第11話 吾輩、懐旧のあまり水難に遭う
(こいつ、やはり自分で機会をつぶした……)
嫌がらせで番を得る機会をつぶしてやるつもりだったモジャは、肩透かしを食らい、躊躇なく歩き出した直也をまじまじと見つめた。つまり、さきほどの「助かった」もそういうことなのだろう。
やはり佳代子友の言っていた通り草食系なのだろうか。いや、問題はそれより……。
(あいつ、なんか悲しそうだったな……)
先ほどのおなごが別れ際に見せた顔に、将次が大坂に発つと聞いた香枝の顔を思い出した。
「……いっ、何すんだ、モジャっ」
モジャは目の前の直也の耳にかみつく。
「にゃ」
(お前は敵だ)
赤錆色の目を直也の黒目に合わせて睨めば、モジャの攻撃に怒っていた直也は声を詰まらせた。
「…………非難されてる、俺?」
「にゃ」
「……しょうがないだろ、面倒なんだよ。関わりたくない」
抑揚のない声にモジャは眉の毛をピクリと動かした。またのっぺりとした顔をしている。出会ったことはないけれど、のっぺらぼうという妖はこんな感じなのではないか。
(まさか憑かれている……いや、だが、それなら化け猫たる吾輩が気づかぬわけがないし……)
「?」
吹き付けてきた風に川の匂いとせせらぎの音が混ざっていることに気付いて、モジャは直也の横顔から、前方へと顔を向けた。
(……あの川、だ)
気づいた瞬間、昼日中だというのに瞳孔が黒く開いた。
溺れていた長尾を香枝が拾い、溺れかけた彼女を将次が拾った場所。そして、化け猫と化した長尾が将次に切り殺された場所――。
少し行った先に橋が見える。昔木製だったそれは、今はコンクリと鉄でできているようだ。渡った先には緩い坂があって、そこを上がっていった先が、大楠に抱かれた狛狐の稲荷神社だ。直也や佳代子が済む家はその向こう、階段を下った先の町にある。
「……」
あれからお稲荷さんには何度か顔を出したけれど、こちら側にはなんとなく行けなかった。
モジャはひげと眉を落とし、光る川面を見つめる。
「……モジャ? どうした?」
橋の下、狭い河川敷の川岸ギリギリに立つ柳のたもと。背の高い枯れ草に隠れるように風化した岩が見えた。かつて地蔵だったものだ。もう顔が分からなくなっている。
『お前、何人殺めた?』
『何のためにそう長く生きた。人を殺すためか』
『それほどに人が憎いのか。ただの一人も、ただの猫だったお前をかわいがった者はいなかったのか』
満月の眩い深夜のことだった。将次が鞘から取り出した刀が月明かりにきらめいた光景をなぜか鮮明に思い出す。
直也の肩から飛び降り、モジャは河川敷へと降りていく。が、密集した枯れ草にすぐに阻まれた。
「……川が見たいのか? 魚はいないと思うぞ」
ひょいっと抱えあげられて、また肩に乗せられる。
そっくり同じ作りだというのに、その横顔は何百年も昔、ここで月に光る刃の切っ先の向こうに見えた顔よりずっと若かった。
『これ、は、お香枝の組み紐……? ……っ、長尾、お前、長尾か……っ』
そして、最後に見た顔と違って、泣いていない。
冬の乾いた風が渡り、枯れた草木がさらさらと音を立てる。その向こうで同じ風に水面が揺れ、小さく白波が立った。
「お地蔵様? なんだってこんなところに」
「にゃー」
(昔、ここは街道だったんだ。地蔵は道や橋、境を護るもんだからな)
「なんか知らんが、拝んどくか」
「……にゃ」
(……お前が殺したんだ、それぐらいやっても罰は当たらん)
しっぽが二つに分かれた、かつての自分の骨も、きっとその辺に埋まっている。
「にゃーにゃ、にゃにゃにゃんや」
(あん時、なんで化け猫になったかって聞いただろ?)
「またなんか話してる」
直也の大きい手が、かつてのように頭を撫でていく。だが、昔と違ってその手は硬くない。
「にゃーにゃうなー、にゃにゃんなご、うなな、なごにゃ、」
(香枝を見殺しにした奴らに思い知らせてやりたかったからだ。俺が尻尾で火をつけて回ったとか馬鹿なこと言い出して、火傷した香枝を放ったらかしたんだ。香枝を見初めたとか言って将次を遠ざけたやつも、だ。あとは……)
「にゃむ、にゃあ、にゃーなうにゃおう、にゃにゃー……」
(香枝の最後の言葉を、将次に伝えたかった。香枝が死んでからずっと待ってたのに、お前が全然来ないから、化け猫になるしかなかったんだ)
そして、“人が憎い”以外、すべて忘れた――香枝のことも、将次のことも、約束のことも。
一体何のために化け猫になったのか。あまりの馬鹿さ加減に、モジャは顔を伏せる。
「お前の言葉、わかったら面白いのになあ」
「……んにゃ」
(わかんないほうが幸せなことってのはあるんだ、人間は本当に馬鹿だ)
なんだか居たたまれなくなってモジャは再び直也の肩から飛び降りると、川の方へと足を向けた。
「みゃ!」
が、あると思った地面がなかった。
倒れた草の下に落下し、とぷんという音と共に全身を冷たい水に包まれる。
「げっ、モジャっ」
(ちょ、しんみりが台無しではないか……っ)
「みゅはっ」
鼻に水が入った。水は思いのほか深く、見上げた頭上は倒れた植物の陰で簾のようになっている。
必死に四肢を動かすが、緩やかな流れに運ばれて、直也の匂いから遠ざかる。ざさっと音を立てて簾に穴が開き、直也が顔を出した。
「モジャっ、つかまれ……って届かねえっ」
「みっ」
(ちっさすぎる……! なんで吾輩子猫!?)
焦り顔で手を伸ばしてきた直也へと前脚を伸ばすが、短すぎて届かない。それどころか暴れて立った波が岸に押し返されて戻ってきたせいで、頭まで水に飲まれた。
まずい、と思った瞬間、身がふわっと浮き上がった。流れに逆らい、すいっと直也の腕の方へと押し戻される。
――おぬし、水難の相が魂にでも刻まれておるのかの。
「……」
くつくつと笑う声は遥か昔、この川に落ちた時に聞いたものと同じ――。
「ぎゅ」
むんずっと体をつかまれて、再び光の下に戻った。
「あっぶなかった」
そう言いながら、直也がわたわたと小さな手拭いを押し付けてくる。それでは飽き足らず、奴はパーカーを脱ぐと、その下の“しゃつ”でモジャをガシガシと拭き始めた。
「っ、いにゃいっ」
「文句言うなっ、お前ちっこいし、凍え死ぬぞっ」
「しにゃにゅっ」
「死んでからじゃ遅いんだっ」
「……」
あまりに真剣な顔をされて、モジャはついに口を噤んだ。
――わしと同じなのだろう、二度も目の前で死なれては後生が悪い。
(ああ、やっぱり河太郎だ……)
モジャは慌てて周囲を見回す。
「……どした? 具合が悪いか? 病院に行か」
「にゃい!」
(尻の穴大事!)
目を丸くした後、直也は「しゃべってるみたいだな」と笑い、モジャを懐に入れた。
(……愚かな、吾輩はまだ濡れておるというに)
「さすがに疲れただろ、もう帰ろう。坂本んちから早々に逃げられた恩もあるし、何かオヤツ買ってやるから」
「!? にゃおにゅーる!」
「……うん、なんて言ったか大体わかった」
笑う直也から直接体に振動が伝わってきた。モジャのせいで奴の体も濡れているはずなのに。
――せっかく助けてやった命なんだ、今世は大事にしてくれよ。
もう一度、恩妖の声が聞こえた。
「っ、にあっ」
直也の懐から慌てて顔を出し、礼を言ったが、聞こえただろうか。
確認したいのにまた飛び出すとでも思ったのか、直也が「寝とけ。オヤツはちゃんと買ってやるから」とか言って、頭を抑えつけてきた。
「んにゃ……」
無礼な扱いをするなと抗議したいのに、撫でられ続けるせいで瞼が重くなってきた。子猫の体はどうも不便だ。長く起きていられない。
「……み」
(今の手にはあの硬い部分……なんだっけ? 竹刀ダコ? はないんだな、俺、あれ、結構好きだったのに……)
目は働きを失ってしまった。まだ頑張って起きている耳に、どこかの子猫がごろごろと喉を鳴らす音が響いてきた。
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