いつか法隆寺へ
これは「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」をモデルにしたショートストーリーです。
・・・
体中が痛い。身じろぎも億劫だ。
少し頑張って動いてみれば、白い布団に血がついていた。恐らく、服も血に濡れているはずだ。
この血はきっと
要するに、
まだ起き上がれる。だが次第に起き上がれなくもなるだろう。
だから、やりたいことを日記に書いておくことにした。
尻を引きずるようにして、小さな机に向かう。庭では呑気に鳥が鳴いているが、こっちは痛みで悶えているのだ。少しは自重してほしいものである。
墨をすって、震える手で紙に文鎮を置いた。紙はいつも机に常備している。
いつものように筆を持つ。あと何回筆を持てるのだろうか。想像すればするほど、良い結果は出ない。ため息をつくしかない。
まずやりたいことはなんだろうか。そういえば新聞で読んだが、最近は外国の文化が入ってきているらしい。
動物園なるものができあがったそうだ。絵や文字に聞くだけだった獅子や麒麟を実物で見られたら嬉しい。
行けるだろうか。いや、行けると思うべきだ。そう、
「動物園」と紙に書く。歪んだ文字だ。もう
他に行きたい場所はどこだろう。
そうだな。奈良へ行ってみたい。奈良の寺院仏閣は歴史が深い。それなのに、
なぜ行かなかったのだろう。思えば若い頃は無駄な時間ばかり過ごしていた気がする。
もっと色々なところへ行けばよかった。こんなに早く死ぬと分かっていれば、もっと効率よく生きたのに。
いや、無理か。
そもそも若くして死ぬと分かっていれば、あらゆることに手を抜いただろう。今死ぬとわかったから、
失う寸前になるまで必死になれないのは、人間の必然だろうか。
「動物園」の下辺りに「東大寺」と書く。そしてそのあとに「法隆寺」と書いた。
「おーい、元気か?」
不意に、玄関の方から声が聞こえてきた。その後すぐにがらがらと扉を開け、ずかずかと入り込んでくる音がする。
大声を出すと体が痛いから、友人には返事がなくとも勝手に入ってきていいと言ってあるのだ。
「いらっしゃい」
紙を見たまま、友人を歓迎する。
「おう。何書いてんだ?」
友人はずいっと顔を近くに寄せ、紙を覗き込んだ。煙草の臭いがむんむんと漂う。
「『動物園』『東大寺』『法隆寺』……」
「これは、
「ほう、行きたい場所ねぇ……」
友人は
だが、友人は何も言わなかった。
「いいじゃねぇか」
それだけ言った。
「そうだな」
「ああ、そうさ」
「ところで、何をしにきたんだ?」
「ああそうだった」
振り向けないが、友人がなにか持ってきていることには気付いていた。きっとそれを届けるために来たのだろう。
「柿がたくさん採れた。おすそ分けだ」
机の上にゴロゴロと柿を転がした。
「熟れてないほうが好きだったろ?」
「よく覚えてるな」
「そりゃそうさ。包丁借りるぜ」
友人は勝手に台所へ行ってしまった。
柿を手で弄ぶ。すると、虫食いがあった。黒々とした小さな穴。光も届かぬ奈落。
だがしかし、柿からは命がまろび落ちることはない。まだまだこの柿は青い。
「よいしょっと」
友人が戻ってきた。手には母の愛用の包丁とまな板だ。
友人は虫食いの柿を手に取り、皮を向き始めた。しかしすぐに虫食いに気付く。
「ありゃ、食われてら」
そう言うと、柿を割って虫の通路と中にいた虫だけ除けてしまった。
それを見ると、思わざるを得ない。
「
友人は黙ってしまった。
一口サイズに切り分けていく。せっかく割ったのだから、小さくしてくれたのだろう。
友人は
それを手に取り、口に運ぶ。しかし友人はそれを見ながらボソリと言った。
「何分割もされて、終いにゃ食われるのがいいってか?」
しゃりしゃりと口のなかで砕ける。さっぱりとした味だ。
「そういうことじゃないさ」
「わかってらァ」
友人はその後も黙々と柿を剥いた。たまに自分の口に放り込みながら、
友人はそのあといくつか面白そうな場所を教えてくれた。
それが終わったらさっさと帰ってしまった。
いま紙には行きたいところがビッシリと書き記されている。
友人はいなくなって、鳥と虫の鳴き声が微かに聞こえている。通りを歩く人の足音があっちから向こうへ行った。
「ひとつも行けねぇだろうな」
不意に出た。だが、身体の一番奥深くから投げ放たれた槍は、返しがついていてもう抜けなくなっていた。
初めから分かっていたことだった。
だけれど。
そうだ。行ってしまえばいいじゃないか。
行ったことにすればよいのだ。
そうすれば少なくとも行った気にはなれる。
そして新しい紙を用意する。
いま、
東大寺で……そうだな。あいつと一緒に柿を食いながら、鐘の音を聞いている。
そして次に行く法隆寺をうきうきと楽しみにしているのだ。
そうやって、
馬鹿にされるかもしれない。
だが、少なくとも自分の気は紛れた。
それに、あいつはこれを笑ったりしないだろう。
また布団へ寝転がった。
体中が痛い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます