大切な練習、それを見守る馬の絵
私の熱は数日間下がらなかった。医者を呼んで頂いたけど理由は分からず、疲れじゃないかとの見立てだった。先生からは、回復するまで絶対に馬小屋にも畑にも行ってはいけないと強く言われている。
でも、そんな事を言われなくても一歩も動けなかった。色々な思いが頭をよぎって私を疲れさせる。ぼんやりと、壁にかけたカノアの絵を眺めて過ごした。そこから感じる土の香りと風のそよぎが、少しだけ現実を忘れさせてくれる。
扉が細く開いてカノアが顔を覗かせた。私が目を覚ましている事を確認すると、扉を大きく開いた。
「入ってもいい?」
「うん、どうぞ」
身を起こそうとして止められた。私の額に手をあてて、顔をしかめる。
「まだ、少し熱があるんじゃないのか」
「そうだね、そんな感じがする。丈夫さが取り柄だったのに、どうしちゃったのかな。迷惑掛けてごめんなさい」
「心配はしてるけど、迷惑じゃないよ」
「ありがとう」
私はまた、壁の絵に視線を戻した。
「前に、馬の絵を描いてるって言ったの覚えてる?」
「うん、覚えてる」
「まだ途中なんだけど、かなり形になってきた」
私は思わず起き上がった。
「見たい、見せて!」
カノアが少し恥ずかしそうに笑った。
「持ってくるから、ちゃんと寝てろ」
「分かった。待ってる」
私はおとなしく横たわり、カノアが絵を持ってくるのを待った。しばらくすると壁に掛けたものより少し大きめの絵を持ってきた。私に見えるように向けてくれる。
「ロイとレイ、マオ、これはキリー!」
4頭が馬場で駆けまわる姿が描かれていた。会えて嬉しい、遊んで楽しい、という4頭の弾んだ気持ちが感じられる絵だった。
「とても楽しそう」
私は思わず起き上がって、よく絵を見ようとした。
「ほら、寝てろって」
「もう大丈夫。もう少し見たい」
「また熱が上がっても知らないからな」
乾いて傷んでいた心に何かが染みこむような気がした。温かくて全てを許してもらえるようなぬくもり。本物のキリーに会いたくなる。
悲しくないのに涙があふれて来た。カノアの顔が険しくなる。
「ごめん、何でもない。ちょっとキリーに会いたくなっちゃっただけ。ほら、毎日会ってたのにしばらく会ってないから」
涙が全然止まらない。カノアが心配していまう。何とか止めなければ。
何か違う事を考えよう。何を? 畑のこと。冬に雪が積もるここでは、この季節から植える作物はない。では、春から植える作物の事を。
アシュレの憎しみにゆがんだ顔が頭に浮かぶ。
「ああ、もう。絵を持ってるとハンカチも出せない」
カノアが苛立ったように言う。
「大丈夫、これで拭くから」
寝巻の袖で涙をぬぐう私を見て、カノアが呆れたような顔をした。
「ちょっと、待ってろ」
カノアは絵を持って部屋を出て行った。しばらくすると、絵と画架を持って来て絵が見えるように画架に立て掛けてくれた。そして寝台に腰かけて手ぬぐいを渡してくれる。
「その泣き方なら、ハンカチじゃ足りないだろ」
涙が後から後から湧き出てきて止まらない。嗚咽も出てきてしまう。私は涙を止めるのをあきらめて、自然に止まるのを待つ事にした。きっと病気のせいだ。
「お前は、自分を騙すのが上手すぎるんだ」
「どういう意味?」
「大丈夫、何でもない、平気って、自分で自分に言い聞かせて思い込ませてる。もっと正直にならないと心が壊れる」
「素直じゃないカノアに言われたくない」
「俺はお前と違って、自分に正直だよ。興味が無い事には関わらない、欲しいものは手に入れる。言いたい事は言う」
「そうなの?」
「そうだよ」
(そうなのか)
「周りに気を遣って、心配させないようにする事を否定はしない。でも、自分を騙すのはやめろよ。いつか心が耐えられなくなる」
「私、騙してるかな」
「騙してる。ほら、練習だ。本当は論文を燃やされて悲しいんだろ?」
本当は、本当は――。
数値をまとめたもの、草稿、たくさん残っている。頭の中にもしっかり残っている。論文をもう一度書くことはそれほど大変じゃない。だから、大丈夫。悲しくない。
本当に?
書きあがった時の気持ちを思い出す。完成して嬉しかった。一緒に喜んでくれた先輩たち。
「――本当はね、本当はね」
先生に読んでもらっている間の緊張した気持ち。先生が私との出会いを感謝していると言ってくれた時の喜び。幸せな気持ち。
「本当は、悲しかったの。心が燃やされているみたいで苦しかったの。同じものをもう一度書けるけど、あそこには、私の頑張りだけじゃなくて、助けてくれた先輩の想いも、先生の優しさも、みんな詰まっていたの」
私の大切な物を燃やされた。そう、悲しくて苦しくて私の身が焼かれているようだった。
「それから本当は、家を潰されて悲しかったんじゃないか?」
本当は、本当は――。
両親も、祖母も、コレントも、今は困っていない。コレントは特に料理人への道が開けて喜んでいる。だから悲しくなんてない。
本当に?
最初に知らせを受けた日の事を思い出す。沈鬱な顔をした父、言葉を失って呆然とする祖母と母。何も声を掛けられず、無力さに打ちひしがれるコレントと私。
「結果として、私たち家族は今は困っていない。でも、ライニール男爵にも、先生にも、色んな人にお世話になって、迷惑をかけた。何の落ち度もないのに父は名誉を傷つけられた。あんなに領地と領民を想っていたのに、蔑まれて誹謗中傷を受けている。私のせいで。私が研究者を目指したから」
「だから、悲しいんだろう? 悔しいんだろう?」
学校に通えなくなったと知った時の絶望感。家族に私の夢をあきらめさせる負い目を感じさせないように考えた、旅に出るという計画。不安で仕方なかった気持ち。
「うん、悲しいの。すごく悔しいの。何でそんなひどい事を、って納得できないの」
私は思い切り声を上げて泣いた。カノアがぎゅっと抱きしめてくれた。背中を優しく撫でてくれる。
「他にもまだあるか?」
「怖かったの。あんなに憎まれて、あんな目で見られて、すごく怖かった」
アシュレが私を心から憎む表情、目つき。人があんなに誰かを疎む顔を初めて見た。その感情が、長年私に向けられていた事に気づかなかった。たまらなく怖かった。
「私、そんなに悪いことしたのかな。私どうすれば良かったのかな」
「お前は何も悪くないよ。怖かったな。もう大丈夫だ」
カノアにぎゅっとしがみついた。温かい。胸の中が温かさでいっぱいになる。
「まだあるか?」
私は論文のせいで、パトロニエの価値を変えてしまった罪悪感を吐き出した。他にも悲しかった事、辛かった事、苦しかった事を全部吐き出した。大丈夫だと思っていた私の心には、色々なものが溜まっていた。
カノアは背中を撫でながら全てを聞いてくれた。
「まずは全部吐き出せ。考えるのはその後でいいんだよ。お前、考えるのは得意だろう?」
「うん。ありがとう。本当にありがとう」
せっかく手ぬぐいを持ってきてもらったのに、私の涙のほとんどはカノアの服が吸い取ってしまった。謝ると笑って言った。
「洗濯するのは俺じゃないから、気にするなよ」
全てを吐き出して泣き疲れた私を、カノアは寝台に横たえさせると、そっと頭を撫でてから立ち上がった。
「馬の絵は置いて行くから。早く馬小屋に行けるくらいにまで元気になれよな。俺の腕ではまだ実物には敵わないから」
泣き疲れたせいなのか、心の疲れが取れたからなのか、今度は深く眠れそうだった。
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