第15話 吾輩、逢魔時をさすらう
「……」
(お稲荷さまだ……)
立ち止まってはぼうっとして、足の赴くまま歩き出してはまた止まる。そうしてふらふらと街を彷徨っていたモジャは、見覚えのある光景に目をまん丸くした。
赤く染まった夕暮れ空を背景に、丘の上にそびえる大楠の影が見える。いつの間にか本条家の近所まで戻ってきてしまった。
それからふんと鼻を鳴らした。
(猫にも方向感覚はちゃんとあるのだ。犬と違って猫は元の場所に戻れないなどという奴らこそ阿呆だ。猫は帰れるけど帰らないだけ!)
――モジャはもう帰れないけど。
またペショリと耳が倒れ、しっぽが落ちた。
「みゃあ、みゃーお」
(? ……迷子猫か)
顔を伏せ、道の端をあてどなくとぼとぼ歩いていると、どこからか子猫の鳴き声が聞こえてきた。親を呼んでいる。
周囲は夕刻の赤と夜の青の混ざった紫に染まり、物の色合いがわからなくなっている。電信柱とかいうコンクリでできた木も道路も家も塀も人すらも。
(
この時間帯を人はそう呼ぶのだと教えてくれたのは、寝付いていた香枝のおとっつぁんだった。あの世とこの世がつながる時間だといい、帰りが遅くなった香枝を心配していた。
(今思うと、彼岸に片足を突っ込んでおるような生活をずっとしておったから、その辺の勘が鋭かったのやもしれぬ)
今もそこかしこの影から、この世ならざらぬものの気配が漂ってくる。
「みゃーお、みゃー」
しつこく鳴く子猫の声に、チリーンという微かな音が重なった。じてんしゃとかいう、二つ輪の車の鈴というか、鐘の音のはずだ。
「にゃあ」
子猫が嬉しそうに鳴いた。先ほどまでの不安げな声に変わって、ゴロゴロという音が響きだし、モジャは微かにひげを上げた。母でなくとも飼い主に見つけてもらえたらしい。
(うむ、同胞、しかも幼きものが幸せそうなのは良きこ)
「うるさいっ」
「……」
次の瞬間、頭に衝撃を受け、モジャは茫然と固まった。
(水、をかけよった……)
眉とひげを伝って落ちてくる雫、毛の間に染み入って肌に伝う冷たい感触にそう認識するなり、モジャはかっと瞳孔を見開き、耳を後ろに倒した。毛を逆立てると、音を立てて傍らの民家、頭上の窓を振り仰ぐ。
(母猫を求めて鳴く子猫ぞっ、濡れて冷えてしまえば、死ぬことすらあるというに……!)
だから人は嫌いなのだ。自分勝手で、弱きものへの憐れみも慈しみもない。
自身子猫であることを忘れて、モジャは水を浴びせかけてきた窓枠へと飛び乗ると、唸り声を上げた。
「ぎゃっ、あ、あっちへお行きっ、ああ、畜生、猫なんざ、みんないなくなればいいんだっ」
ティッシュと呼ばれる薄紙の入った箱を投げつけられたが、モジャは難なくかわすと、薄暗い室内に飛び降りた。
古畳のささくれが微妙に肉球を刺し、不快感が増した。
(奇遇だな、吾輩も人など滅べと思っている――)
「奇遇にゃにゃ、わがにゃいも人にゃにょ……」
呪いの言葉を返してやろうとしたモジャだったが、途中で止めてペタンと耳とひげを落とした。滑舌が悪くてカッコ悪すぎる。
(っ、狛狐のしわい屋め……っ、話せるように妖力を分けてくれるなら、もっとくれればよいものを)
さらに不機嫌になって目を吊り上げれば、その人間――白髪のよわっちそうな老婆だ――は「ひぃっ」と声を漏らし、後退った。
みぃ、みゃあお、チリーン
また子猫の声が聞こえた。自転車のベルの音もする。
自転車の輪が回る軽快な音が聞こえてきて、だんだん大きくなったかと思うと、きゅっと音を立ててこの家の前に止まった。倒れてしまわぬためのスタンドとかいう仕掛けがかちゃりと音を立てる。
怯えていた老婆が不意に動きを止めた。目ん玉を剥き出すつもりであるかのように、徐々に眼を見開くと、モジャを呆然と見つめる。
「あんた、な、んで……」
「シャっ」
馴れ馴れしく話しかけるなという意図を込め、モジャはひげ袋を吊り上げた。ひげが前へと傾ぐ。
喘ぐように口を動かす老婆へと、モジャはゆっくりと近寄っていく。
よろけるように一歩下がった老婆のかかとが、部屋の敷居にかかった。
(――逃がさぬ。謝れ……!)
老婆のはっとしたような顔に、「向こうの部屋へ逃げ込む気だ」と判断するや、モジャは唸り声を上げた。
* * *
「どこ行ったんだよ……てか、何がどうなってんだ」
肩で息をしながら、直也は滴る汗を袖で乱暴にぬぐった。
日が暮れつつある。空は金とオレンジ、赤に染まり、天頂からは藍が滲み出した。直に街は薄暮に覆われ、物の判別がつきにくくなるだろう。小さな黒猫なんてなおさらだ。
(事故とか冗談じゃないぞ……)
直也自身この時間帯は危ないと、幼い頃の交通安全教室などでさんざん言われてきた。
言葉をしゃべったモジャを連れて直也が逃げ込んだのは、大学の体育館裏だった。
そこで半信半疑で確かめてみれば、あいつは本当に人の言葉を理解していた。これまでのことを思い返し、納得する自分と、面倒なことになったと思う自分がせめぎ合う。
そんな中、モジャが小さく悲鳴をあげた。見れば鼻から血が出ていて、とりあえず具合を確かめようと手を伸ばしたが、拒絶された。
いきなり駆け出したモジャを慌てて追いかけるも、すぐに見失ってしまう。
高橋先生の部屋、キャンパス内の池や木立、実験用の魚の飼育水槽が並ぶ部屋を窓越しに見られる木の上、食堂やカフェ、モジャが行きそうな場所を回ってみたが見つからない。
「だから嫌だったんだ……」
焦りと苛立ちを何とかしようと、汗で額に張り付いた前髪をかき上げれば、思わず愚痴が口をついて出た。
何か起きれば、心配で落ち着かなくなるのは目に見えていた。いずれ来るだろう別れも嫌だ。関わりたくなかったのに、なぜ飼うなどと言ってしまったのか――。
「っ」
ぎゅっと目を閉じ、ため息を吐き出して再び目を開けた瞬間、すぐ目の前に先ほどのド派手なインフルエンサーがいた。
総毛立ちながら、思わず飛びのく。
(なんだ? 今、目、金色だった……)
息がかかる距離だというのに気配も感じなかった。先ほどまでとは別の汗をにじませた直也にかまわず、彼は「あっちあっち」と左奥を指さした。
「……は? え、えと、あの、何……って、ひょっとしてうちの猫、見た?」
その方向を見、モジャのことかとたずねた時には、彼はまた消えていた。「ごめんねえ、ちょっと急すぎちゃったみたい」とか言う、訳の分からない言葉と笑い声だけを残して。
(って、どっちだ?)
疑問だらけになりながらも示された方向へと走り出し、大学を出たところで立ち尽くす。
「いっ」
迷いつつ道を選んだ瞬間、足に小さな痛みが走った。戸惑いながらもう片方の道に行く。
それを何度か繰り返して、直也は今、かかかりつけの動物病院の近く、モジャのお気に入りらしい稲荷神社の見える場所に辿り着いていた。
先ほどより風景の中の青が濃くなっている。夕陽による影が伸びたことも手伝って、確かにそこにあるはずの物の輪郭までぼやけ、溶けていくような気がした。
「モジャーっ」
そわそわと周りを見回しながら叫んだ後、顔を歪めた。
「……何やってんだ」
元々拾ってきた猫だ。出て行きたいなら、出て行ったっていい。
そう思った瞬間、車一台がようやくという道のすぐ脇を、SUVが猛スピードで駆け抜けていき、直也は眉間に深い皺を寄せる。
「いや、でも、ちびっちゃいし……どうせなら大きくなってワクチンとかも全部済ませて、それからの方が……ああ、でも、都会は生きていきにくそうだし、田舎とか、良さそうな移住先を選ばせて……ああ、でも、しゃべるような猫がうまくやっていけるような場所は――」
真剣に悩んでいる自分に気づいてしまって、直也は息を止めた。
「やっぱ面倒なことになったじゃないか……」
ぐっと唇を引き結び、暮れ行く空に顔を向けると、息を吐き出した。
何にも関わりたくない。深く関われば、感情が揺さぶられる。こうして心配なんかもすることになって、悩まなくてはいけなくなる。でもそうしたらウザがられる。言い争う羽目になったり、喧嘩なんかが起きたりもするだろう。
何より……――ダイジニシテヤレナイ。
「……」
直也は表情をそぎ落として、視線を地上に戻した。虚ろな目で紫に染まる路地の遥か彼方を見つめる。
この先、大楠を抱く丘の向こうに、モジャが落ちた川がある。橋のすぐ下に、打ち捨てられた地蔵だったものがある。
――ソノタモトニ、オガワカレタネコノシタイガウマッテイル。
月明かりの下、自らの腕に抱かれた血まみれの黒猫が脳裏に浮かび上がった。赤目のその猫は悲しそうに一声だけ泣いて、全身から力を失った。腕に巻き付いてこようとしていた長い尾がだらりと地に落ちた。
――ホレタオンナヒトリ、ソノアイビョウイッピキ、スクエナカッタ。
「っ」
猫の唸り声と「わあっ」という人の声が響いた。直也は我に返ると、二回瞬きし、その方向へと駆け出した。
家がひしめき合っている古い住宅街だ。家屋が通りに直接面している家が多く並び、呻き声はその一つから聞こえてくる。
(……すみません)
後ろ暗い気持ちになりつつ、その家の開け放たれた窓からおそるおそる中を覗けば、
「モジャっ」
が、薄暗い部屋の中で耳を後ろに倒し、鼻をひくつかせて何かの匂いを嗅いでいる。そして、直也の声にびくりと体を震わせた。
「にゃ、にゃおや……」
振り返った目が見る間に黒く丸くなる。
「お前、こんなとこで何やってんだ、しかもなんかまた濡れてね?」
「……」
情けなさそうにさらにひげを落としたモジャの向こう、奥で人が倒れている。呻き声はその人のものだ。
「っ」
直也は蒼褪めると、靴をざっと脱ぎ、窓から室内に侵入した。
(ああ、もう完全に不審者じゃないか……)
通報されたら一発でアウトだ。
「大丈夫ですか、救急車、呼びましょうか」
冷や汗を流しつつ近づいてみれば、モジャが情けない顔をしている理由が分かった。
その人は年の頃70ぐらいの女性だった。びしょ濡れのモジャの前足を掴み、眉間に深い皺を寄せ、朦朧となりながら「ごめん、ごめんねえ」と繰り返していた。
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