第4話 吾輩、妖蛇の毒液を被る
降ろされた場所は狭く箱(!)感に溢れた素敵な小部屋だった。
「!?」
が、そこで銀に光る蛇を見つけ、モジャは黒い瞳孔を見開くと、即座に臨戦態勢をとった。
「あ、シャンプーの覆い、外してなかった」
「みゃっ」
(バカ、まさ、じゃない、直也、気付いてないのかっ、敵に背を向けるなっ)
慌てて蛇と鈍い直也の間に走り込む。
蛇は巨大で、かがんだ直也と同じぐらいの高さまで鎌首をもたげていた。その頭は猫のと同じぐらいで不自然に大きく、そこらで見かけるアオダイショウと比べてもまったくつり合いが取れていない。
(こ、こやつ、目が無数にある……!)
しかも、その頭の全面には数えきれないほどの目があった。そのうつろな瞳に見つめられた気がした瞬間、モジャは耳を後ろに倒し、全身の毛を垂直に立ち上がらせ、警戒を露わに唸り声をあげた。
「これでよし。シャンプー液をかける前に、毛をちょっと濡らして、と」
「……っ、ふ、ぎゃああああっ」
(何を訳の分からんことを悠長に……、っ、ど、どどどど毒……!?)
蛇の頭から何かが勢いよく吹き出し、戦慄するモジャに生暖かいものが降り注いだ。それに全身の毛が侵されていく。
「にゃああっ」
(直也、逃げろっ)
「はいはい、怖くない怖くない、ちょっと濡らしただけだから」
「……み?」
きゅっという音を立てて、毒液の噴射が止まった。同じように毒液を浴びた直也は平気な顔をしている。
「……にゃ、ごにゃごにゃごにゃ……」
(……こ、怖がったわけではない。ちょっと驚いただけで……)
悠然と蛇の攻撃を止めた直也を、モジャは少し見直す。こんな恐ろしい生物を前にまったく動じない胆力だけは認めてやってもいい。我が宿敵に相応しい度量だ。
「にゃ?」
その直也の手によってなにかぬるりとしたものが擦り付けられた。
「へ? お前、黒猫なのかよ……。灰色かと思ってた」
「み、やああああああああ」
(ああああああああ、泡、泡、泡がああああ、我の毛皮にあわあわあわあああ)
「ちょ、うるさい、仕方ないだろ」
「いにゃああああああっ」
(変な臭いがするうううう)
脱出しようと暴れたが、足がつるつる滑って前に進まない。挙句床に顎を打ちつけて顔まで泡まみれになり、パニックになる。
「あーお、あーお、あーおー」
(また、しゃああああっ、助けて、香枝!)
「あとちょっと流したら終わりだから、こらっ、いい子にしろって。いてっ、つ、爪っ、人の腕に登るなっ」
「いにゃああああ」
直也の腕に四肢でひしと抱き着いたまま、地獄のような時間は過ぎていった。
「……死んだ?」
「生きてる。暴れすぎて疲れたんだろ。モジャが暴れまわったせいで、俺までびしょびしょになった……」
直也は自分の手の中でスピスピと寝入っているモジャの毛の雫をふき取り終えると、ファンヒーターの前のクッションに新しいバスタオルを乗せ、そこに小さな体を横たえた。
「……」
もにゅもにゅと口が動き、小さくあいた口から丸まった舌が見える。母猫にミルクをもらう夢でも見ているのだろうか。
くすりと笑って温風が熱すぎないか、モジャの体に手をあてて確認すると、直也はようやく濡れた自分の体をふき始めた。
「……」
腕がところどころ赤くなっている。
(そういや、痛いって言ったら、爪、ひっこめたような……)
その場所を確かめるように指でなぞった後、「パニックになってたのに?」と直也は首を傾げた。
「なんか変な子ねえ。豪胆というか、あんぽんたんというか」
リビングで本を読んでいた母がやってきて、横に膝をついた。顔を優しく緩め、モジャの小さな額を指二本で撫でながら、微笑む。
「なんで?」
「連れてこられてすぐ、ずけずけとおなか一杯になるまでミルク飲んで、初お風呂でも放心せず暴れまわって、毛づくろいもせず、ぐーぐー寝て」
「猫ってそんなもんじゃ」
「ないわねえ。あ、見て、おなか、ぽんぽこりん」
母はモジャのまるっとした腹をツンツンとつつき、「関わりたくない、めんどくさいが口癖のあんたが飼いたいって言い出すだけある……!」と相好を崩す。
「あの人もこの可愛さでやられてくれればいいけど、なんせ猫嫌いだからなあ。ずっと飼いたいって言っていたのに、許してくれなくて……――狙うわよ、直也。今度はあんたも味方、絶対いける!」
「……可愛い、ねえ」
いや、確かにかわいいのだが、何かが引っかかった気がする。そもそも自分はなぜ「飼いたい」などと言ってしまったのだろう。
直也は、母に頭を撫でられて寝たままゴロゴロ言い出した子猫をしげしげと眺め、眉を寄せた。タオルを肩に引っ掛け、その横に胡坐をかく。
母の言う通りだ。直也は何につけても深く関わりたくない。つかず離れずがいい。ずっとそう思ってきた。今もそう思っている。
(深く付き合えば揉めることだって多いし、何より……)
――キズガフカクナル。
「……」
目をモジャに向けていながら、焦点がずれていき、能面のような顔つきになる。
『嫌なことがある度に話し合うことすらなく距離をとる。揉め事にならないから教師としてはありがたいけれど……』
『喧嘩になるかもしれない。苛つきもするだろう。でもそういう色々を乗り越えて、人は深く理解し合い、時に愛し合うんだ。僕はその喜びを君にも知ってほしい』
中学校の恩師が言っていた言葉を思い出して、直也はひどく虚ろな気分になる。
人はみな違うと大人は口をそろえた。違いを尊重しろという。揉めるぐらいなら距離をとれとも。
直也自身その通りだと思って、その通りにしてきた。誰のことも否定しない代わりに、誰にも否定されない。違うと思えば、お互いに関わらない。関わり合いになりたくない。
なのに、その年で退職するという彼は、それでは誰のことも深く理解できない、してもらえないと言った。
そうだとしても、それの何が悪いのか――。
(……人や何かに敢えて深く関わるとか意味わからん。大事にして大事にし返してもらえる保証があるわけじゃなし、うまく行かなかった時しんどいだけじゃん。喧嘩とか面倒だし……)
放っておいたら死ぬから仕方なく連れてきただけ。さっさと貰い手を探すつもりだった。人だけじゃない、犬猫にだって関わりたくない。
なのに、なぜか家に居着くことになり、直也を困惑させているちびっちゃいのが、目線の先で寝返りを打った。
思わず目を瞬く。
「…………ま、いっか」
ぷくぷくとした腹を見せ、短い前足を顔の両脇に投げ出して寝こける間抜けな姿に知らず口元を緩めると、直也は額に張り付いた濡れ髪を右手でかき上げた。
外はすっかり暗くなった。室内の明かりに照らされて、窓向こうの雪花が白く浮かび上がっては視界の外に消えていく。
窓ガラスがまた音を立てて震えた。今夜は雪を運ぶ風も相当強いらしい。
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