第18話 吾輩、栄枯盛衰を考える
翌日は土曜日、直也も父も休みの日だった。昔は月に一回程度、あとは藪入りぐらいであくせく働きまくっていたのに、それに比べれば今はしょっちゅう休みがある。人もようやく我々猫を見習おうという気になってきたらしい。
「モジャー、散歩行くかぁ」
“めたぼ”と言われるのを気にして、直也父は暇を見つけては歩くようになった。江戸の人々は一部の金持ち以外やせぎすだったが、今周りを見渡せば、直也父のような体つきの人間はたくさんいる。食うや食わずの人間はいなくなったのだとしたら、貧乏神などは一体どこへ行ったのだろう。
(まさかまた香枝んとこ……)
香枝と寝たきりのおとっつぁん、そして長尾の暮らす長屋に、ある日貧乏神がやってきた。ただでさえ貧乏なのに冗談じゃない。
大抵の妖は猫が唸ると消えるのに、あんなみすぼらしい風体でも神は神らしくまったく堪えず笑うだけ。困って稲荷神社の狛狐に相談しに行ったことを思い出す。
(追い出そうとしないでもてなせって言われて、川に魚を捕りに行ったんだよなあ)
何とか蛙をとるのに成功したものの、足を滑らせて川に落ちて、また河太郎に拾われた。そして、「またお前か、ちび」と。……あいつには本当に世話になっている。
『長尾、なんでそんなぬれねずみ……ひょっとしてまたどこかに落ちたの?』
『お前、よく落ちるなあ』
びしょびしょになって帰った先では香枝には心配され、顔を出していた将次にはそう呆れられ、挙句戦利品の蛙は貧乏神に『蛙じゃなあ』と苦笑され……。
「おーい、モジャあ、置いていくぞお」
「んな!」
(直也父の分際で偉そうな)
佳代子から渡されたジャージとスニーカーに身を包み、意気揚々と玄関戸を開く直也父の足元をするっとすり抜け、モジャも外に出た。
「……」
ひげがなんだか重い。不快感にひげ袋を動かしながらそれを見上げれば、空は雲がち。雨が降りそうだ。
「そっち行くのか? ……坂、きっついんだよなあ。よし、私はこっちに行く。また家で会おう、モジャ」
「……」
(そんなだから、中々痩せられぬのだ)
丘の上の稲荷神社への路地に入ろうとしたモジャは、そそくさと歩き去る直也父を白い目で見送った後、路地沿いの塀の上に飛び乗った。
(うむ、跳ぶ力もほぼ戻った!)
くふくふ笑うモジャの頭の上を燕がかすめるように通り過ぎる。遠い南の地から毎年夏にやってくるのだと将次が教えてくれた。江戸からしょーぐんさまがいなくなっても、燕はいなくならなかったらしい。
高台の上の寂れたお稲荷さまは、薄暗い梅雨空の下でなお寂しい。夏には涼しい木陰を作ってくれる楠も、今はただただ陰鬱な感じだ。苔生した石畳に、両脇からせり出した紫陽花の葉から透明な雫がぽたりと落ちた。
「なーお、あーお」
(おーい、狛狐ーって……今日も留守か)
――陰降怨嗟って! どんな妖!
ここで次に再会した時、笑い転げた旧知の妖は、今日も多分どこぞで“撮影”をしているのだろう。それをスマホとかで色んな人に見てもらうと金になるらしいが、狛狐が真に欲しているのは、見てもらい、“ほろー” してもらうという行為自体だそうだ。
――崇めてくれる人や恐れてくれる人がいなくなったら、僕たちは消えるしかない。事実何匹もの神狐が消えていったよ。なら、人が来てくれるのを待っていないで、自分から行こうかと。
――今の世はいいね、人に化けるの、楽しくて仕方ないよ。化粧も服も髪も自由、男か女かすら関係ない。僕、綺麗だろ? 元々の毛皮もきれいだけど、これはこれで面白いね、ふふふふふふ。
ぱっと姿を現した後、キラキラを体中どころか顔にまでくっつけた、ひらひらとした格好の人間に化け、くるくるくるくる回ってみせた旧知の妖を思い浮かべ、モジャは半眼になる。
『いなっちでーすっ、今日は明治神宮に来ちゃってまーす。緑がいっぱいでえ、すっごく空気が神聖な感じがするぅ』
その後、直也にスマホで見せてもらった狛狐の“ちゃんねる”を思い返すにつけ、モジャは「お前、稲荷神さまの眷属だろー!」とでも言いながら、その辺に転がりまわりたくなる。
って、実際にやった。
ら、勘違いした佳代子にノミ取りの薬を掛けられた。変な臭いがしてヤダ。
……ではなく。大事な友を失ったと嘆いたしんみりを返せと主張したい。
(本当、いろんなことが変わったなあ)
モジャは一息を吐くと、狛狐の台座の上に飛び乗る。そしてさらに上、頭の上にあがり、狐の両耳の間に前足と頭をおいた。
空が少し近くなった。こうしていると、いつかのように「我は神狐ぞ、無礼にもほどがある」とくつくつと笑う声が聞こえてきそうな気がする。
それからふとひげを震わせた。
消えたと思った狛狐は祀ってくれる相手を別に見つけて、強かに生きていた。
昨日、鳴屋が言っていた異獣だってそうだ。肩輪車もそこかしこのじどうしゃに憑りついて、世の移り変わりに合わせて生き伸びている。
(……となると消えたと思ってたやつらも、案外違うところで元気にやっているのやもしれぬ)
――そうだとも。
微かな潮風に乗って、ぼんやりした声が響く。目をパチクリさせた後、視線をそちらに向ければ、ボロボロの社の向こうに遠く海が見えた。その手前、ごちゃごちゃとした妙な建物が並ぶ辺りにそびえる巨大な茶筒のようなものから吹き出す、これまた巨大な煙がニヤッと笑った気がした。
「あいつ……」
(かまどとか七輪とかにいた……って、嘘だろ、めためたでかくなってる……)
モジャが口をぱっくり開け、瞳孔をまん丸くすれば、まるでその驚きが伝わったかのように、それは楽し気に曇り空に身をくねらせた。
――変わらずちびっちゃい魚泥棒や、尋ね人はほれ、そこにいるぞ。
昔七輪から魚を盗もうとした時、顔に煙を吹きつけられて、咳き込んだこと思い出し、両耳を横に倒して情けない顔をしたモジャに、元の何十倍にもなった
(……尋ね人? 吾輩の……って、まさか)
モジャはひげを前に倒し、目を限界まで見開いて、昇ってきた階段とは逆の坂道を駆け降りた。すれ違った年寄りが珍しいものを見るように、走りすぎたモジャを振り返る。
緩い坂の終わりが、河太郎のいるあの川だ。昔、そこに架かっていた木橋は、今はコンクリ製に変わり、上を自動車が行き来している。その端っこを歩く女の後ろ姿を見て、モジャは息をのんだ。
(香枝にそっくり、だ……)
「にゃあ!」
叫んで目の前の道路へと飛び出した瞬間、車がすごい速さで迫ってきた。耳を引き裂くような“くらくしょん”が鳴って、モジャは目を見張って固まる。
「……」
車の動きは途端にゆっくりになった。いつでも逃げられるはずなのに、足が動かない。ゆっくりと、それでも確かに車が近づいてくる。
(あ、これ、死んだかも……)
「っ、動けっ、モジャっ」
「っ」
突如響いた声に足に力が戻った。モジャはぎゅっと目をつぶると、道の端に向かって、跳躍する。
そして、草むらへと転がり込んだ。
「あっぶねえだろうが!」
車が風と罵声を残して、走り抜けていった。
「モジャっ、怪我っ、怪我はないかっ?」
草まみれになって放心するモジャのもとに、息を吐きながら駆けてきたのは、直也だった。
「大丈夫か、痛いところはないか……マジで危なかった……てか、親父、何のために一緒に散歩に出たんだよ、許さん……」
モジャの傍らにかがみ込み、心配しているんだか怒っているんだかわからない顔で、全身を確認されているうちに我に返った。
「っ、かにぇっ、にぇ、え、か、え、香枝がいにゃ」
「飼え? 買えがいな? ええと、ごめん、なんて言ってんのか……怖かった?」
「香枝!」
「うん……?」
香枝がいたと訴えているのに、うまく通じない。
(ああ、そうだ、直也は将次だけど将次じゃない。香枝を知らない――)
この橋の下で、香枝と長尾のために泣いてくれた中年の浪人者の姿が思い浮かんだ。が、申し訳なさそうに寂しそうに笑って、すぐに消えてしまう。
「っ」
抱えあげようとした直也の腕をすり抜け、モジャは再び走り出す。
橋の上を疾走し、川を渡り終えたところで、モジャは鼻をひくつかせ、懐かしい匂いがないか確認する。
(っ、わっからんーっ)
今の洗剤とやらは、猫には香りがきつすぎる! 香枝、お前もあんな匂いにはまったのか、あとで説教してやらねば、と直也父が佳代子と直也にウザがられているそのままを考えながら、モジャは左に足を向けた。
(猫の勘!)
は結構当たるのだ!!
「モジャ、待てってっ」
“しんごう”とかいう、道の脇に立つ一本足のピカピカは、なぜか人間限定の妖力を持っている。後ろからしんごうに足止めを食らったらしい直也の叫び声がした。
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