第13話 吾輩、当代の妖「陰降怨嗟」に出会う

「本条っていけ好かなくね?」

 突如響いてきた声に直也は手を止めた。せっかくモジャが寛容に奉仕の機会をくれてやっているというのに。

「……」

 片目を細めつつ、モジャは原因となった声の主へと耳を向ける。先ほど直也が歩いていた廊下にいる。


「なんでだよ、人当たりいいじゃん。ノートも見してくれるし、頼まれ事だって基本引き受けてくれるし」

「だからさー、それが胡散臭いんだよ、いい子ぶってさ。何言っても当たり障りなく返すし、いっつも笑ってて腹ん中で何考えてんだか」


「……」

 思わず頭の上の手のひらの向こう、直也を窺えば、またあののっぺり顔をしている。さっきまで笑っていたのに。


「坂本の話、聞いたか? 課題のレポート一緒にやろうって誘ってやったのに、とっとと帰っちまったって」

「あー、付き合い悪りぃってのは聞いたこと、あるけどな」

「トークとかもあんま参加してこねえだろ。鈴木さんが連絡先頼んだらしいけど、断ったって。スマホがつぶれてるとか、ぜってぇ嘘だって」

「おまえ、鈴木さん狙いだから気に入らねえだけだろ」


「……」

(陰口という奴だな)

 何の表情もなく止まったままの直也が気に入らなくて、モジャは眉を逆立てると、その手のひらに頭突きをする。

「あ、ああ」

 目を瞬いた後、直也はモジャに焦点を合わせてまた苦笑したが、余計ムカついた。


「……」

 ぷいっと直也から離れ、モジャは耳とひげを傾け、噂話の主の姿もう一度を確かめた。

(ふむ、若和布わかめを乗っけたような頭のあいつか。おどろ髪とはああいうものを言うのだろう。直也よりちまっこいではないか。あれなら喉笛どころか顔にすら届く――)

 モジャは目を眇め、そこへと跳躍すべく、後ろ足をたわませる。

「むぎゅ」

 だが、身を低くし、跳び上がろうとした瞬間に抑えられた。

「っ、シャっ! にゃにゃ! うーなななおにゃん!」

(邪魔するなっ。吾輩はあいつが気に入らぬ! 眼球の一つぐらい抉り出してくれる!)

「…………怒ってくれてる?」

 だが、直也は全身の毛を膨らませたモジャを見て、目をまん丸くした後、今度は幸せそうに微笑んだ。のっぺりした顔じゃなくなって、ちょっとほっとしたのは内緒の話だ。


「いいんだ、慣れてる。ああいうの、いつもなんだ。最初はうまくやれるんだけどさ、そのうちに何考えてるかわからないって言われ出す」

「……」

 モジャは片耳を横に倒し、二回震わせた。

 直也の考えていることなんて、丸わかりではないか。殺そうとたくらんでいるモジャを前に「可愛いなあ」などと平和ボケしたことを考え、我が物顔でゴロゴロ転がるモジャに「仕方ねえなあ」とでも言いたげな顔をして寝床を譲り、能天気にいつもへらへらしている。

 佳代子のことも、面倒そうにする時もあるが、大事に思っているはずだ。直也父のこともそうだ。めたぼを直せと散歩に誘ったりしている。


(将次もそうだったな……)

 優しかった。おさむらいの家に生まれ、えらそうにしていいはずなのに、大雨の後の速い流れの川に入って猫の子と町娘を助けた。河太郎がいなかったら、死んでたっておかしくない状況だったのに。

 自分だって貧乏なくせに、それからは何かと気にかけてくれた。なんとか流という剣術道場の奴らだって、手伝っていた寺子屋の子供たちだって、よく面倒を見ていたからか、みんな将次のことを慕っていた。親身になって相談に乗って、助けがいるなら一生懸命助けていた。

 香枝のことだって好きで仕方がなくて、内心緊張しているのを隠しながら、いっぱい話しかけて、いつだったかは結ばれることはないとわかっているのに、それでも知りたいと……。


「?」

(直也、は、そうではない……)

 優しいのも長尾、それからモジャに甘いのも同じだけど、直也は将次と違って、自分のことを話そうとしない、他人のことを深く聞かない、人と関わりたがらない――。

「……」

 モジャは瞳孔をまん丸くして、直也を見つめた。とたんに知らない人間のように見えてくる。

「まあ、いいよ。浅く適当につき合ってるだけだし、揉めることもない。うまくやれなかった時悲しむことも悲しませることもないしな」

 モジャのその顔が疑問に見えたのかもしれない、直也はまたのっぺりとした顔になり、そう呟いた。


『長尾っ、長尾っ、ごめんなあ、香枝のことも助けられかったのに、お前まで……』

 何かを言わなければいけない気がして口を開いたのに、「……にぃ」などという掠れ声がかろうじて飛び出ただけだった。


「みゅ?」

「? なんだ?」

 きゃーという歓声が響いて、モジャと直也は同時に声の方向へと顔を向けた。

(あいつかな、陰降怨嗟……って、陰ではまったくないではないか、思いっきり見えておる。恨みがましい面でもないぞ?)


「ごっめーんっ、写真はまた今度にしてねえ。今度、学祭に来るから、その時にまたあ」

 人だかりの中心にいるのは、お天道様のような金色の髪にさんぐらすとかいう色眼鏡を掛けたおのこだ。身長は直也と同じくらいだが、かなり細い。キラキラのついた白いしゃつの下は、すかーとと呼ばれる袴のようなもので、顔には白粉が塗られ、眦と唇には鮮やかな紅が塗られている。

「……あー、インフルエンサーのいなっちとかいう」

「……」

(ん? いなっち……?)

 ではやはりあいつが陰降怨嗟か、と首をひねった直後、モジャの髭がびりびりと震えた。

 違和感に促されて赤錆の目を見開き、その姿を凝視すれば、奴の尻の辺りに人にはあるはずのないものがうっすらと見えた。

(陰降怨嗟、じゃない……あいつ、は、)

 パシャパシャと鳴るスマホと人山の向こう、いなっちなる者と目が合った瞬間、そいつの目の瞳孔が一瞬、縦に糸のように細くなった。その瞬間、ふさふさのしっぽがはっきり見えた――二本ある。

「っ」

 モジャは瞳孔を限界まで開く。全身の毛がぶわっと立ちあがった。


「やっだあ、かっわいーっ」

「!?」

 人にはあり得ないすばやさで、そいつは警戒を露にするモジャのすぐそばに来ると、モジャを勝手に抱き上げた。

「きゃああ、子猫といなっちさま!」と声が上がり、スマホがピカピカ光る中、そいつはにっこり微笑み、モジャへと頬ずりする。

――やあ、長尾、元気そうで何より。また会えて嬉しいよ。

 先ほどまでの甲高い声とは全く違う、昔しょっちゅう耳にしていた低い声が、直接鼓膜に届いた。

(や、やややややっぱり狛狐……っ!?)

 モジャはぱっくり口を開ける。それからあわあわと口を動かしたが、声が出てこない。

「うふふふふ、この子、あなたの猫?」

「え、あ、はい……」

 ドン引きといった様相の直也に向き合った狛狐の黒目が一瞬まん丸く広がったのを見、モジャは戦慄する。

(やばい、憑りつく気だ――)

――しないよ。

「え」

 いなっちこと、狛狐は素早く直也の頬に口づけると、「はい、お返しするわ」と言ってモジャを直也に押し付け、ぱっと離れた。


「それじゃあ――また、ね」

 悲鳴が上がり、どよめきが広がる中、固まる直也とモジャに意味深に片目をつぶって、いなっちこと狛狐が踵を返す。

「ちょ、ちょっとみゃてっ」

「っ」

 直也の腕の中で藻掻いて叫べば、周囲が一瞬静まり返った。

「……しゃ、べった……?」

「ちょっと待てって……」

 無数の目に凝視されて、昔の記憶がよみがえる。

 あの目だ、長尾に石を投げ、火つけ猫だと罵った目。死んだ香枝のそばから離れようしなかった長尾を箒で追い払った目。将次が帰ってくるのを待ってその辺から離れられなかった長尾に石見銀山を飲ませようとした目。

 化け猫と化した後、最初ただの猫だと親切にしてくれた人間も、長尾がひとたび人言葉をしゃべるとあの目になった。


「っ」

 目を見開いたまま、身じろぎ一つできなくなったモジャの頭を、いきなり直也が鷲掴みにした。

「っ、い、言ったの、俺ですっ、有名人に会えて、動転して噛みましたっ! すんませんっ」

 そして、周囲の連中に勢いよくお辞儀すると、慌てて駆け出す。


――今度はうまくやるんだよー。

 背後からムカつくほどのんきな狛狐の“声”が響いてきた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る