第2話 吾輩、仇の懐に侵入する
「シャーっ」
「威嚇すんなよ……俺だって困ってんだ。けど、今晩から雪が降るって言うし、お前このままだと凍死決定だぞ?」
「シャシャーっ」
(お前の情けなぞ死んでも受けぬ!)
立花将次の手のひらの上で、ひげ袋を限界まで引き上げ、牙をむき出しにする。何が屈辱かといって、片手にすっぽり乗せられてしまう我が身のちまっこさだ。牙も伸びないし、爪も全然、よく見ればしっぽも一本だけ。
「だからそんな怒んなって。あそこ、ゴミ捨て場だぞ? なんか気になって行ってみたら、お前がいたんだ……って、これで何もなかったら、俺、ただの不審者だったな……」
「にあ?」
(
あまりの扱いに、思わず口がパクパクと動く。
「仕方ないだろー、明日の朝には凍死して本当にゴミにされちまうとか、俺だって嫌だ」
「っ、フウウウウっ」
(っ、また吾輩を塵呼ばわり!)
ぶわっと全身を膨らませ、背骨を丸めて高く持ち上げ、できるだけ身を大きく見せかける。
「ま、ちっこいのが何やっても、かわいいだけだけど」
「!?」
(つ、通じぬ? どころか、め、愛でられた……)
なんという屈辱だろう、言葉はおろか一切の脅しも通じないとは。
右のひげがぴくぴくと動き、しっぽが上下にパタパタと振れた。苛立たしい以外の言葉がない!
「あー、とりあえずうちに行くか」
それ以上の問答もなく先ほどの箱に戻され、ふわりとした浮遊感を覚えた。
(うむ、箱最高)
……ではなかった。いや、箱はいいのだが、同意なく入れられて、その状況に甘んじるのは、猫の矜持に関わる。まして吾輩は化け猫だ!
「シャアアアア」
(出せ!)
「……」
頭上の立花将次に向かって威嚇したが、目が合った奴は眉を跳ね上げた後、怯えた様子もなく微笑んだ。
『長尾は
(………将次、だ、本当に)
その顔がそっくりそのまま、遥か昔の記憶に重なって、知らず口を噤んだ。
箱が規則的に揺れ始めた。一方向に運ばれていくのを感じる。
「っ、シャーっ」
(って、ちっがーう!!)
「だから、威嚇されても怖くないって。てか、試験管ブラシみたいだな、そのしっぽ」
「っ、フゥウウウーっ」
(っ、しっぽに言及するなっ、好きで長い尾なわけではないっ! しけんかん? ぶらし? おのれ、将次、江戸言葉か猫言葉を話せ!)
「おお、これが噂の猫パンチか、可愛いー」
「んにゃ! にゃあーお、にゃ!」
(だから愛でるなっ! ぱ、ぱんち? ――わかった、貴様吾輩の知らぬ言葉を使って、翻弄しようというのだろう、その手には乗らぬ!)
我慢の限界を迎えて、箱にかけられた将次の腕を攻撃しようと飛び上がれば、その瞬間黒い何かがすさまじい勢いで視界を横切った。
「み゛っ」
戦慄すれば、今度は鮮やかな海老色をした、四つ輪の
(な、なんだあれは……)
「!?」
(あ、あの大八車、引き手がおらぬ……!)
さらに恐ろしい事実に気づき、昼日中だというのに瞳孔がまん丸になった。全身の毛が膨らんだ。ひげもびりびりする。
夜、人ならざるものが乗る大八車なら江戸にもあった。だが今は昼で、人だろうとそうでなかろうと操る者のいない車が走っている――。
「みぎーっ」
(また来おったーっ、いいいい色も違う!)
「っ、ちょっ」
我を忘れて箱から飛び出した瞬間、ぶつかった何かに縋りつく。
「いて、ててて、ちょ、お前、爪立てんなっ」
「にゃっ!?」
「ああ、そうか、寒いよなあ」
また的外れなことを呟いた将次が喉の奥で低く笑った。振動が体に直接伝わってくる。
奴は首周りに巻き付けていた手拭いをはずすと、それでぐるりと吾輩の体を包んだ。
(ぬ? 手拭いじゃない……)
今世の母にそっくりな感触に一瞬怒りと怯えを忘れた。その隙に顔だけ出してぐるぐる巻きにされる。
「みゃ」
布ごと懐へと入れられ、さらに温かさが増した。
鋭い聴覚に猫よりはるかに愚鈍な人の心の臓の拍動が響いてくる――……ひどく懐かしい。
「……お? 大人しくなった」
「っ、シャっ」
(てない!)
「だな、知らない人は怖いよな」
「んーにゃ! にゃごにゃ! うにゃむなにゃ!」
(ちっがーう!! 吾輩に気安く触れるなと言っておるのだ! お前は吾輩の仇、殺し殺されの間柄だ!)
「お母さんもいないとなると、不安だろうし」
「にゃああ!」
(だから人の話を聞け!)
「でも、俺、ひどいことはしないぞ? 大丈夫、大丈夫」
「ぅうう、フギャアアア」
(自分が殺した化け猫を前に大丈夫だとっ? 喧嘩を売っておるのか!)
にっくき立花将次の腕の中、もふもふの手拭いにぐるぐるに巻かれつつ威嚇を試みるも、またも全く通じない。
「み゛」
(う。またやってきた……)
今度は真っ白な四つ輪を見て耳をペタンと倒すと、手拭いに身を潜めた。
よくよく見れば、周りの街並みもすっかり変わり果てていた。
瓦の
道の両脇には見事に同じ形をした石柱が等間隔に立ち、その間に紐が渡されている。足元は寺社の参道のように石で覆われていた。だが、その石に繋ぎ目はない。
ちらほらと見える道行く人の姿も全く違う。
――長尾、怒りのまま恨みのまま、人を殺してはいけないよ。生まれ変われなくなる。
昔散々世話になった、お稲荷さまの狛狐の言葉が脳内に響いた。
奴が正しかったとするなら、吾輩は生まれ変わることができたのだろう。そしてその間に時が経った。
(あれからどれほどの月日が過ぎたのだ……)
周りのあまりの変わりように、化け猫にあるまじきことに急に心細くなってきて、縮こまる。
「なんだ? 車で嫌な目にでも遭ったか?」
「……」
またすさまじい勢いで大八車が側を通った。思わず体を震わせれば、大きな手が頭に落ちた。“くるま”があの引き手のいない四つ輪の名らしい。
「大丈夫、大丈夫」 『大丈夫、大丈夫よ、何も怖くないから』
(…………香枝)
指で頭と額を撫でられるうちに、昔そうやって人に、香枝に撫でられていたことを思い出してしまった。
(香枝は自分が死ぬ寸前まで、そうやって吾輩の心配をしてくれた。吾輩のせいで死ぬことになったのに――)
「……っ、フシャっ!」
(って、ちっがーう!)
「怖くない怖くない」
「んにゃにゃ!」
(お前が怖がれ! 吾輩は化け猫ぞ!)
「う?」
(あ、そこ……)
耳の後ろを撫でられて、後ろ足が勝手にぴょこぴょこ動いた。
「ああ、ここ、気持ちいいのか」
(ちが……あ、そっちも)
「つまり、左右両方バランスよく撫でろと……」
(…………む。むむむむ。し、仕方がない、しばらくの触れることを許してしんぜよう、せいぜい奉仕せよ)
「あ、なんかゴロゴロ言い出した。続けろってことか? …………お前、いい神経してそうだなあ」
「にぁー……」
温かいもふもふと器用に動く人の手の感触に誘われて、瞼が重くなる。再び眠りの淵に誘われていく。
「……み」
勝手に閉じてしまった瞼の裏で、同じで違う三つの顔がぐるぐる回っている。
『長尾はここ撫でられるのが好きだとお香枝が言っていたんだ』 ――髷と
『これで終わりだ、化け猫め――成仏せよ』 ――髷を結った年老いた顔。
「いい子だ」
そして、髷も月代もない、ざんばら髪の若い顔……。
(まさつぐ、お前、髷、結わなくなったんだな……まあ、その短さじゃ、結えないか……)
音がする。また“くるま”が近づいてくる。
――よかった、よかったねえ。今度はさっさと会えて。
それが真横を通り過ぎた瞬間、また声が聞こえた。さっきの声だ。怖くはない。覚えがある。
(ああ、そうだ、あいつだ、
――あんた、人に魅入られたんだね、馬鹿だねえ。
そう言って、
「なー……みにゅ、ににゃあ……」
(車輪、一つだけだったのに今じゃ四つかあ。お前、出世したんだな……)
寝ぼけ声でそう呟けば、高らかな笑い声が上がり、遠ざかっていった。
西空から真っ黒な曇が姿を現した。正面から冬風が吹き付けてきて、将次の足元で枯れ葉がくるくると舞い、乾いた音を立てた。そこに湿り気を感じる。
将次の言う通りもうすぐ雪になるようだ。
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