第20話 吾輩、めでたく約束を果たす
「あら、モジャ、おでかけ? 晴香ちゃんのところ?」
「にゃ。んにゃにゃ?」
(うむ。佳代子もまた行くか?)
「私は用事があるからなあ。車に気を付けるのよ。塀の上とかを伝って……って、やっぱり危ないわねえ」
「……」
「……」
モジャは佳代子と同時にソファに座って瓦版、じゃない、しんぶんを広げている直也を見た。紙の陰に顔を隠しているが、多分こっちの話を聞いている。
「……連れて行ってって頼まれるの待ちだと思う?」
「にゃ」
佳代子の小声を短く肯定した後、モジャは半眼を直也に向けた。なんとか音を聞き取ろうとしているのだろうが、元の聴力が低い上に耳を音源に向けることすらできない。人の子はつくづく哀れだ。
モジャはこれから香枝そっくりのあの女を見守りに行くのだ。今の香枝は晴香という名だ。
『ご、ごめん、ゆ、指、開かない……』
『にゃ?』
あの夜、モジャは晴香に抱っこされたまま、江戸の与力や同心にあたる“けいさつかん”に付き添われて病院に行くことになった。病院と言っても前行ったところのような大きいのじゃない。
『猫、かあ。ほんとはダメなんだけど、あなたのヒーローなんですって? じゃ、一緒の方が心強いよねえ。介助犬ならぬ介助猫ってことにしましょ』
真っ青なままの晴香と、その彼女に抱きしめられたままのモジャを見て、そう微笑んだ女の医者は信頼できる感じだったが、体温測定とやらで、晴香がモジャのような辱めに遭うのは耐えられない。
(み、身代わりになるしかない……っ)
悲壮な覚悟を決めたところで、モジャは真実を知った。人間は脇の下で体温を測れる――初めて自分の毛皮を呪わしく思った。人間どもをこれまでは哀れなつるっぱげと思って憐れんでいたのに、初めて負けたと思った。
直也の方はその間けいさつしょ、つまりは奉行所に行っていたそうだ。何がどう伝わったのか、迎えに来た佳代子が直也を下手人と勘違いしていて、顔を合わせるなり「なおやあああああっ」と絶叫されたという。
直也は「鬼だって絶対にあんなに怖くない……」と思い出して身を震わせていた、一尺近く背が違うというのに……。やはり佳代子を怒らせるのはやめようとモジャは心に誓う。
意外だったのは直也父だ。妻である佳代子を宥め、警察からてきぱきと事情を聴き、直也をねぎらい、身内がいないと聞いて晴香のために様々な助けを差し出したそうだ。
なんでも晴香は、“すとぅかぁ”などというものに付きまとわれていたらしい。あの男の気配が妖でも死霊でもなかったことを考えると、きっと生霊が憑りついていたのだろう。直也父はそれを祓う助けをしたわけだ。
モジャが「あいつ、神主か坊主だったのか!?」と驚く傍らで、佳代子が「やる時はやる人なの」とのろけ、直也が「すっげえ大人だった」と見直していた。
が、「もじゃあああ、ごべんなああああ、迷子にざぜでえぇぇ」と言いながら鼻水だらけの顔を押し付けてきた直也父が、鬱陶しい奴である事実に変わりはない。大体誰が迷子だ。化け猫は道に迷ったりせぬ。
「ああ、そうだ、いらっしゃい、モジャ」
「み?」
佳代子はまるで貸本屋のように本がたくさんある隣部屋に入ると、文机の引き出しから紙を取り出した。
雲の晴れ間から射し込んだ日に照らされた机にぴょんと飛び乗ると、モジャは後ろ足を畳んで尻をつけ、両前足をそろえて座った。傍らの壺から今の世の筆、“ぺん”を取り出した佳代子の作業を見守る。
佳代子はペンを紙の上に走らせ、さらさらと何かを書きつけていく。墨を擦る必要も手入れの手間もなく、常に同じ太さの線を描き出すペンはいつ見ても不思議で面白い。
「これでよし。また遊びにいらっしゃいという招待状よ」
書き終えた佳代子はペンを置くと、「ええと、封筒はどこだったかしら」と再び引き出しを探り始めた。
ごそごそとやりながら、モジャに聞かせる気なのか、独り言なのかわからない調子で話し始める。
「……直也ねえ、あの子、ずっといい子だって言われてきたの。大人っぽいとかもしょっちゅう。喧嘩なんかもちろん言い合いすらしないのよ。少しでも違うと思ったら、揉める前にさっと引いちゃう。親としては楽だったけど……」
晴れた青空を背にした紫陽花の柄のある絵封筒を取り出し、先ほどの紙を折りたたんで入れた。
「そうやってずっと人と距離を開けて生きてきたから、多分どうやったら仲良くなれるのか、知らないのよね」
寂しそうに笑って封をする佳代子を見ながら、モジャはひげを前に倒し、しっぽを左右に揺らす。
「つまり実際のところはいい子というより、人とぶつかれない臆病者なのよね。だから、モジャを飼いたいって言っていた時、すごく嬉しかったの。ようやく何かと関わる気ができたんだって」
人の言うことは時々無駄に複雑でわかりにくい。いい子で喧嘩しない、揉める前に引くのがダメなら、悪い子になって喧嘩をして盛大に揉めればいいということだ。
「にゃあ」
(それが望みなら、吾輩が直也にいくらでも教えてやるぞ、佳代子)
「……よろしくね」
そのモジャを見、佳代子は嬉しそうに笑う。時々いるのだ、猫言葉をそのまま解す人間が。佳代子がそれだ。
温かい手が頭の上に落ちて、三度往復した。その手に頭を押し付けながら、モジャは目を細める。
「さて、モジャ、これ、晴香ちゃんに届けてくれる? って、モジャには少し大きいかしら?」
「……」
(……甘いなあ、佳代子)
差し出された手紙と佳代子の顔を見比べて、助け船を出す気だ、と察すると、モジャは赤錆色の目をくりくりと動かした。
案の定「それ、モジャには大きすぎるだろ。持ってやるから貸せ」と言い出した直也を、仕方なく下僕として従え、モジャは意気揚々と家の外に出た。
玄関扉が閉まったところで身を翻すと直也に飛び掛かり、その手にあった手紙を咥え取った。
「あ、こら」
十歩ほど走って手紙を地に置き、前足を乗せると、慌て声の直也を振り返る。
「一緒に行きにゃいにゃら、しょう言え」
「………………行きたい、です」
絶句した後、落ち着きなく身じろぎした直也は、ため息とともに肩を落とし、ようやくそう認めた。
モジャはにんまりと両のひげ袋を吊り上げ、直也が仏頂面で手紙を拾おうと身をかがめたその隙に、肩に飛び乗る。
「にゃ」
(うむ、高いところはいい)
直也が立ち上がると同時に、ぐんと視界が広がった。
未明まで降っていた雨で街はまだ濡れている。高く上がった日の光に、紫陽花の上の雫が光り、足元の水溜まりは鏡のように久々の青空を映している。
無粋な直也がピシャっと小さな音を立ててそこを踏んだせいで、空は消えてしまったが、一瞬だけモジャのしっぽが映った。長い、長いしっぽだ。直也の肩からゆうにはみ出るほどの。
「晴香、美人にゃにょか?」
モジャ的には香枝にそっくりという時点で最高だ。でも人の感覚はわからない。
「まあそうかもな。っ、いってえ、噛むなっ」
言い方が気に入らなくて、モジャは真横の耳たぶに牙を立てる。
「…………見た目とか、別にいいだろ。怖い目に遭って動転してたのに、最初に俺を心配してくれたじゃん」
『け、怪我、怪我はありませんか。大丈夫ですか。あと……あ、ありがとうございました、本当に、本当にありがとうございました』
真っ青な顔で震えながら――。
顔をしかめて耳を擦りながら直也がぼそりと呟いた。モジャはその横顔を見つめて、赤錆の中の黒目を丸くした。頬がほんのり色づいている気がする。ああ、本当に将次そっくりだ。
「いてっ」
「しゃい初はわがにゃいにゃ。ありがにょうって言われにゃ!」
「あー、はいはい。猫にもお礼を言う人だ、どの道すっげえいい人ってことに変わりないだろ」
「わがにゃい、化けにゃこ!」
「……そこ、重要か? しゃべるくらいしかできねーじゃん。ちょっと器用な猫……っ、だから引っ掻くのもやめろ!」
いってぇと言いながら情けない顔をした直也に、モジャはモジャでふんっと鼻を鳴らし、逆方向へと顔を向けた。
「あ、直也君、モジャ君」
晴香が休みの日によく訪れるという公園に足を踏み入れれば、木陰のベンチに座って本を読んでいた彼女は、すぐに気付いてくれた。木漏れ日を受けながら柔らかく微笑む。
「……最初に呼ばれたの、俺」
「図体がでかいにゃけにゃ」
得意そうに笑う直也に横目を向けて一睨みすると、モジャはその肩から飛び降りる。
「あっ、こら、モジャっ」
そして、再び手紙を奪って晴香へと駆けていく。
『長尾、もし将次さまにお会いできたら、お伝えしてね……。お会いできて幸せでしたって。将次さまもどうかお幸せにって』
そして、臨終の床で香枝は『長尾、一緒にいてくれてありがとう。もし来世があるなら、また会おうね……大丈夫、大丈夫、何も怖くないからね、またね』と微笑み、息を引き取った。
手紙を咥えて走るモジャを驚いたように見ていた晴香は、「なあに、お手紙?」と言いながらあの時の香枝と同じ顔で微笑み、モジャへと手を伸ばした。そこに飛び込む。
抱き止めてもらって、「ふふ、可愛いねえ、モジャ君」という彼女に頭をぶつけてから頬を摺り寄せ、ゴロゴロと喉を鳴らした。長いしっぽで逆の晴香の頬をくすぐる。
晴香は一人暮らしをしている。親はとうの昔に死に、育ての親の祖母ももう亡くなったそうだ。今世でも肉親に縁が薄い。そのくせ貧乏神の気配だけはする。
(“ペット不可”などというふざけたアパートでなければ、吾輩が一緒にいてやるのに――)
今の世の人は赤目も長いしっぽも気にしなくなった。迷惑を掛けないどころか、今度こそ役に立てる。ちゃんと守ってやれる。
ああでもそうなったら佳代子も直也父も寂しがるかな、多分直也も――。
「可愛いなあ。おやつ、あるよ。モジャ君のも。あとで一緒に食べようね」
「にゃあん」
モジャの小さな額に自らの額をこつんと押し当てて笑う晴香の黒目を見て、モジャはとびっきりの猫を被ると、よそ行きの声を出した。
「……あざとい。さすが猫」
苦笑する直也の頭上を燕が飛び、一回り小さいのがその後に続く。
日差しに温められた空気に乗って親子は旋回しながら上昇していく。その動きを目で追えば、眩いお天道様と高く澄んだ青空が目に飛び込んできた。
「モジャ」
「モジャ君」
名を呼ばれて、二人へと顔を戻す。
吾輩は化け猫である。名前はモジャ。どうしようもなく安直で気に入らないが、
「……にゃ!」
直也も晴香ももう馴染んでしまったようだから、寛容に目をつぶってやることにする。
返事を返したモジャに二人が笑った。その背後で香枝と将次の影が笑っている。そして、お互いを見て、泣きそうな顔で微笑んだ。
彼方に稲荷神社が見えた。社を抱くようにそびえる楠の向こうの空で、白い入道雲がもくもくと湧き上がり、強い日差しに輝いている。
江戸の世はもう終わった。だが、東京にも夏はちゃんとやってくるらしい。
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