突き飛ばされた。禁じられているはずの大八車をひく者に道をふさがれた者たちが罵声をあげ、親とはぐれた子供が泣き叫んでいる。

『風が強い、本町と中町両方に広がった』

『打ちこわしも追いついてねえ、とにかく逃げろ』

『うちの子がいない!』

『おっかあを置いていけるかっ』

 外に出ていた長尾は赤い火の粉が舞う中、殺気立つ人々の足元を走り抜け、香枝が奉公に出ていた水飲茶屋に走った。あの時も周りがこんなふうにゆっくりに見えた。

 焦燥と共に何とか目的の場所に辿り着いたモジャが目にしたのは、燃え上がる店の中から幼子を抱えて火だるまになって出てきた香枝の姿だった。


(どっちだ……)

 分かれ道に来て、モジャは耳とひげを忙しなく動かしつつ、光る眼できょろきょろとあたりを見回す。

「あーおっっ!」

「モジャっ」

「おみゃいみょしゃがせっ」

 焦りと共に、お前はあの時は大坂とやらに行っていて何の役にも立たなかったんだから!と直也に八つ当たる。

「な、なんで怒ってんだよ、怒りたいのは俺の方……」

「っ、あっちにゃっ」

「へ?」

 小さくだが、何かが引き倒される音がした。誰かがわやわやと何事か言い争い、暴れている。


 ぽつり、と雫がモジャの額に落ちた。ぽつ、ぽつ、と降りてくる雨粒の感覚が段々狭くなり、複数が同時に体を打ち始める。

(あの時もそうだ、雨が降り出した……)

 大きな火災が起きた時はよくそうなると人間が言っていた。もう少し早ければ、香枝は助かったのではないか――あんな思いはもうたくさんだ。


「ピッ、ツツィー、ビビビビビ」

 また“雀”が鳴いた。あっちだ――。


「なんだ? 公園?」

 後からついてきた直也も何かに気付いたらしい。植え込みを飛び越えて、公園の敷地に入ったモジャの真似をして追ってくる。

 本格的に降り始めた雨が土を打ち、独特の香りが鼻に届いた。


(ぶらんこ、滑り台、じゃんぐーじむ、の陰!)

 雨粒に邪魔されながら、頼りない街灯に反射する目をざっと走らせれば、細っこい柱と梁をみちみちと組み合わせたままずっと放置状態にされるけったいな建物の陰で人が揉めている。

 やっぱりおかしい。人は傘を好むはずだ。なのにどちらもさしていない。


「は、放してっ、誰か助けてっ」

 暴れる女の腕を無言のまま引っ張っている男へと、モジャは水しぶきを上げて走り寄る。そして、飛び掛かった。

「うわっ」

 悲鳴を上げた男が腕に爪を突き立てたモジャを振り払った。直撃を食らって、モジャも「ぎゃっ」と悲鳴を漏らす。しかも地面に叩きつけられ、泥水の中にびちゃっと音を立てて落ちた。

「っ、にげにょっ」

「邪魔すんなっ」

 くらくらしながら何とか叫べば、女が立ち上がり、走り出した。すぐに男も走り出す。

「しゃしぇにゅっ」

 ふくらはぎへとかぶりつけば、再び悲鳴を上げた男が、逆の足でモジャを踏みつけようとした。

(二度も食らってたまるかっ)

 ひらりと身をかわして地に着地するが、その隙に男は女を追い始めた。まともに走れていなかったのか、女はすぐにつかまり、また悲鳴をあげた。

「っ、シャーっ」

「うぜえっ、なんなんだ、この猫っ」

 女の前に滑り込んで威嚇の唸り声をあげたが、昔と違って体が大きくなることも牙や爪が伸びることもない。全身を膨らませているつもりだが、雨でぬれそぼり、ひどく惨めに見えることだろう。

 化け猫どころか、成猫にさえ届かない自分がひどくもどかしい。

(そう、だ……化ければ、今度は香枝を救える――)

 そう思いついた瞬間、尾の付け根が熱くなった。爪がきしっと音を立てて、伸び始めようとする。


 ――コロセ。

 そうだ、人はこうして平気で他を傷つける、香枝にしたように、今そうしているように。ならば……――殺して何が悪い。


 両のひげ袋が限界までつり上がった。にぃっと笑った口から犬歯がむき出しになり、伸び出した。

 男から振り下ろされる拳を、奇妙な愉悦と共に睨みつけていたモジャの視界が、温かい何かにばっと覆われた。

「やめてっ」

「――何やってんだ」

 女の涙声と直也の恐ろしく低い声、そしてドカリという鈍い音が同時に響いた。どじゃっと湿った音を立て、濡れた地面に何かが倒れる。


「おい、待てっ」

 ガタガタと震える女の腕と、簾のように広がる長い濡れ髪の向こうに、脇腹を抑えながら逃げていく男が見えた。

「モジャ、大丈夫か」

「…………にゃおや」

 悪鬼のような形相をしていた直也は女の髪越しに目を合わせたモジャを見て、ほっとしたように眉を下げた。

 びしょぬれの間抜けなその顔に気が抜けたのか、尾や爪の熱が引いていく。

「その人、」

「っ」

 言われてモジャは意識を女に戻した。直也にも気づかず、ひたすらモジャを抱きしめて身をすくめている。

 この怯えよう――なんとなくだが、あれを放っておいたらよくない。

 モジャはさっきの男を追おうと藻掻くが、女の腕が強くてうまく行かない。

「にゃおやっ、追えっ」

「は?」

 口をぱっくり開けてモジャを見た直也は、懇願するモジャの様子に口と眉を引き結ぶと踵を返し、男を追って駆けていく。


 ――では、ちいと手助けをしちゃろうか。


 嗄れ声が響いた瞬間、直也の遥か前にいた男のすねに黒い影が絡みついた。足をもつれさせ、よろける間に直也が追い付く。そして、雨が打ち付ける地面へと容赦なく男を引き倒し、馬乗りになって腕をひねり上げた。

「は、放せっ」

「大人しくしてろっ」

 雨足が強まり、公園のあちこちに水溜まりを作り始めた。抑えつけられてなお往生際悪く藻掻く男の顔が、泥水にまみれていく。


 騒ぎを聞きつけたのか、傘を差した数人が公園の入り口に顔を出した。

「すみません、警察に連絡を」

「あ、あの、もうしました、その、大丈夫ですか?」

「あ、ありがとうございます、それならあちらの女性を……」

 ばばばばという雨が傘を叩く音を伴い、誰かが雨降りの土を踏みしめて近寄ってくる。

「……もう大丈夫よ。すぐに警察が来てくれるから。……怖かったわね」

「っ」

 優しい声と共に雨が止んだ。震えながら胸元にモジャを抱きしめていた女は、傘を差しだしてきた女性をおそるおそる見上げた後、ぎゅっと眉を寄せ、唇を戦慄かせる。

「……」

(おんなじだ、やっぱり)

 顔も、弱くて臆病なくせに、自分が危ない目に遭っているのに、必死でモジャを助けようとするところも――

 モジャはすぐ近くにある香枝そっくりの女の頬をペロッと舐めた。雨の味がする。

「その子、あなたの猫? 勇敢な子ねえ、飼い主を守ろうとするなんて犬みたい」

「……っ」

 誰が犬だ、無礼者め、とモジャが視線を尖らせた瞬間、香枝そっくりの女は透き通った黒目からボロボロと涙をあふれさせ、わっと泣き出した。


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