第6話 吾輩、下僕を“げっと”する

 深夜、直也の枕を奪い取って寝たふりをしていたモジャは、パチリと目を開いた。天窓から差し込む星明かりが目の奥に反射し、きらりと光る。

「……」

 無言で“べっど”なる高床の寝床から飛び降りると、こっそり扉に仕込んでおいたおもちゃのネズミを確認する。

(うむ、さすが吾輩、賢い)

 哀れなネズミはぐにゃりと背が折れ曲がっているが、おかげで扉が閉まり切っていない。


 隙間に前足を指し込み、夕刻の屈辱を晴らさんと、モジャは静かに部屋を出た。直也こと将次の前にあの親父から仕留め、目に物見せてくれよう。


(ふ、ふふふふふふ、におう、におうぞ。この枯れ草と古油の混ざったようなにおいは、あのおやじのだ)

 廊下の奥側、微妙に空いた戸の隙間から、対象の体臭が漏れ出ている。モジャはひげで通過に問題がないことを確認すると、するりと身を滑り込ませた。

 途端に強くなった臭気に鼻をひくつかせながら、モジャはベッドの上で寝息を立てている、においの源へと忍び寄った。


 ベッドにシュタッと飛び上がる――はずが届かず、“まっと”とかいう奇妙な布団の側面にぼよんと弾かれた。

(な、なぜだ……)

 猫に、まして化け猫にあるまじき大失態――

「……」

 とりあえず前足を舐めて毛づくろいした。


 気を落ち着けて、周りをそろそろと伺った後、モジャはもう一度ベッドにとびかかる。

「……」

 マットに爪を立てて、ヨジヨジと這い登った。

(直也、見たらお前も殺す――)

 我ながらみっともなさ過ぎて、耳が後ろに倒れた。


「……」

 ベッドの上で、ぐーぐー寝ている直也父を横から見つめ、モジャは赤錆色の目の中の黒い瞳孔を限界まで広げた。

 窓にひかれたカーテンの隙間から漏れ入る隣家からの光を、その目に怪しく反射させ、口の両端をにぃっと釣り上げる。

(さて、目をつぶしてやろうか、喉笛を嚙み切ってやろうか。ああ、そうだ、この爪で腹を裂き、はらわたを引きずり出してくれよう。あれほどの恥辱を吾輩に与えたのだ、出来るだけ苦痛を味あわせてやる――)

 首をくっと上に向け、着地点を探す。後ろ足をもじもじと動かし、起点を調整する。そして、背を丸めて後ろ足の筋肉にためを作り、親父の腹の上に着地した。

「!?」

 が、ぼよんとまたも弾かれて、頭からマットに転がり落ちた。


 逆さまになったまま目をパチクリさせてから、モジャは昨日の佳代子のぼやきを思い出して戦慄した。

 そうだ、居間にある“小人入りしゃべり箱”の声を聞きながら、佳代子が直也父のことを嘆いていた――。


『メタボリックシンドロームとは、内臓に脂肪が蓄積した状態の肥満に、血圧、血糖、脂質代謝のいずれか二つ以上の異常が組み合わさり、糖尿病や心血管疾患に繋がりやすい状態を指します』

『令和元年 国民健康・栄養調査報告によりますと、メタボリックシンドロームが強く疑われる人及び予備軍と考えられる40代男性の割合は42.7%と、約2人に1人という……』

『本当に怖いわ。孝さんも昔は直也によく似て細身だったんだけど、最近はおなか周りがすっかりぽよぽよになっちゃって……』


(……こ、これがそうか。生物の腹にあるまじきこの弾性――確かにめためたボッテリでしんどかろう、佳代子が恐れるだけある!)


 モジャは何とか気を取り直すと、今度は弾かれぬよう、慎重に直也父の身によじ登った。肉球でその腹を押してみるが、同じだけの力でぼよんと押し返された。

(……爪がたたぬやもしれぬ……)

 自分のちまっこい手に生えた、まだ薄い爪を見て、モジャはひげを落とし、耳を倒す。剃刀のような爪で、何人もの人間を怯えさせてきた前世の自分が恋しい。


「……」

 顔の方から聞こえてくる寝息が、ぐごーぐごーという規則正しいがやかましいものに変わった。

(となると、どう引き裂いてくれようか……む。あたたかい)

「……」

 考えこみながら、モジャは親父の腹の上で後ろ足を折りたたむ。

(一度噛みついて穴をあけて、いや、こんなに真ん丸だとそもそも顎に入らない……あったかい)

「……」

 もぞもぞと前足を二つに折ると、畳んだ四肢の上に自らの腹を下ろした。

(そうだ、へそがあるはずだ……、あそこなら、爪が、引っかか、……あったか、い……)

「……」

 頭が前後に揺れ出した。瞼が重くなってきた。

(ええ、と、爪がへそ、で、なんだっけ……あったか)

「みゅ」

 ぽてっと頭を落とし、モジャは直也父の上でスピスピと寝息を立て始めた。



 ベッドの陰から現れた小さな影が、ひょいっとマットの上に飛び乗った。この家の主の腹の上で眠り込んだ子猫を覗き込み、くつくつと笑い声を立てれば、応じるようにマットが小さく動き、スプリングが微かに音を立てた。

「……高女たかおんな

 笑いも冷めやらぬまま、カーテンの隙間からのぞく二階窓に向かって呼びかければ、ガラスの向こうから、青白い女の顔が浮かび上がった。その姿の向こうに隣家の壁が透けて見える。

「悪いねえ、鳴屋やなり。縄張りを荒そうってんじゃないんだ。肩輪車からその子のことを聞いて見に来たんだよ。ほんとに生まれ変われたんだなあって」

「生まれ変わった?」

「その子、今は尻尾が割れてないけど猫又だよ、一応。人が大嫌いで妖になって、でも人が大好きで結局人っ子一人殺せないまま死んだ間抜けな子さ。狛狐さまの仰ったとおり、そのせいで生まれ変われたんだね」

「……半端もんの気配はそのせいじゃったか」

 そう納得して、鳴屋は子猫を見つめた。昔なら本当に小さく見えたことだろう。だが、鳴屋はもうこの猫と同じくらいにまで縮んでしまった。


「追い出さないのかい?」

「家というのは元々妖だらけだもの。油赤子に畳叩き、屏風びょうぶ覗き、垢嘗あかなめ……、みんないなくなってしまったがの」

 猫又はさすがに考えていなかったが、と鳴屋が笑えば、小さく小さくマットが軋んだ。


「お互いすっかり弱っちくなっちまったねえ、鳴屋。私はもうこの子のこと、笑えないや。今はどこもかしこも電灯だらけ。脅かすために二階窓の外にいたって、こっちからは見えても中からは見えないんだってさ。しかも今は外に目を向けること自体ない。みーんなスマホに夢中だ」

 そう苦笑する高女の声は、外の風音で消えそうなほどに小さい。

「わしの方も似たようなものじゃ。どの家も頑健で中々鳴らぬ。それでも新築の間は少しは鳴るが、それも一時。人の生活も変わって、昔馴染みも消えてゆく」

「寂しいねえ。外のもだよ。しょうけらも古戦場火もあぶみ口も、みんないなくなっちまった」


 高女の目くばせを受け、鳴屋は小さく、けれど繰り返し窓を揺らした。中途半端だった錠が外れる。わずかな隙間からするりと室内に入ってきた高女は、この家の主の寝顔を覗き込んだ。真っ黒な暗い目が闇の中で妖しく光る。


 ――この子、可愛いかろうが。あんたの腹の上が心地いいとさ。


 人を縛る力のある言葉――時に人を殺すことさえできるそれを吐き、醜女と世間に厭われて寂しさのあまり人を、自身を恨み、妖と化した女は微笑む。

 そして、骨のように瘦せこけた、透ける指で子猫を一撫ですると、見る間に薄くなり、闇に吸い込まれるように消えていった。



* * *



(昨日は久々にゆっくり眠れた……)

 いつも人の胸や首、ひどいときは顔面に乗ってくるモジャがいなかったせいだ。息苦しくなって放り出そうにも、寝ながらゴロゴロ言っているのに気づくと邪険にもできず、直也はここのところいつもモジャにベッドの真ん中を与えて、隅っこで小さくなって寝ている。

 休みの朝、久々に爽快な気分で起きてリビングに降りれば、ソファに座った父が新聞を広げていた。


「はよ」

「直也、猫飼っていいぞ」

「……ありがたいけど、なんで」

 紙面から顔を上げないまま唐突に呟かれて、直也は目を瞬かせた。

「別に。気が変わっただけだ」

「いや、嫌いって言ってたじゃん。恩知らずだとか、馬鹿だとか」

「猫が恩知らずで馬鹿なことに変わりはない」

「つまり……嫌いではなくなった?」

 疑念に顔の片方をしかめながら、新聞向こうの父の顔を覗き込もうとすれば、彼が握る紙の両端がくしゃっと音を立てた。

「っ、あいつ、俺の上でゴロゴロ言いながら、腹出して寝てたんだぞっ、追い出せるわけないだろうが……っ」

「……なるほど」


 直也は何とも言えない顔で、キッチンの母に目をやる。こちらを振り返り、ニヤッと笑いかけてきた彼女の足に、長い黒毛の子猫が頭突きをかましている。

 窓から差し込む日の光を受けて、赤い目がきらりと光った。ふふんとでも言うように得意げな顔をして見える。

「にゃあ」

 ――覚悟するがいい。

 そんな幻聴が聞こえた気がして、直也は目を瞬かせた。


 

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