第5話 吾輩、付喪神を祓う
ネズミを空中に放り投げ、後ろ足で立ち上がって捕らえ直すと、首を嚙んで振り回す。
勢いよく振り払われて飛んでいったネズミを追いかけ、ちょちょいと前足でひっかければ、板床を滑って直也が“そふぁ”と呼ぶ長椅子の下に入り込んだ。
目をまん丸くし、尻をもぞもぞと動かして、ネズミめがけて勢いよく飛び出す。
「ぎゅ」
が、思ったより隙間がせまかった。額を打ち付けて我に返り、モジャは涙目になる。
(う、ぬぬぬぬ、猫、しかも化け猫にあるまじき失態――)
「……」
とりあえず猫正座して顔を手で洗ってみた。
きしっと家の天井が音を立てた。……笑われている。
「……にゃ」
顔を伏せたまま上目遣いに天井を睨んで抗議してみたら、もう一度音が鳴った。その音はひどく小さい。どうやらこの家の先住者は、穏やかでか弱い性質らしい。
「おもちゃ、気に入ったか」
「っ、んにゃ、にゃにゃなーごな、にゃにゃ」
(そ、そんなはずあるわけなかろう! 紛い物のネズミなんかに化け猫たる吾輩が夢中になどなるものか!)
そのソファに座る直也に侮辱され、モジャは瞳孔鋭く口の端をつりあげて威嚇する。
(…………ダメだ、これも猫言葉だ)
直後にぴんと張っていたひげと眉を落とした。人の言葉を話しているつもりなのに、まったく音になっていない。
(狛狐があれほど止めたのを振り切って、化け猫にまでなったというに……)
『長尾、もし将次さまにお会いできたら、お伝えしてね……』
(…………ああそうだ、それが理由だった)
火事で負った火傷がもとで死んでいく香枝に、その時大坂に行っていた将次への言伝を預かった――。
赤錆色の目に長い尾、縁起の悪い猫だと、しっぽに火をつけて家事を引き起こした化け猫だと言われて、石を投げられてなお長尾は同じ町に居続けた。帰ってくるだろう将次に会って香枝との約束を果たすためだった。
役目を終えるまで死ねぬと化け猫にまでなったのに、妖で居続けるうちに『人が憎い』という思い以外、忘れてしまったのだ。約束のことも、将次のことも、香枝のことさえも。
ようやく思い出せたのは年をとった将次と再会し、切られた後だった――。
「……」
モジャは瞬きを繰り返した後、耳をしょんぼり倒した。自分はいつもそうだ、目先に振り回されて、大事なことを忘れてしまう。
「……」
頭を垂れて視界に入るのは、まだ小さい自分の黒足。そしてその横に尻からぐるっと回ってきたしっぽ――長く、忌々しい、香枝を殺すことになったしっぽ。
「なんでいきなり落ち込んでんだ」
「……」
ソファが軋み、直也が顔を覗き込んできた。見られたくなくてモジャは顔を背ける。
「…………なんかよくわからんけど、えーと、おもちゃで遊んでくれてありがとう?」
「っ、にゃ! にゃにゃ!」
(そ、そうとも、遊んでやっただけだ、直也がせっかく吾輩に貢いできたものだからな)
ピンとひげを立て顎を突き上げつつ、モジャは尻尾を左右に振った。
(何だ、通じているではないか、さすが吾輩)
ふふんと得意げにひげをひくつかせると、モジャは腹を出して転がりながら、ソファの下の暗がりに入り込んだネズミへと目を光らせ、前足を伸ばす。今度は届いた!
「……おもちゃで遊んでた自分が恥ずかしくて隠そうとした、でもそれが俺に通じなくて凹んだ……」
ネズミをくわえて意気揚々と歩き出したモジャに、直也は直也で「なんでそんなふうに思ったんだろ、俺」と首を傾げた。
遊びす……じゃなかった、狩りの修練を積みすぎて腹が減った。
が、仇である直也に食事にねだるのは癪で、佳代子はいないのか、と思って直也母を探してしていたら、間のいいことに偽乳であるミルクの皿が差し出された。直也にしては気が利く。仇であることには変わりはないが、褒めてやってもいい。
余すところなく舐め干したのは、香枝のおとっつぁんが「食いもんを粗末にしちゃなんねえよ」といつも言っていたからだ。仇からの施しを甘んじて受け入れているわけではない。
「いつからキャットフードとか食べられるようになるんだろうなあ」
「……」
(また手鏡なんぞを見ておる……)
口の周りについたミルクを舌で舐めながら、モジャは持ち手のない四角い手鏡を手にした直也へと白い目を向ける。
「……みぃ」
「!?」
(子猫の声!)
耳を左右に忙しなく動かしながら、ひげを横にピンと張り、モジャは慌てて周りに子猫の気配を探す。
が、いない。鼻を動かし、目いっぱい空気を吸い込むが特に臭いもない。
「……にゃむにゃむにゃむ」
「!?」
(ごちそうを食う声……! 吾輩を差し置き!?)
だが、声だけは確かにする。耳をそばだて全身の神経を傾けて音源を確認すれば、声は「なるほどミルクで固形フードをふやかして……」などと呟いている直也の手元の手鏡から響いていた。
(……ま、まさか、あの平べったい鏡に子猫が――)
そういえば、香枝が通い奉公していた水茶屋の客の貸本屋が「鏡だと思って覗いた者を吸い込む付喪神がいる」と絵草子を見せてくれた……!
「にゃああああ」
(馬鹿直也っ、お前も食われるぞっ)
「うわっ」
下から飛び掛かって、直也の持つ鏡を前足で払い上げれば、それは勢いよく飛んでいった。ガシャっという音と共に床に落ちたそれに飛び掛かり、むぎゅっと踏みつける。
「あーっ、何すんだっ、モジャっ…………ちょ、マジか、割れた……」
「にゃ」
(うむ、感謝するがよい。まったく手がかかる)
鏡を確認し、モジャの前でガクリと頭をたれた直也を前に、モジャは得意げに胸を張った。
今度は床がきしっと小さく音を立てた。
* * *
「なあ、大事な話があるんだ、モジャ」
そうして真ん丸になったお腹と、直也を助けてやった自尊心を抱え、モジャは陽だまりに置かれた小さな綿入れ、“くっしょん”というものによじ登った。元は直也のものだったらしいが、奪い取ってやった。
「今日親父が出張から帰ってくる。けど、猫嫌いなんだ。お前が家にいられるようにするために、あんま親父には近寄るな。気配を隠して、できるだけいい子にしててくれ……さっきみたいにスマホ壊すとか、ぜっっったいすんなよ?」
(なんと、今世でもか……)
最後涙声で唸るようにつぶやいた直也を前に、モジャは耳をピンと立て、瞳孔をまん丸にする。
立花将次はどこぞの貧乏旗本の次男坊だった。長男が嫁を取った時に追い出されて、寺子屋や剣術道場の手伝いをしていた。それ以前もただの部屋住みとして、家のことに関わることは一切許されなかったと聞く。どっちが先に生まれたかだけでそうも違うのか、人とはけったいな生き物だと思った記憶がよみがえる。
(こいつ、生まれ変わっても家に居場所がないんだな……)
「……なんか哀れまれてる感じがするんだけど」
「にゃー、にゃにゃにゃ……」
「なんか俺、慰められてない……?」
ひげと耳を心なし落とした子猫の小さな肉球で足をポンポンと叩かれて、直也は顔を引きつらせた。だがしかし、クッションを返してくれる気配はない。
「――うちでは飼わん。貰い手が見つかるまでおいてやるから、一月以内になんとかしなさい」
直也が父と呼ぶ相手は、直也と同じくらいの背丈、ただし厚みは倍、顔かたちはあまり似ていなかった。
奇妙なことに人のくせに首輪をしていて、直也と話しながら、それを億劫そうに緩めた。その瞬間、独特のにおいが漂ってくる。
モジャは身を低め、ひげを横へぴんと張って、ソファの影からそいつを観察する。
「……」
目が合った瞬間、そいつが見せた表情にモジャは警戒を高める――あれは猫嫌いの顔だ。
『しっしっ、あっちへお行き、その目、赤目、ああ、気持ち悪い』
『しかもしっぽが長い。赤目も長尾も火を呼ぶ』
『あの猫だ、火をつけたのは。それで結局飼い主も焼き殺したって』
前世で向けられた目を思い出して、モジャはしっぽの毛を膨らませる。
「なんでダメなんだよ」
「犬なら構わん。猫はだめだ」
(…………へ? ただの猫嫌い?)
目の色や尾の長さが問題なわけではないのか、とモジャは目を瞬かせる。それから、なぜだろう、もう江戸ではないのだ、と強く実感した。
「猫は家を傷つける。まだローンが17年残ってるんだぞ、価値が下がったらたまったもんじゃない」
男はけったいな形の羽織を脱ぎながら、「土地は義理のお父さんたちの世話になったんだ、せめて上物ぐらい……!」とぶつぶつ呟く。
「躾けるけど……」
「犬と違って猫は頭が悪い。躾なんかできるか」
「!? シャーっ!」
(ぶ、無礼なっ)
――が、喧嘩を売られていることに変わりはない。
「にゃごにゃごにゃ、にゃむむ、みゃーあう、あーにゃにゃ!」
(高貴なる我ら猫が人の僕たる犬どもに劣るとでもいう気かっ。まして、吾輩は化け猫であるというに!)
「いや、こいつ、賢いし。これだって親父に対する抗議だし」
「……だが、猫は恩知らずだ」
「にゃーっ!! フシャー、うなな、なおーなうにゃ!」
(聞き捨てならぬっ。その言葉、訂正せよっ。さもなくば……)
「ほら、怒った」
「気のせいだろう。猫だぞ? そんな頭は」
「っ」
モジャはカッと瞳孔を見開くと、背筋を出来るだけ高く丸める。毛を逆立てたしっぽの付け根は上に、先は下へと落とした。耳を真横に倒して、てててててとつま先立ちで直也父に忍び寄ると、とびかかる。
(いい度胸だ――その喉笛、噛み切ってくれる……っ)
「あ、こら、のぼるなっ、ズボンに穴が開くだろうが……っ、直也、写真なんか撮ってないで、やめさせろっ」
「なんで? かわいいじゃん。ちっこいのが、よじよじズボンにかじりついて、みーみー言ってさ」
「……む」
「にゃー!」
(かわいくない! 吾輩は化け猫ぞ!)
「ほーら、上目遣い。訴えてる、訴えてる、そうかあ、親父のこと、好きかあ」
「……むむ」
「みぎゃー!」
(そのようなことしておらぬ! てか好きくない! 違った、なんで届かない!)
「な、そうだって言ってるだろ」
「んにゃ!」
(違う!)
「だ、だが、私は猫は嫌いなんだ、阿呆だからな」
「!!」
モジャは赤錆の目の中にある黒い瞳孔を限界まで見開き、その男の姿と匂いをきっちり脳裏に叩き込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます