第17話 吾輩、秋刀魚を食し、いじける
モジャがねぐらに定めた本条家には人ならぬものが二ついる。
一つ目は言うまでもなくモジャだ。化け猫だ。
二つ目が
(――何かいる)
赤錆色の目を真横に走らせれば、何かが影だけを残し、モジャの背後に回り込んだ。
(ついに鳴屋とご対面……じゃないっ)
モジャは瞳孔をまん丸にしてその物体を追うと、前足を振り上げた。が、的の動きは素早く、またも背後へと隠れた。
(おのれっ!)
爪を限界まで出して、身を目一杯よじり、後ろ足の機動力を補う。が、爪が黒い毛をわずかにとらえただけに終わった。
逃げるわけでなく、またも後ろに隠れられ、かっと頭に血が上った。あざ笑うかのような動きにムキになって、モジャはさらにその影を追う。
「ぐるぐるぐるー」
「!?」
突如響いた声に、モジャはびたっと立ち止まった。
「……」
後ろ足を折りたたんで床に尻を付き、左前足をまっすぐ床に落として、持ち上げた右前足を舐める。猫は身だしなみにうるさいのだ。
「……いや、何もなかったみたいに毛繕い始めたってわかってるからな、お前が自分のしっぽを獲物だと思って追っかけてたの」
「……」
「聞こえないふりしてるだろ。しっぽ、パタパタ揺れてるぞ」
「っ」
(や、はりこやつの息の根、止めねば……!)
ここのところ馴れ合っていたことは不覚以外の何物でもない――モジャは決意を新たに直也へと飛び掛かった。
「てててて、爪、爪立ってる」
「立てておにゅにょにゃ」
「わざとかよ」
背中に回り込み、直也のシャツにへばりついていたモジャは、奴が引きはがそうと後ろに回してきた手をよけ、パーカーのフードに潜り込む。
「あーもー、伸びるって言ってるだろ。お前、大きくなってってるんだぞ」
直也がフードを引っ張り上げようとするが、モジャは敢えて丸まってフードの底にすっぽりと嵌った。これで取り出せまい。
「って、そうじゃなかった、サンマ、食べてみるかって聞きに来たんだよ。サンマってのは魚の一種な。お前、魚好きだろ?」
「しゃんにゃ!?」
(秋刀魚!?)
ゆらゆら揺れる感覚に、ひげを頬へと落とし、目を細めていたモジャはその言葉を聞くなり、ぴょんと跳ね起きた。
『モジャ、半分こしようね。秋の裏店といえば秋刀魚!』
擦り切れた着物の袖をたすきでくくり、古びた七輪を前に笑っていた香枝が脳裏に浮かんだ。
近所の分もまとめて引き受け、うちわで炭を仰いで、火を起こしていた。つやつや青々としていた身に茶色い焦げがつくと、香ばしい匂いが漂い始める。じゅうじゅうと音を立て、秋刀魚の身から油が浮き上がり、下に滴り落ちる。それが炭に触れる度に白く煙が立ち上って、覗き込んでいた長尾はしょっちゅう咳き込んだ。自分も煙で涙目になりながら、そんな長尾に香枝が声を立てて笑って……。
ずぼっとフードから顔を出すと、肩によじ登り、すぐ横の耳に抗議を叫んだ。
「秋! かにゃが言ってにゃ! しゃんみゃ、秋! しょにょ手は食わにゅ!」
「喜んだと思ったら、なんか怒った……」
「フシャー!」
(吾輩を一瞬とはいえ、ぬか喜びさせた罪、万死に値する! 死ね!)
その耳にかぶりつく。
「ちょっ、いててててっ、俺はサンマじゃない! 齧るな」
「サンマ焼けたわよー」
「!?」
(か、佳代子まで吾輩を愚弄するのか……!)
そこに響いた声にモジャはかっと瞳孔を見開くと、眉とひげを吊り上げる。
「……にゃ?」
(こ、この匂いは……)
「しゃーんーにゃああああああ」
当然ダッシュで佳代子のご機嫌取りに走った。
「にゃごにゃごにゃごにゃご」
「……ゴロゴロ言いながら、物食えるんだな、猫って。どんな喉の仕組みしてんだ」
本日、直也父の帰りは遅いらしい。先に食べ始めた直也と佳代子の前、食卓上の皿には、お頭付きの秋刀魚(!)が乗っている。
その斜め下、猫の顔型の皿の上に置かれた、解した秋刀魚の身をがつがつと食べながら、モジャは幸福に浸る。
骨はない。佳代子が直也にとらせた。まるで不器用極まりない人の幼子のような扱いに気分を害したモジャだったが、好きなものを何も気にせずひたすら食らえるというのは存外悪くない。次もやらせよう。
「冷凍サンマでこんなに喜んでくれるなんて、ほんとかわいいわあ」
「!?」
(れ、冷凍とは、我を食おうとしたあの妖術箱――)
一瞬で食べ終わり、残った油を舐めていたモジャは音を立てて皿から顔を上げると、耳を後ろに倒した。背骨を最大限弓なりにしならせ、しっぽをブラシのように膨らませる。
「フ、シャアアアアーっ」
(お前ら、吾輩をこの秋刀魚のように食うつもりだったのか!? に、人間なんて、人間なんて、だいっきらいだあああーっ)
「……あー、なんかわからんが、俺の分のサンマ、いる?」
「にゃ!」
(いる!)
* * *
(寒い……)
モジャは夜風に吹かれながら、小さな庭の片隅、肩身狭そうに生えている花水木の木の上に蹲る。
「おーい、降りて来いって」
「ぃやにゃ!」
「悪かったって、笑って」
「……シャっ!」
人の分際で化け猫たるモジャを笑ったことも気に入らぬが、問題はそこだけではない。
モジャは大きな吐き出し窓をガラッと開け、呼びかけてきた直也を睨む。室内からの明かりのせいで影になり、表情が見えないが、声がまだ笑っている。
「あー、シャンプー? ドライヤー? も気に入らなかったか」
湯を吐き出し続ける無数の目を持つ妖蛇のごとき物体と、風狸もかくやという温風を轟音と共に吐き出す物体は、モジャの敵だ。将次とどっちか先に殺る相手を選べ、と言われたら、真剣に悩む程度には嫌いだ。
「しょうがないだろ、お前、顔どころか全身秋刀魚の油まみれになったんだから」
「……」
「親父用にとっといた秋刀魚まで盗って引きずって逃げた挙句、足で踏んで、その上にすっころんで……」
「シャーっ!」
大声で人の失敗を口にする直也をモジャは威嚇する。
「後始末しながら、オヤジ、ため息ついてたぞー。残業で疲れて帰ってきたら、目の前でおかずが消えて猫の下敷き。で、おかず抜き。かわいそー」
「……みゅ」
しょんぼりした直也父の顔が思い浮かんで、モジャはひげと眉を下げた後、顔をぶるぶるっと振った。
ふんっと顔を背け、不貞腐れながら、木の上に腰を下ろし、前足を折りたたんで蹲る。まだ毛皮は微妙に湿っている。このまま夜風にあたり続けたら、直也の言う通り冷えるだろう。
いつも一緒に寝ようとうるさく誘われても無視しているが、そうなったら、今日ぐらいは直也父をカイロにしてやるとしよう。
(……まただ)
木の上のモジャの横の道を、黒猫親子が描かれた“とらっく”がゆっくりと走り、本条家の門の脇に停まった。
凄まじい速さで街を我が物顔で走り回る、四つ輪の自動車が、モジャは嫌いだ。でも、あのトラックだけは許す。ついでに、あの柄を考えた人間だけは褒めてやる。
他には、昨今とんと見かけない飛脚だったり、熊や異国の跳ねる生き物だったり、色々な柄のものがあるが、あれが今の世の荷を運ぶ大八車だそうだ。ちなみに、あれはある種の箱(!)だ。引き手はその中にいる。
「み?」
その内側から降りてきた人間を見るともなしに見たモジャは、そのあまりの大きさに目を見張った。全身の毛がぞわりと逆立つ。
(人、ではない……)
今度こそ違う。瞳孔をまん丸にしてしっぽを膨らませたモジャは、木から飛び降りると、一目散に玄関へと駆けた。
「モジャ?」
ぴんぽんという甲高い音が響いた。
「はーい」
「猫の手運輸です、お届け物です」
(まずい、佳代子だ)
玄関の壁に着いた小箱から佳代子の声が聞こえる。暢気に玄関扉へと歩いてくる足音がする。その扉のこちら側には妖がいるというのに――。
「フシャーっ」
扉が開いた瞬間、モジャは隙間から中に滑り込み、佳代子の前に躍り出た。そして、八尺はあろうかという毛むくじゃらの妖へと威嚇を試みる。
「モジャ? やだ、どうしたの?」
「……」
だが、瞬きをして改めて見上げたそいつは、大柄なだけで別に毛むくじゃらでもなんでもない。
ただし、大きな荷を片手で軽々と抱えていた。
「どうしたのかしら? ええと、ごめんなさいね。普段は大人しい、賢い子なのですけれど」
「……でしょうね」
――化け猫だもの。
「っ」
脳に直接響いた低い音に、モジャは戦慄を覚える。同時に耳を後ろに倒し、背骨を丸めた。つま先立ちになり出来るだけ身を大きく見せ……ても八尺の巨漢に対しては全く意味はないが、とにかく目を吊り上げ、再度威嚇する。
「モジャ、どうした? ああ、すみません、それ、いただきます……っと」
佳代子の背後から現れた直也父が荷物を受け取ったが、その瞬間前につんのめった。
「すみません、重いとお伝えすべきでした」
そう言ってそいつは一礼すると、モジャと光る目を合わせてニヤッと笑い、トラックへと戻っていった。
(あれ、何もしない……)
――異獣だ。人の荷を好んで運んでやる、けったいな奴らだ。
肩透かしを食らったモジャの耳に、囁き声が届いた。
――気を付けて見てみろ、今の世はそこら中、あいつらだらけだぞ。
モジャより先にこの家に住み着き、今の世をよく知る鳴屋の言葉に目を瞬かせた。
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