第16話 吾輩、幽霊どもに情けをかける

「お身内の方ですか?」

「いえ、違います、その、うちの猫を探していて、こいつなんですけど、鳴き声がしたので、窓から覗いたら倒れていらして……」

「お知り合い? 同乗いただけますか」

「え、いや、ほんとに通りすがりで、その、猫、もいますし……」


 救急隊員に完全に不審がられながら、あたふたと連絡先を渡し、なんとか救急車に出発してもらった直也は、見送りながら「そりゃ疑われるよな」とかくりと肩と頭を落とした。

「……」

 胸元に抱えられたまま、モジャは背後のその直也へと耳を向ける。ひげはぴんと前に張っていた。

「モジャ、あのおばあさんと知り合いか」

「……にがう。みにゅ、かけられにゃ」

 さらっと話しかけられて、また耳が動いた。しっぽが揺れる。人の言葉で返したが、直也の心の臓の音はいつもと変わらないように聞こえる。


「水かけたから謝ってたのか、あの婆さん」

「にが、に、に……ち、違う。しゃいにょ、怒ってにゃ」

「最初は怒ってた? ……なんだそれ」

「にゃんで、って言ってにゃ。で、倒れにゃ。で、ごにぇんって」

「なんでって言って倒れた。で、ごめん? ……ますますわかんねえ」

「わがにゃいも分かにゃにゅ」

 

 どくんどくんと心の臓は規則正しい音を刻み続ける。両耳がぴくぴくと動き、しっぽが忙しなく揺れる。


「てか、婆さんが倒れたの、お前のせいじゃ……」

「っ、勝手にころんにゃ!」

 モジャが近づいたから、と言えばそうなるかもしれないが……。

 目を逸らせば、右のひげ袋が痙攣した。そんなモジャに直也はジト目を向ける。

「お前――あのおばあさんに人の言葉、しゃべったな?」

「み」

 直也の声が低くなった。思わず全身の毛を膨らませれば、直也が一呼吸おいて笑い出した。「試験管ブラシだ」と。


「ったく、あっぶねえなあ。お前、人前でしゃべるなよ、研究機関とかに連れて行かれるぞ」

「……連にぇていかにぇにゅ、わがにゃい、化けにゃこ」

 “けんきゅうきかん”が何かは知らぬが、猫は人の思い通りになどならぬ。まして化け猫ならなおのこと。

「いやあ、公権力、お上は怖いかもしれんぞー。しゃべれる猫なんて、スパイにもってこいじゃん。って、そうか、わがにゃいって吾輩か」

 そう言って直也は「スパイってのはこっそりどこかに忍び込んで秘密を探る仕事だ、多分」とまた笑った。

 なるほど忍者のようなものか、とモジャは納得した後で、そんな自分を想像してひげをひくつかせた。ちょっと粋な気がする。


「さ、帰ろうぜ。ここまでずっと走ってきたんだぞ。なんか足いてぇし……って、ズボン、ボロボロだ……」

「……」

(帰る? 一緒に?)

 自分の足を見て愕然とする直也に、モジャは目を瞬かせた。下がっていたひげが再びぴんと立ち、しっぽが大きく揺れ始めた。

「……関わににゃくにゃいは、どうににゃ」

 きょろきょろと目を動かしながらもごもごと鳴けば、今度は直也が目を瞬かせた。

「あー、しょーがねえだろ、もう関わっちまったんだから」

 そして、無礼にもモジャの頭をわしわしっと撫で、「こっえーなあ、化け猫、俺の口癖まで記憶してる」とくつくつと笑う。

「……ああ、そっか、それで気ぃ使って逃げ出したのかあ。悪かったな」

「っ、にゃい! おみゃいごときに、気にゃど使わにゅ!」

「い!」

 へらへらと笑い出した直也の腕に、モジャはカプリと噛みついた。なのに、直也はまだ締まりのない顔をしている。業腹にもほどがある!


「いいから帰ろうぜ。お前が帰んなかったら、母さんは激怒だろうし、オヤジは泣くだろうし」

「……」

(ま、まあ、仕方がない。佳代子は怒らせると怖いからな。直也父が泣くのは鬱陶しいだけだが)

 直也に抱っこされたまま、モジャは“家路”に着く。

 濡れたままだった毛皮を、直也がてぃシャツで無造作に拭いた。汗臭い。が、文句を言うと、またシャンプーされるので我慢する。家ネコも色々大変だ。


 辺りはもう夜にすっかり覆われようとしていた。ただ稲荷神社の方向の地平付近だけが中空に侵食してきた闇と分厚い雲に抗するかのように、薄く燃えている。


 みぃーあ、みゃあーお チリーン


 モジャと直也の背後で、また仔猫の鳴き声とベルの音が響いた。



* * *



 数日後、モジャは直也と共に人用のびょーいん、江戸の世で言う養生所に見舞いに来ていた。

「あ、こら、どこ行くんだよ」

「にゃ」

 例によって直也の肩の上に乗っていたモジャは病院の敷地に入ったところで、ひょいっと飛び降り、勝手に中庭に向かって歩き出す。

「あーもー、マジで勝手だな」

「にゃん」

 猫とはそういうものだ。振り返らずとも直也がちゃんとついて来ていることも知っている。


 あの日の夜、老婆の娘から直也に電話があって、礼をしたいと言われたそうだ。それで逆に直也がお見舞いに行きたいと頼んだらしい。

『……にゃんで』

 “関わりたくない病”はどうした?と思って、胡散臭いものを見る目で直也を見たモジャに、直也は直也で『なんかモジャに会いたがっているらしい。……お前、やっぱ何かやったんじゃ?』と疑いの目を返してきた。

『にゃい。はず』

『はずっておい……まさか入院費用とか請求されたり……』

などとぶつぶつ言い出したが、それは人の事情だ。モジャには関係ない。


 あおー、なーお チリーン

 子猫の鳴き声と自転車のベルの音がまた響いた。その音の方へとずんずん歩いていく。


 赤土を四角く固めたような石、“煉瓦”を積んでできた建物の横に広がる庭には、様々な花が植えられていて、鼻がムズムズする。人間の目には色とりどりの、ということになるらしいが、モジャの目には人が感動するほどのことがあるようには見えない。どうも猫と人は見えているものが微妙に違うらしい。

 今直也が持っている花もそうだ。老婆への見舞い品として、途中寄った花屋で買った。食えもしない花を人間は「綺麗」などと喜ぶが、モジャには何が嬉しいのかさっぱりわからない。人間は相変わらず変わっている。

 それでも、どの花にするかはモジャが直也に指図した。もしゃもしゃした感じの見たことのない変な花だが、のだから仕方がない。どうせ金を出すのは直也だし。


「だから、勝手に行くなって。今から娘さんに電話するからっ、モジャっ」

「んにゃ」

(必要ない)

 周りにたくさん人がいるので、人語は話さないことにする。寝間着を着た者、杖を突いている者、車輪のついた椅子に乗っている者、色々だが……。

(びょーいんにいるということは、こいつらもみんな尻を……)

 モジャはひげを落とし、哀れな人間どもに同情の目を向ける。化け猫などという高貴な生き物の存在を見せて、委縮させてはさすがに可哀想だから、なおのこと人語を口にしてはなるまい。


 直也のスマホから呼び出しの音が鳴っている。

「こんにちは、本条です。今病院に着きまして、」

「「ありがとうございます、私も母も中庭にいて」」

 スマホからの音と、前方から女の生の声が重なって聞こえた。


 にぃ、にぃーあ チリーン


「にゃ」

(だから必要ないと言ったのだ)

 モジャがふふんとひげを震わせ、口角を上げて直也を見れば、スマホを耳にあてたままの直也が口をへの字に曲げながら右の眉をさげた。


「こちらです、本条さん。お母さん、助けてくださった本条さんと猫ちゃん。会いたがっていたでしょう?」

 女に話しかけられた老婆は、模様も帯もない浴衣のようなものを身に着け、その上から濃い色の羽織を着ていた。佳代子も持っている、“かーでがん”というもののはずだ。

 老婆は娘の押す車輪のついた椅子に腰かけ、ぼんやりと花壇を見ている。その手前には小さな自転車が止まっていた。車体が大きく曲がっている。


 チリン、チリン


 ベルが二回鳴った。その音が聞こえでもしたかのように、老婆ははっとした顔でモジャへと顔を向ける。

 それから背後の直也を見、目を限界まで見開いた。直後、直也の手に視線を移して、顔をくしゃくしゃに歪め、よろよろと立ち上がる。

「お母さん?」

「じゅんぺえ……」

 呆気にとられる娘を見もせず、老婆は全身を戦慄かせながら直也へと足を踏み出してきた。が、自重を支えきれず、倒れそうになる。

「っ」

「っ、ごめん、ごめんね、順平……っ」

 身を滑り込ませるように彼女を抱き留めた直也に縋りつき、老婆はわんわんと声を上げて泣き出した。

「クロっ、ごめんね、ごめんね……っ」

 そして、子猫の名を呼び、咽び泣く。


 にゃあ


 直也に縋って泣き続ける老婆の足もとに、小さな黒猫が現れた。老婆のやせ細った脛に頭をこつりとぶつけ、背を擦り付けた。一歩、二歩と前に踏み出し、モジャと同じくらい長い尾をその足にまとわりつかせる。そして、「なあ」と鳴きながら、老婆の顔を覗き込んだ。

「……ええと、その、大丈夫、ですか?」

 めちゃくちゃ動揺していた直也は、ようやく老婆を宥めることを思いついたようだ。戸惑った顔のまま老婆の小さな背に手をかけ、撫で始める。そこに中空から現れた小さな子供の手が重なった。

「ええと、そうじゃない、のか……? 大丈夫……?」

 戸惑ったような顔をしつつも直也が「ええと……、“もう大丈夫だから”」と言い直すと、老婆はますます泣く。

 途方に暮れる直也の顔に、モジャが思わず猫の悪い笑みを漏らせば、直也の横で老婆に寄り添っていた小さな男の子がモジャを見、頑是ない顔でにこりと微笑んだ。その足に甘えるようにしっぽを絡みつかせながら、子猫がまた「なーお」と鳴き声を響かせた。



* * *



 家路をたどる直也の肩に乗り、モジャは空を見上げる。

 傾いた黄色味を帯びた日が西の彼方へと沈もうとしている。まるで悪あがきをするかのように、その光が空全体を染め、猫の天敵であるカラスがその中をふてぶてしく鳴きながら、寝ぐらへと戻っていく。

 真横からあたる西日に、直也がまぶしそうに目を眇めた。瞳の大きさを変えるだけのことができないとは、人とはつくづく哀れだ。


「……今日、母の日だったんだな」

 前世も今世でも溺れかけた川に出た。土手の道を歩きながら、直也がつぶやく。


 あの老婆の息子はずいぶん昔に自転車の事故で死んだそうだ。拾った黒猫をこっそり飼っていたが見つかり、「捨てて来なさい」と言われて家出し、その途中で猫と共に。

『母はずっと悔やんでいました』

 年取ってできた末っ子だったそうだ。生きていれば、直也より一回り半ほど年上だったらしい。

『背ばっかり高くて、ひょろっこくて、ちょっと頼りなさそうに見えるけど、優しくて……あのまま大きくなっていれば、本条さんに雰囲気がちょっと似ていていたかもしれません』

 あの老婆の長女は直也を見て微笑んだ。

『それが原因で父とも離婚して……。私と一緒に暮らすか、施設に行くかってずっと説得していたんです。でも頑なにあの家から離れなくて……。ある時、ぼそっと言ったんです。あの子たちが帰ってくるのを待たなきゃ、謝らなきゃって。いよいよ認知症の症状が出始めたかと思っていたんですけど……』

 娘はモジャの前にかがむと、ゆっくりと頭に手を置いた。

『ありがとう。きっと君のおかげね』

 そう言って、泣き笑いを零した。


「俺もカーネーション、買って帰るかなあ」

 モジャたちについてきた子供の幽霊が買ってほしいと指さした花は、母に贈るものだそうだ。モジャの知らぬ花、知らぬ風習であることを考えると、江戸の世が終わった後に南蛮辺りから入ってきた慣わしなのかもしれない。

「かにょこに感謝せにょ」

 あの子供が生きていれば、母の日をすっかり忘れていた直也より、よほど番を得る機会に恵まれた大人になっていただろう。気が利くオスはモテるのだ。

「ついでにゃ、にゃおにゅーる、買え」

「はいはい」


 直也の肩の上からモジャは夕日にきらめく川面へ目をやった。

(……この顔はそっくりだ)

 視界に入る直也の目元は緩んでいる。誰かを想って微笑んでいるとわかる横顔は、将次そのものだった。


「婆さん、家売るらしいけど、それでもこの辺から離れたくないって、このちょっと先のホームに行くって」

「ほーみゅ?」

「あー、家族じゃない人が集まって暮らすんだ。できないことが増えてきたら、助けてくれる人もいる」

「……」

(長屋みたいなものか。だが……世話を受けられぬこともあるはずだ)

 火傷した後の香枝を思い出して、眉とひげを落とせば、直也が「……また見舞いに行くか?」と呟いた。

「関わににゃくにゃいは、いいにょか」

 横目でじろっと直也を見れば、「あー」とぼやき、逆の手の人差し指をモジャの鼻の真ん前に突き出してきた。

「関わっちまったんだからしゃあないだろ」

「……」

 その指に思わずひげ袋と頬を擦り付けたのは、尖った物を見るとそうしたくなる猫の習性というだけだ。決して敵である直也と馴れ合っているわけではない。


「なあ、お前、あの婆さんのこと知っててあそこに行った?」

「……」

 モジャは直也の言葉をわからないふりをする。妖は妖の世のことを人に話してはいけない――。

(……教えてくれたの、あいつだったな)

 いたちによく似た姿の妖、窮奇かまいたちを思い出し、モジャは薄い切り傷のある鼻を舌でペロリと舐めた。あいつは人には人の決まりがあるように、妖には妖の決まりがあるのだと言っていた。馴れ合わないために必要なことだ、と。

 妖ならば人を傷つけ、怯えさせろ、殺せと散々言っていたあいつが、なぜ直也を襲おうとしていたモジャを邪魔したのかわからない。だけど……。

「んなわけないか」

 質問してきたくせに勝手に答えを出して、能天気に笑っている直也を見たら、ちょっと感謝してもいい気になった。

 人は自分勝手で、自分の都合で簡単に他を捨てる。弱きものへの憐れみも慈しみもない。

 でも、そうじゃない人間もいる――。



 川面を風が渡ってきた。爽やかな初夏の空気と言えど、夕刻ともなればさすがに冷える。モジャの長い黒毛と直也の髪をひんやりと揺らし、吹き抜けていく。


 あーお、なー チリチリン


 また子猫の鳴き声と自転車のベルの音が聞こえた。

 繰り返されるその音は風と共に徐々に遠ざかり、小さくなっていく。そして、夕日の赤と夜の藍に染まった雲の向こう、逢魔時の空へと吸い込まれるように消えていった。


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