第12話 吾輩、だいがくに行く
ふわふわと浮き立つような桜の季節が終わって、日が長くなった。風も爽やかでつつじの香りがする。空は高く澄んで雲一つない。
(うむ、絶好の狩り日和)
毛とひげの手入れを終えたモジャはひげ袋を吊り上げてにんまりと笑うと、直也の部屋を目指す。
目的の場所の前まで来たモジャは、ひげをひくつかせながら、取っ手の下に忍びよった。廊下はつるつるの板張り。肉球がいちいち吸い付いて微妙に楽しい。
瞳孔を広げ、後ろ足をもぞもぞさせ、正確に距離を測ると、真下から取っ手に飛びつく。
「っ」
(届いた……!)
苦節百日、ついに取っ手にまで届くようになった!
「みゅっ」
両前足で取っ手を押し下げつつ、身をぐっと逸らせば、目論見通りドアがガチャリと開いた。
そう、モジャは化け猫――賢いのだ。人どもが扉に施した、勝手に開かぬための仕掛けをちゃんと理解している! 何より――。
(ふ、はははははははっ、ついに! 仇の根城に侵入できるようになった……! これでいくらでも直也の寝首をかける!)
そうしてモジャはピンとしっぽを立て、顎を持ち上げて意気揚々と直也の部屋に入った。
「……はよ、モジャ。お前、今日も騒がしいな」
「にゃー」
(うむ、おはよう)
ベッドに寝転がったまま寝ぼけた目を向けてきた直也にご機嫌で返事した後、モジャはベッドに飛び乗る。
(くぅ、今やマットにも弾かれぬ……!)
……ではなかった。
ふるふると身を振るい、気を取り直したモジャは、直也の頭の上にある、毎朝騒がしく泣きわめく時計を前足で指した。
「にゃ」
(朝の挨拶を交わしたところだが――さらばだ、直也。今この時、お前は死すのだ!)
「目覚まし時計? ああ、遅刻の心配してくれてるのか」
「んにゃ!」
(違う! お前が死ぬ時刻を知らしめてやっているのだ!)
「大丈夫、今日の授業は三限からなんだ」
「!?」
(笑顔で頭に攻撃を……! さ、殺気すら感じさせぬとは、さすがは我が宿敵……!)
「おはよう、直也、モジャ。で、なんでモジャは頭撫でられながら、シャーシャー言ってるの?」
「……これ、猫のデフォルトじゃない?」
「その子が猫の普通だと思うの、やめなさい。かなり変」
「みゃ」
(そうとも! 吾輩は化け猫、ただの猫ではない!)
さすが佳代子、わかっている、と顎を突き出し、しっぽをピンと立てたモジャに、「……それ、ご機嫌になるとこじゃなくね?」と呟いて、直也は寝ぐせだらけの頭を掻いた。
* * *
「モジャ君、また来たねえ。元気だったかい?」
「にゃ」
直也の知り合いの高橋先生の部屋に顔を出し、モジャは愛想よく鳴くと、前足で首輪を指した。
先生と呼ばれる種はみな偉そうな年寄りだと思っていたが、高橋は将次が手伝っていた寺子屋の先生と違って、おなごで中々若い。笑うと優しそうだ。
「ああ、首輪を買ってもらったの。それなら迷子になっても安心だ。マイクロチップもいいかもねえ」
「み?」
「なんにせよ知らない人についていってはダメだよ」
「んにゃー」
(気高き化け猫の吾輩を物も知らぬガキのように扱うな)
“まいくろちっぷ”は知らぬが、迷子になどならぬ。抗議したというのに、高橋はいつも通り顔じゅうの皺を緩めて笑い、勝手に人の頭に手を置く。
(……仕方がない、寝床代だ)
モジャは窓枠すぐ手前の本棚に飛び乗ると、そこに置いてある布の上に丸くなった。
「へえ、猫じゃないですか、最近は学内で勝手に飼われている子も減りましたね。高橋先生のところの子ですか?」
「いえ、うちの研究室の本条君の飼い猫を預かることになっていて。あの手この手でついてきてしまうとかで」
「あの背の高い、真面目な子ですか」
「ええ、しょんぼり肩を落として、すみません、今日も少し預かっていただけませんかって」
高橋と誰かが話して笑っている。そっちは男、結構な年寄りだ。
モジャは陽だまりに丸まったまま、耳だけをそちらに動かした。
「んなー」
(また気安く触る)
男が近寄ってきて、モジャの頭に優しく手を置いた。文句を言ったのに、額をこちょこちょと撫でられ、少し皮の厚い指の腹が右耳をはさんで優しく擦る。残りの指が耳の付け根に回り、そこをこちょこちょとくすぐった。
「……」
なんとなく仰向けに寝転がって腹を出し、薄目を開ければ、目尻と眉を下げた隠居の顔が目に入った。いや、隠居ではないか。こいつも多分別の先生だ。“だいがく”とは直也のような大きな人間が通う巨大な寺子屋で、まるでしょーぐんさまのお城のように大きい。先生もたくさんいる。代わりに幼子はいない。
「おや、珍しい目の色をしているね、メラニン色素が多いのかな」
モジャの赤目と目を合わせ、先生は白の混ざった眉を跳ね上げた。ただただ興味深そうに見つめられる。
(……色んなことが変わったなあ)
喉を絶妙の加減で撫でられて、モジャは目を細めた。
「おお、この首輪、引っかかったら外れるようにできているのか。よくできているなあ」
「んなー、にゃなにゃ」
(もう二回なくしたぞ。その度に直也の小遣いが減っていくんだ)
直也は小遣いが減ることを嘆きつつ、“あんぜん”のためだから仕方ないと言う。けど、もし香枝につけてもらった組み紐がこんな作りだったら、さっさと外れてしまっていたはずだ。そうなっていたら化け猫になった長尾は、将次に気付いてもらえなかっただろう。いや……。
『っ、長尾、お前、長尾なのかっ』
(……気づかれない方が良かったんだ)
前世の終わり、薄れていく意識の中に見た将次の泣き顔だけはいつまでたっても鮮明だ。将次にあんな顔をさせたと知ったら、江戸の世に生きていながら赤錆色の目と長い尾をかわいいと笑ってくれた香枝ですら、長尾のことを嫌いになるかもしれない。
「のんびり気持ちよさそうでいいなあ。悩みとかないんだろうなあ」
「んにゃ」
(ないわけないだろ)
人間どもは愚鈍だ。猫は人の感情がわかるのに、人は猫の感情に気付かないことが多い。でもそれでいいか、とも思う。
目を細めて自分を撫で続ける爺さん先生の手に、モジャは頭を擦り付けた。
「……?」
いい気分で撫でられていたのに、耳が騒がしい、甲高い声を拾った。
「何事でしょうか」
「来月ある学祭になんとかという有名なインフルエンサーを呼んでイベントをするというから、その関係かね」
(いんふるえんさ……陰降怨嗟? まさか妖……)
陰から恨みを降らせる――まさに妖に相応しい名ではないか。
すっと目を眇めたモジャは、縄張りを争うべき相手か否か見極めねばなるまい、と立ち上がる。そして、背骨をぐっと上に丸めて伸びをすると、窓枠の外へと飛び降りた。
「お出かけかい? ちゃんと帰ってくるんだよ、本条君が心配するからね」
「……高橋先生、猫に期待しすぎでは?」
「にゃ!」
(侮るな、我は化け猫だ! 迷子になどならん!)
細かい砂利を敷き詰めて固めた道は、赤土色の四角い石で両脇が仕切られていて、モジャはその上を辿って騒ぎの中心を目指した。
晴れ渡った空に白い雲が薄く現れ、穏やかに流れていく。
(あっちだな)
いまだにざわめきは続いている。晴れた日の昼日中に活動でき、人にあれほどの叫び声をあげさせられるとなると、かなり名の知れた妖なのかもしれない。
微妙な緊張を覚えたモジャの頭と背を、すぐ脇の植え込みから伸びた皐月の葉が撫でた。江戸の世では植木鉢で肩身狭そうに咲いていたこの花が伸び伸びと葉を茂らし、堂々と花を咲かせているのを見るのは、ちょっと気分がいい。
葉の上の天道虫がモジャを見て動きを止めたが、いらぬ心配というものだ。あいつらは臭くて苦くて食べられたもんじゃない。
「モジャ? って、お前、先生んとこにいたんじゃ……あーもー、そこにいろよ」
角を曲がったところで、頭上から馴染みのある声が聞こえてきて振り仰ぐ。窓から顔をのぞかせた直也と目を合わせて「にゃ」と一声鳴けば、奴は慌てて走っていった。
(愚鈍だな。そんな壁、さっと飛び越せばいいのに)
仇の要求など気にかける必要はない。当然無視して先ほどの妖を探しに歩いていったのだが、進行方向から直也が走ってきた。
「ダメだろ、勝手に出て来ちゃ。先生に無茶言って預かってもらったのに」
「な」
(心配いらぬ。高橋は知っておる)
モジャとて礼儀は弁えている。しゃがんで苦笑しながら頭を撫でてくる直也に、モジャは目を細める。勝手に頭が奴の手へと動き、喉が音を立て出した。ご機嫌なわけではない。ただの猫の習性だ。
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