番外編:想い出はほろ苦さが口に広がる

「なあ、ルリア。子供の成長って嬉しくて寂しいな」


 俺は一人庭で、ひっくり返した桶に腰掛けて月を眺める。顔を出したばかりで、まだ低い位置にある月は薄ぼんやりとしている。この時間になると、昼間の暑さが嘘のように過ごしやすい気温になる。


 ミレットが半年前に家を出てから色々な事が変わった。


 まず俺が寂しいと思うようになった。毎朝、ミレットの可愛い声で起こしてもらっていたのに、今は使用人のダミ声で目覚める。


 朝、一緒に学校に通うのも楽しかったのに、娘が嫁に出てしまったような気分だった。


 次にカノアを家で見掛けなくなった。あいつはずっとミレットの家にお邪魔しっぱなしだ。


 ミレットの弟のコレント君の料理の試食をするという理由で夕食を取らなくなり、3人で学校に行くからという理由で朝食もミレットの家で取るようになった。肖像画の練習をする、勉強を教わるなどの理由で夕食後も居座っているようだ。家には寝に帰って来るだけだ。


 俺はため息をつく。ミレットがこの家で暮らしたのは、わずか1年だったけど俺達の生活を大幅に変えてしまった。


 ルリアが居てくれたなら、カノアが不在がちな事を寂しく感じる事も無かったのかもしれない。


 「カノアがミレットに意地悪する姿は君に瓜二つだ。カノアはますます君に似て来た気がするよ」


 顔は俺に似ていると言われるけど、中身はルリアそっくりだ。


 ルリアと出会ったのは6歳の頃だった。俺の両親は俺が物心ついた時にはもう外国に旅立ってしまっていて時折手紙を寄越すくらいだった。今も生きているらしいが、もう20年近く会っていない。カノアは俺の両親と一度も会った事が無い。


 俺は祖父に育てられた。祖父は鉱物学者で、研究院に籍を置きながら国中の鉱山を周って研究をしていた。俺も祖父に連れられて国中の鉱山を巡った。


「ねえ、その葉っぱ食べてみなさいよ」


 初めて会ったルリアは、庭の隅で俺に何かの植物の葉を手渡してきた。俺と同程度の年齢に見えるけれど、絵本で見る妖精のように美しく儚げで人間の言葉を話しているのが不思議に感じられた。


 鉱石の加工に長けた職人が多いというその土地では、領主から領民までが芸術を愛していて、祖父は鉱石の特徴を良く知る職人達との交流を大切にしていた。研究院の名誉教授という肩書を持つ祖父は領主一家に手厚く歓迎され、年に数回という頻繁な訪問にも関わらず滞在中は領主の館にお世話になっていた。


(この庭にいるって事は、この屋敷に住んでいる子なのかな)


 俺がそんな事を考えていると、ルリアはしかめっ面をした。


「何よ、その間抜けな顔。さっさと食べてみてよ」


 無理やり俺の手に葉っぱを押し付ける。


「これ、食べられるの?」


 葉の裏表を眺める俺にルリアは呆れたように言った。


「馬鹿ね。分からないから試しなさいって言ってるのよ。ほら、食べてみて」

「嫌だよ! 毒だったらどうするんだよ!」


 ルリアはふふん、と意地悪そうに笑った。


「大丈夫、ひっくり返ったら私のお医者さんを呼んで来てあげるわ。ここら辺で一番腕が良いって評判の医者だから死にはしないんじゃない?」


 美しい妖精のような顔から悪魔のような言葉が出て来る。俺の心臓が強く打ち始めた。


「もし、僕が食べて大丈夫だったら君も食べるの?」

「食べないわよ。美味しくなさそうじゃない」

「じゃあ、どうして?」


 泣きそうな俺の質問に、少し首をかしげて考える姿は絵になりそうだった。


「何となく。この葉っぱが食べられる物か、毒が無いか知りたかったの」

「食べないで、図鑑で調べようよ」

「どうやって?」


 図書室の場所は把握している。祖父が調査している間は暇だろうと、俺は図書室への出入りを許されていた。ルリアと一緒に図書室に行って図鑑で葉を調べる。


「これは豆の葉だね。人間が食べるように育てられた物では無いようだけど、食べても毒では無いみたいだよ」

「あなた、よく調べ方が分かるのね。すごいじゃない」


 結果を教えてあげると満足そうに笑った。この笑顔の為なら、どんな無理も聞いてあげたくなるような笑顔。


「じゃあ、食べて」


 俺は仕方なく食べた。少し苦い。でも嬉しそうに笑うルリアを見ると文句は言えなくなった。


(この子はどこの子なんだろう)


 しばらくすると、その子は探しに来た使用人に連れられて『さよなら』と去って行った。使用人は『ルリア様』と言っていた。


 祖父に聞くのが照れ臭くて、ただ名前だけを大切に覚えておいた。


 その子の正体が分かったのは次に訪問した時だった。その日も祖父の調査には同行せずに図書室で読書をしていると、草の香りと共に読んでいる本の上に何枚かの葉が置かれた。


「ねえ、これは食べられるの?」


 後ろを振り返るとルリアが立っていた。半年前に会ったきりなのに、つい先ほどまで話していたような調子だ。俺は緊張を気取られないように出来るだけ平気な顔をして葉を手に取った。


「調べてみよう」


 1枚ずつ調べて、確実に毒では無い葉は俺の口に入った。その度にルリアはとても喜ぶ。


「あなたは、昨日までどこにいたの? お祖父様と一緒に国中を旅しているって聞いたわ」


 俺の事は知っているようだった。前回会ってから今日までの出来事を話してやると、目を輝かせて聞いてくれた。


「いいなあ。私は病気ばかりしているから、この屋敷の外にすら出られないの」


 困った顔をする俺にルリアは自分の事を話してくれた。領主の娘という事もこの時知った。病気がちで皆と同じ食事をしない事が多いから、俺は一度も会った事が無かったのだ。


 その後は滞在の度に葉を食べさせられ、話をするようになった。ねだられて旅先から手紙を送るようにもなった。ルリアの返事は王都の屋敷に送られるから、返事を見るよりも本人に会うほうが先になる事もしばしばだ。その時には文句を言われる。


「何て間抜けなのよ。今すぐ王都に行って手紙を読んでらっしゃい」


 彼女は心優しそうな外見と中身が著しく異なり意地悪で我儘だった。でも何故か俺は彼女に夢中になった。彼女を満足させた時に見せてもらえる笑顔の為に俺は頑張った。


 図鑑を見なくても葉を判別出来るよう熱心に学んだ。各地で植物を見た時には後でルリアに説明してやろうと詳細に観察した。そうこうするうちに自分自身が植物に夢中になり、農作物の育成を学ぶ事に熱中し始めた。


「そうか、お前が興味を持つのは農学か」


 祖父は学ぶと言う事に関しては驚くほど協力的だった。持ち運べないから最後は置いて行く事になるのに旅先でも本を買い与えてもらったし、行く先々で俺の知りたい事に詳しい人を探してくれた。王都の学校には半分も通えなかったけれど必要な知識は全て手に入ったので、研究院への進学も簡単に叶えられた。


 幼い頃から祖父の研究を間近で見ていた俺は、研究者としての基本が既に叩き込まれていたから、他の人間よりは恵まれた環境にいたと言える。しかし他方面では不遇だったと言えるかもしれない。特に子供らしい事はほとんど経験しないまま成長した。


 ルリアと俺が意気投合したのは、病気ばかりで屋敷の部屋に閉じこもっていた彼女と、そういう点が似ていたからかもしれない。


 年齢を重ねるうちに、俺とルリアの間には友情以上の気持ちが芽生えていた。しかし彼女は大人になっても健康が完全に回復する事は無かった。俺は年に数回会えるだけで満足していた。


 彼女は違った。


「あなたともっと一緒にいたいから結婚したいの。早くどうにかしなさいよ」


 俺には分かった。いつもの我儘のように見せかけているけど切実な強い願い。外に遊びに行きたい、旅行に行ってみたい、水遊びしてみたい。全てを諦めてきた彼女が、どうしても諦め切れないと思ってくれた心からの願い。


 覚悟を決めて彼女の両親に願い出た時に聞かされた事は、俺も頭のどこかで分かっていたのだろう。衝撃は無かった。


「あの子は恐らく数年しか生きられない。それでもいいなら、その覚悟があるなら、どうかあの子の願いを聞いてやって欲しい」


 王都に行ってみたい、俺が『教授』と呼ばれるようになるのを見たい、俺は懸命に彼女の願いを叶えた。


 数年と言われた彼女の体は10年以上持ちこたえた。その間にカノアを授かり俺達は最高の幸せを共有する事が出来た。手の施しようが無くなり故郷に戻って静養する事になった時、研究院を辞めて一緒に行こうとする俺に彼女は、いつもの意地悪そうな微笑みを浮かべて言った。


「どうせなら、一番偉い教授になってみせてよね。ふふん、あなたには無理かしら?」


 俺が彼女の願いなら、どんな事をしてでも叶えると知っていて、こんな事を言う。最後まで一緒にいたいという俺の気持ちは汲んでもらえない。


「君は本当に意地悪だな」


 ルリアは優しく俺を見つめて言った。


「そんな私が好きなんでしょ?」


 彼女は領地に戻って数年後に旅立った。泣きじゃくるカノアを抱きしめて最期の言葉を深く胸に刻んだ。


「カノアの事をよろしくね。あの子は、とっても寂しがり屋だから」


 俺はまた、月に向かって呟く。


「最初は、あの子にお姉さんが出来たと思って喜んでたんだ」


 ルリアが旅立ってから数年経つ頃、思春期を迎えたカノアは父親である俺とは、ほとんど話をしてくれなくなった。それがミレットが来てからは、家の中で笑顔で話し掛けて来るようにまでなった。二人はくだらない喧嘩をしながらも仲が良さそうで、彼女と弟のコレント君の中にカノアも混ぜてもらえたような気がして俺は嬉しかった。


 だから、ミレットが家を出て行ってから、カノアがミレットとコレント君の家にお邪魔してばかりなのも仕方ないと思っていた。ミレットのご両親にお会いした時にお詫びすると、今までお世話になった事を考えたら何でも無い。子供達も喜んでいるから、と大らかに笑って許して頂いた。


 ここ最近は俺まで夕食をミレットの家でご馳走になる事が増えた。助手たちがコレント君の料理を食べたがってミレットの家に集まりたがるからだ。俺だけ仲間外れになるのが寂しくて『先生もどうぞ』の言葉に甘えて立ち寄らせて頂いている。うちの料理人は、お客が増えて忙しくなったミレットの家に手伝いに行ってばかりで、ここで料理することがほとんど無くなった。


 今日の昼間の研究室での事。今晩もミレットの家にお邪魔しようと相談している助手たちに、カノアがほとんど家にいない事をぼやいた。


「それなら、あの子たちが18歳過ぎたら、さっさと結婚させてみんな一緒に住んじゃえばいいじゃないですか」


 あの子達は姉弟みたいなのに、と完全に冗談だと思って笑っていると呆れた顔をされた。


「もしかして先生、お気づきじゃないんですか?」

「あの二人、絶対に恋人ですよ」


 崖から転げ落ちたくらいの衝撃を受けた。


「考え過ぎだろう! だって、ミレットには幼馴染の若者がいたじゃないか」

「ハルガン君ですよね。あの子、油断してる間にカノア君に取られちゃったんですよ」

「見てて可哀そうだったわよね。気づくのが遅いのよ」

「カノア君ずいぶんと積極的だったし。あれじゃあ負けて当然よね」


 何ということだ。


「独占欲丸出しのカノア君、可愛いったらないわ」

「トーマスが面白がってカノア君の目の前でミレットちゃんの頭をふわふわしたら、カノア君すっごい目で睨むの。もう可愛くって」

「やだ、かわいそうじゃない」


 気づいていなかったのは俺だけだったようだ。俺は冷や汗が止まらなくなった。


 ミレットを預かる時に彼女の父親と話をした。その時に勉学や生活の事以外に年が近いカノアの存在を気にされていたようだった。絶対にあり得ないと思い『女の子の父親は心配症だな』なんてのんきな事を考えていたが、まさかこんな事になるとは。


(これだけ周りが知っているという事は、彼女の父親も気づいているのか?!)


 彼女の父親が知ったらどう思うか想像すると、穴を掘って埋まりたくなる。


 それでも、心のどこかに『よくやった』とカノアを褒めてやりたい気持ちがある。


 ミレットはこの研究室でも皆に愛されている。最初に学校に問い合わせた時には級友と上手くいっていないと報告を受けていた。だから他の助手達との接触を避けていたが、彼女は風変りだけど気配りも出来るし人格に問題があるとは思えなかった。実際に、助手達と交流をさせ始めてみても何の問題も無いどころか欠かせない存在になった。


 彼女の論文が燃やされた事件の時には大変だった。助手の中には平民だけじゃなく上流貴族の子女もいる。彼女の論文を燃やしたアシュレに彼女以上に怒りを覚え、親に何やら働きかけたという噂も聞く。緘口令が敷かれたにも関わらず、王宮内にあっと言う間に広まった事や、彼女の父親があれだけの早さで領地と身分が戻された背景に、その影響が無いとは言えない。


 あの事件で彼女は研究院の中でも有名になり、教授達の間でも『どうやったら、あのふわふわを触らせてもらえるか』が熱く議論されている。


 そのおかげなのか他の分野との共同研究も増え、昼間、熱心にコレント君の夜ご飯を予想していた二人は、地質学との共同研究で大きな成果を上げたばかりだ。


 ミレットは俺の家だけではなく研究室にも多くの物をもたらしてくれた。


「なあ、ルリア。もしもミレットが、本当に俺達の娘になってくれたらカノアの大手柄だと思わないか?」


 もしルリアが聞いていたら、きっとこう言うだろう。


(私達のカノアなのよ。最高の女の子に好きになってもらえて当然でしょ)


 月が少し高くなって来た。そろそろミレットの家に行こう。ルリアと話をして少し心が落ち着いた。これならカノアを見ても動揺せずに話せる。


(知ってしまった以上、カノアを頻繁にお邪魔させる事は止めるべきなのか)


 カノアに言って素直に聞くとは思えない。新しい悩みが出来たが、とても幸せな悩みだ。


 俺は立ち上がって桶を手に取ると、もう一度月を見てルリアの面影を心に思い浮かべた。


(終)

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めざせ、持続可能な研究生活~没落令嬢のふわふわ頭は畑でいっぱい 大森都加沙 @tsukasa8omori8

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