第14話 吾輩、家出する

 直也がモジャを抱えて走ってきたのは、大きな箱のような建物の裏手だった。天井が高く、柱も部屋もない、ひたすらだだっぴろいそこには毬つきをしている連中がいて、毬が弾む音と足の動きに合わせたきゅっきゅという音が響いてくる。


 立ち止まったというのに直也は無言のままで、モジャは耳を横に倒しつつ、その腕から飛び降りた。

 空は晴れ渡り、お天道様が明るい光を地上にそそいでいる。だが、その光を建物が遮るこの場所は微妙に薄暗い。

 もがいて直也の腕から飛び降りたモジャに、直也が「……しゃべったな」とぼそりと呟いた。


「……だからにゃんにゃ」

「 “だからなんだ”……」

「わがにゃい、化けにゃこにゃ」

「前半はわからんが、その後は“化け猫だ”……」

 そう言いながら、モジャを見つめる直也の顔はまたのっぺりしている。

「……」

 モジャは直也のこの顔が嫌いだ。なんかムカつく。目尻がつり上がり、しっぽが左右に振れ出した。

「なんかおかしいとは思ってたんだ。俺、猫飼ったことないけど」

 直也が口の中で零した独り言を、腹立たしいほど爽やかな風がモジャの耳に運んでくる。

「お前、こっちの言葉、分かってただろ」

「にゃこの言葉が分からにゅ、おみゃいらが愚かにゃのにゃ」

 我らは人の言葉がわかるのに、人は我らの言葉を解さぬ――猫が特別賢いわけではない、人が愚かなのだ。睨みつければ、「かもな」と直也は息を吐き出しながら天を仰いだ。そのまままた黙り込む。


『しゃ、しゃべ、しゃべった、化け猫だ……!』

 香枝が死んで化け猫になって以降、人の言葉を話す度に人々が向けてきた目が思い浮かんできた。そこに先ほどの人間たちの驚きぶりが加わって、モジャは尻尾を地面に繰り返し打ち付ける。

(……ああ、そうだ、江戸の世も今の世も人の本質は変わらぬ――)

 周囲が悪だと言えば悪だ。赤目も長い尾も火つけ猫の特徴だ、悪だと皆が言うから皆そう信じた。その時点での長尾はただの猫だったのに。

 飼い主の香枝はその長尾に魅入られた結果、天罰を受け、火傷を負ったのだと吹聴された。皆がそう言うから皆そう信じた。実際は何もしていないどころか、香枝は人助けをして火傷したのに。

 今の世は赤目と長い尾を気にしなくなっただけで、人の性根は何も変わっていない。

 奴らにとってしゃべる猫は妖で、何をしようがしまいが悪――。


 ――ナラ、ソノトオリニフルマッテ、ナニガワルイ。


「……」

 直也は無言のまま、晴れた午後の青空に浮かに綿雲を眺めている。無防備にさらされたその喉を見つめるうちに、赤色が目立っていたモジャの目に黒が広がっていく。


 ――ヒトハテキダ、イワレノナイツミヲナガオニカブセテ、カエヲコロシタ。


(そうだ、香枝だけじゃない、たくさんの仲間たちも生き物たちもみな人の勝手で消えていっている――あの喉を噛み切れば、)


 ――モットチカラヲエラレル、ヒトニオモイシラセテヤレル。


 そう思いついた瞬間、黒目が限界まで広がった。優れた聴覚がいつになく速まった心の臓の拍動と、それによって送り出される血の流れの音を拾う。尾が痛い。

(二本に割れる)

 前世の経験を思い出して、モジャは両の口の端を吊り上げた。前足と後足、計十八本の爪それぞれに熱さを感じた。これもすぐに伸び、硬くなるはずだ――人の血肉を切り裂ける程度に。

 モジャは直也の喉笛を見つめ、跳躍のために後ろ足をたわめた。前足で地を掴む。


――やめとけ。

「ぎゃっ」

 が、鼻先に風が触れたと思った瞬間、痛みが走って、モジャは尻もちをついた。耳がへにょりと後ろに倒れる。


――おぬし、相変わらず阿呆じゃな。妖に向いておらぬと何度も言うてやったろうが。

「…………、っ、にゃああ!」

(……っ、お前か、窮奇かまいたち!)

 化け猫になったばかりの頃しばらく一緒にいて、妖の決まり事だのなんだのをうるさく言ってきた奴だ、その時も散々馬鹿にされた……!

「シャアっ」

(待てっ)

 再会を懐かしむより先に怒りが立って、疾風と化したいたちを追いかけようと前足を踏み出した瞬間、視界がふさがれた。

「モジャ? どうした……って、鼻、血が出てる」

 のっぺり顔じゃなくなった直也がモジャの前にしゃがみ、目を見開いて腕を伸ばしてくる。


『っ、い、言ったの、俺ですっ、ゆ、有名人に会えて、動転して噛みましたっ! すんませんっ』

 その顔に、先ほど直也が自分をかばったことを思い出してしまって、モジャは口を閉じると、ひげと尻尾を情けなく落とした。

(どいつもこいつもいらぬことばかり……)

 窮奇かまいたちの高笑いが遠ざかっていく。本気でムカつく。


「……」

 耳を横に倒し、背骨をぎゅっと丸めて直也の指を避けると、モジャはざっと音を立てて踵を返し、走り出した。


「お、おい、モジャっ」

 直也の動転する声は聞こえたが、足音は聞こえない。耳を後ろに倒し、モジャは大学の中を疾走する。


『関わりたくない』――直也の口癖が頭の中で響いている。

 モジャが話すこと自体にはあまり驚いていなかったように思う。けど、あいつは何かに関わって「めんどくさい」ことが起きるのを異様に嫌がる。

(ふんっ、化け猫なんて面倒以外何でもないだろう。香枝だって長尾が化け猫だと誤解されたせいで見捨てられ、死んだのだ)

 モジャとて、図体ばかりでかくて鈍い直也の面倒など見たくない。爪切りもシャンプーもびょーいんも嫌いだ。たいおんそくていとちゅうしゃは特に嫌だ。

 大体直也は仇だ。これまで馴れ合いすぎたのだ。


(次会う時がお前の最後だ)

 別に今殺してもよいのだが、モジャは鬼ではない。化け猫だ。母たる佳代子と今世の別れを惜しむ時間を与えてくれよう。

(鬼と化け猫なら化け猫のほうが、情けがあるのだ)

 鬼に出会ったことはないが、と思いながら、行く先も決めずモジャは大学から走り出た。

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