第10話 吾輩、仇の繁殖行動を邪魔する
「令和二年度人口動態統計によりますと、婚姻件数が戦後最少を更新するなど、「結婚離れ」が進んでいます」
「50才時未婚率が男性のほぼ4人に1人、女性の6人に1人と推定される時代を迎えており……」
(ふむ、どうやら草食系とは、食い物の話ではないらしい。すなわち、
モジャは後足を曲げて尻を床に下ろし、前足を揃えて、猫正座したまま、“小人入りしゃべり箱”ことテレビをじっと見つめる。しっぽは畳んだ後足に沿わせるように巻いておく。でないと、人に「尻尾もしまえないアホ猫」呼ばわりされることがある。
(ああ、でも二軒隣の出戻り娘のお美代は「あんな亭主、いない方がまし」と言っておった。斜向かいの伝次は「鬼嫁に骨までしゃぶられる」と……なるほど番って終わりでない人の事情というやつか)
なんにせよ人が面倒でけったいな生き物であることに変わりはない。
「モジャ、あなた、またテレビ見てるの?」
“ぱそこん”なる、本を寝かせて開いたような、珍妙な道具を指でとんとんしていた佳代子が苦笑した。あれも“小人入りしゃべり箱”の一種だ。
以前佳代子があれと話すのを見た時、「妖!」と思って踊りかかったら、「仕事の邪魔!」と怒られた。しゃべり箱の方は「テレワークあるあるね」などと大笑いしていたが、あれが「仕事」とは……。奇妙奇天烈極まりない。
「本当にテレビ好きね」
「にゃーう」
(好きなわけではない。彼を知り己を知れば百戦殆うからず――仇敵の立花将次をこの牙と爪にて引き裂き、人ならぬものたちを蔑ろにしてきた人間どもを悔い改めさせるために吾輩は学んでおるのだ)
だからこそ、最初ちょっと、ほんのちょーっとだけ驚いた“小人入りしゃべり箱”の名前が、テレビというのももう覚えられたのだ。中で動いていた小人を捕らえようと突っ込んで、頭を打つことも、テレビを倒すことも今はもうしていない。
『彼を知り己を知れば百戦殆うからずという、唐の国の古い教えだ。まあ、俺の場合は知ったところで、戦うことすらできぬのだが』
『勝ち取って終わりではないからな。俺ではお香枝を幸せにしてやれぬ』
『そう知っていながらそれでも知りたい――我ながら業が深すぎて呆れる』
遠い記憶の中で、直也と同じ顔が苦笑をこぼした。
(あの時のあいつはもっと痩せていた……)
「……」
体に巻き付けていたしっぽが勝手に後ろに行き、バタバタと左右に振れた。
「内閣府令和4年版男女共同参画白書によれば、20代独身男性の5人に2人はデートした人数が0人で、20代独身女性は……」
(いかん、情報を集めねば――“でえと”とは、番を得るための手順のひとつ、逢引きというものだったはず。番となるメスの気を惹くために、吾輩らのような美しい毛皮のないみじめな奴らは服というものにこだわり、頭の毛繕いにこだわり……)
モジャは目を瞬かせると、音を立てて直也を振り仰いだ。
(まさ、か……)
視線の先では、直也が居間の窓に映る我が身を見て、頭毛をすっと整えた。モジャは赤目の中の黒い瞳孔をまん丸に広げる。
(服もいつもと違う気がする。佳代子に「くつろぎ過着」とか言われているダボっとした奴ではない。大体今は朝のおやつちょっと前だ。普通なら“だいがく”とかいうところに行っているはず……)
『わーったよ……、明日11時な。はいはい、人数合わせ人数合わせ。その辺は弁えてるって。じゃあな。…………ほんと、そんなに言うなら呼ばなきゃいいのに』
つまり昨日直也がスマホに向かってしていた約束は――。
(な、んということだ、直也は“草食”系おのこではない……!?)
「じゃあ、母さん、行ってきま」
「うんにゃーっ!」
「モ、モジャ? なんだ、おまえ、急にどうした」
(でえとだな、でえとに行く気なんだな? ――させぬ。子を為したいなどという望み、絶対に叶えさせぬ!)
モジャは猫にあるまじき音を立てて直也に突進すると、ぐっと背骨をたわめて両前足を目一杯伸ばし、直也の背中に張り付いた。
そのまま背中をよじ登り、“ぱぁかぁ”に備え付けのほっかむりに潜り込む。
「ちょ、降りろって。時間、もうあんまないんだよ。母さーん、こいつ、かじりついて取れないっ」
「あらあ、モジャ、直也のフード、気に入ったの?」
「にゃん」
ひょっと顔を出して返事をすると、また引っ込んだ。
「にゃんじゃねえよ、こら、出てこいっ」
「フシャーっ」
(ふはははははは、邪魔をしてやる。邪魔しまくって女どもから煙たがられ、冷たい視線でしっしと手を払われ、ひしゃくで水を掛けられるように仕向けてやるっ)
フードの中に突っ込んできた手は、“猫パンチ”で退けた。当然だ。
「なーお、なーおぅっ」
(ふくしゅう、ふっくしゅーうっ)
がっくり肩を落として歩く敵の直也のフードに入って顔と前足を出し、モジャは後ろを見ながらご機嫌に鳴く。
「んっとにもー、お前、猫のくせに好き勝手やりすぎだろ」
「んにゃ、にゃにゃにゃ」
(猫ではない。化け猫だ。そもそも猫は勝手にやるものだ)
「……開き直るな」
「にゃー」
(事実だ)
「ったく、しょうのねえ奴」
そう言った後、くくっという笑い声と共に直也の体が揺れた。
裏店の間の路地のように狭い道の両脇に、せり出すように建物が並んでいる。ところどころに本条家のような細身の二階家もあるが、ほとんどはマンションやアパートという今風の長屋で見上げるほど高く、そこにたくさんの人々が暮らしている。
その向こうに覗く冬空は青く澄み渡っていて、吹き付けてくる風は冷たい。だが、鼻をひくつかせたモジャは、そこに春の気配を感じ取る。東京の“こんくり”の匂いと車の吐息に混ざって、わずかながら新芽の香りが含まれている。
(春と言えば鰯に鯵、あとはなんだろうな)
そうウキウキで考えた後、ふとひげを落とした。
香枝と暮らしていた時はいつもお腹がすいていた。一匹の鰯を分け合ったり、凍える夜を掻い巻きにくるまって二人を温め合って乗り切ったりしていたあの日々に比べると、今はお大名みたいな生活をしている。
(香枝も生まれ変わってるのかな……)
今度はおなか一杯食べられているだろうか、今のモジャがそうであるように。
今度は家族にめぐまれているだろうか、今の直也がそうであるように。
「みゅ」
後ろ手につまみ上げられ、頭を越えて直也と顔を合わせる。物思いが台無しだ。不届き者め。
「……考えようによっちゃ救世主になるかも」
「にゃ?」
直也の顔が妙にのっぺりして見えて、モジャは瞳孔を開いた。いつもの阿呆にしか見えない、人のよさげな笑顔でも、困ったように笑う顔でもない。文句を言いつつもどこか楽しそうにしている顔とも違う。
一番近いのは――。
『この辺で悪さを繰り返しているらしいな』
(将次、だ。橋のたもとで、吾輩を切ろうと鯉口を切ったあの時の……)
* * *
「キャーッ、子猫、かわいいっ」
「何この子、ぬいぐるみみたい、おっとなしー」
「触っていい? 抱っこは?」
「いやああああ、もふもふーっ、ちょ、抱っこするから一緒に撮って」
「次、私、次!」
「本条君も一緒に撮ろうよー、ほらこっちきて」
「あー、ごめん、こいつ、目ぇまわしてるから、その辺で」
「直也……」
「わりぃ、場を和ませるのにありかなと思ったんだけど、やっぱ俺、帰るわ」
「ええー」
「あ、そういや、坂本も寺田も実家で猫飼ってるよ。こいつらのスマホ、猫だらけだし」
直也は友の家に着くなり、
「あのさ、猫、付いてきちゃったんだけど、あり? ほら、アレルギーとかもあるしさ」
とモジャを差し出した。
その結果、モジャは見知らぬおなごどもにペタペタぐりぐりとなで回され、スマホを向けられてパシャパシャと妙な音に晒された挙句、あろうことかそのおなごどもが直也にまでまとわりつき……惨敗だった。でえとの邪魔してやろうと思っていたのに。
(いや、でも、直也はあのおなごたちとねんごろな感じではなかった。興味がないどころか、むしろとっとといなくなりたがっていたような……)
実際坂本の家に入って四半
「……」
ぐったりと肩に乗っかっていたモジャが、ふとその横顔を見上げれば、いつもの直也に戻っている。視線に気づいたのか、目を合わせ、「助かった」と微笑んだ。
「にゃ?」
(つ、つまり、吾輩は敵の手助けをした…………ん?)
何たる失態、と思ったが、モジャに心当たりはない。
首を傾げれば、背後から足音が追いかけてきた。匂い袋より強烈な香りに、さっきのおなごのうちの一人だ、と察して振り返る。
「あの、本条君」
モジャがひげを鼻より前に傾かせ、耳を後ろに倒して警戒するのと、呼びかけに直也が振り返ったのは同時だった。
直也とモジャ、女の脇を車がゆっくりと通り過ぎていく。
「ええと、その、連絡先、聞いていいかな? ほら、SNSとかあんまりしないって言ってたから、その、メルアド、とか」
モジャは瞳孔を丸め、耳を女に向けてピンと立てた。
人には毛皮はおろか、凛々しいひげも動く可憐な耳もない。そんな哀れな奴らの内心を知るために見るべきは……つるっぱげの顔!
(吾輩は化け猫! 物知り!)
微妙に得意になりながら、モジャは女の顔を見つめる。
変に色が変わった顔、きょろきょろと動く瞳、もごもごと上ずった声を発する口、頻繁な身じろぎ――すなわち興奮や緊張の証拠!
(まんま香枝を前にした将次ではないか! 番希望か、番希望なんだな? そうはさせぬ! 邪魔してやる! 復讐の好機!)
「にゃ、むぎゅ」
「あー、ごめんね、俺のスマホ、こいつに壊されて今修理中で。直ったらまた」
今度こそ積年の恨み晴らさんと意気込んで口を開いた瞬間に、ポンと直也に頭を叩かれ、モジャは声ごとペションとつぶされた。
そして、直也は笑顔で「レポート、お互い頑張ろうな。また授業で」と言い、女の返事を待たぬまま踵を返した。
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