彼の夢の原点、私が夢を追い求めたから

 コレントは私が自分で歩けるようになった事を確認して、肩から手を離した。そして黙って私の手を引いて歩く。学校を出ても、そのまま歩き続ける。やがて、私の震えは完全に止まった。


「どこに行くの?」


 少し微笑むだけで、何も答えてくれない。


「ずいぶん力が付いたのね。私の事を抱えられそうだった」

「当然だよ、姉さん。僕だって成長しているんだ」


 やがて着いたのは、私たちの家だった。領地と家名を召し上げられたから、ここの現在の所有者が誰なのか分からない。10年以上前に維持できなくなって閉じた王都の屋敷。幼い頃に少しだけ過ごした記憶がある。


「ここから入れるんだ」


 コレントは崩れかけた石壁の隙間から器用に中に入り込んだ。私も真似をして入る。


 庭には雑草が生い茂っていたけれど建物は想像よりは朽ちておらず、在りし日の面影を残していた。


「懐かしいわね!」


 建物の裏に回ると石造りの扉が開いたままだった。そこからは厨房の様子が見える。コレントはすぐ外のベンチを指した。


「ここに座ろう」


 雨ざらしになっていたはずなのに、ベンチはそれほど傷んでいない。


(違う、修理してあるんだ)


「ここに、よく来るの?」


 コレントがにっこり笑った。


「うん、一人になりたい時にはね。家では双子が騒ぐから落ち着いて物を考えられないんだ」

「あはは、想像つくわね」


 恐らく、他人の家にお世話になっている以上、嫌な事があっても悩みがあっても沈み込んだ表情は見せにくいだろう。


「僕が初めて料理人になりたいと思ったのは、小さい頃にここで厨房を眺めていた時なんだよ。あっと言う間に料理が生み出されていくのを見る事が本当に楽しかった。だから、迷った時にはここで考えることにしてる」

「そんな大切な所に連れて来てくれて、ありがとう」


 私はアシュレが言ったことを思い返し、頭の中を整理しようと努めた。


「コレント、香草のパトロニエの産地を知ってる?」

「ウィーリード地方だったと思うけど」

「アシュレ・グリーンビー。そうか、ウィーリード地方はグリーンビー家の領地だったと思う」

「だから、パトロニエの話が出たんだね」


 珍しい香草のパトロニエは、ウィーリード地方でしか採れないものだった。高値で取引されていたパトロニエは、この秋に父がアーレンツ領で大量に生産し、腰が抜けるほどの利益が出たと言っていた。


 恐らく、そういう事に疎い父にかわってライニール男爵が上手く値付けをして市場に流してくれたのだろう。そして元から販売していたウィーリード地方の利益が減ったということか。


「姉さん、アーレンツ領で育てたパトロニエはね、今まで市場で手に入ったものとは比べ物にならないくらい良い品なんだ」


 利益が減ったどころか壊滅的な打撃を与えたのかもしれない。論文を書こうと思った時に覚悟した事を思い出す。


「世の中をより良くすると想像できるか」


 パトロニエを安価で楽しめる人が増えた。果たしてそれはグリーンビー家、ひいてはウィーリード地方の人達に不利益を与えてまで、やるべき事だったのだろうか。胸に何かが深く刺さったような痛みが走る。


 ウィーリード地方には他にも多くの農産物があるしグリーンビー家はとても裕福だ。パトロニエくらいではびくともしないはずだ。私の研究は世の中をより良くするはず、必死で自分に言い聞かせる。


 他にも私のせいで引き起こされた、ひどい事がある。


「コレント、ごめんね。うちが領地も身分も失ったのは私のせいだったね。ごめんね、ごめんね」


 アシュレはうちを潰したと言っていた。アシュレのグリーンビー家は、モリーナの家と同じく王家に連なる家系だったはず。うちを潰すくらいの力があってもおかしくない。


 初等部の時の私はどうすれば良かったのだろう。研究者を目指さず、男爵家のご令嬢らしく振る舞えば、モリーナも私に興味を持たずアシュレの気に障ることも無かったのかもしれない。


 コレントが私の手を握ってくれた。


「姉さんが謝る必要ないでしょう。家族全員が今の暮らしの方が性に合っているって分かってるでしょう」

「本当に? 心からそう思っている? コレントも人の家に預けられて、本当は嫌じゃない?」

「嫌じゃない。僕は自分が家を継ぐものだと思い込んでいた。でも、家名を失って自由になれた。それに、本当に大変な時に助けてくれる人の温かさを知る事が出来た」


 ライニール家の人たち、先生、他にも私たちを気にかけて支えてくれた人が大勢いる。


「そうだね。⋯⋯お父さんも、お母さんも、お祖母ちゃんも、みんなそう言ってくれると思う?」

「うん、絶対そう言うから」

「ありがとう」


 『何だか元気になってきた』そう言うと、コレントが目を丸くした。


「論文! 姉さん、一番大切な事があるでしょう。もし燃やされた論文が本物だったら、研究院に入る審査はどうなるの?」

「あれなら、もういいの。来年また出せばいいわ」

「え?」

「私はまだ2年生でしょう。高等部を卒業するまでに審査が通ればいいから、まだ間に合うの」

「でも⋯⋯」

「それにね、先生に改善点を頂いていたの。それを盛り込んで完璧に近づけたい。納得していないのに、研究院への道に目がくらんで提出してしまった事を悔やんでいたから、ちょうど良かったのよ」


 コレントは思い切り笑った。


「すごいね、姉さんは」


 そのまま腰かけて、日が落ちるまでコレントと話をした。



 先生の家に戻ると、深刻な顔をした先生とカノアが待っていた。私の顔が思ったよりも明るい事が気になるのか、二人で目を見合わせている。コレントは二人に挨拶をするとすぐに帰った。帰り際にカノアと何か小声で話していた。


「心配をお掛けして申し訳ありませんでした。モリーナはどうしましたか?」

「モリーナは、待たせていた馬車に乗せて帰したよ。私が同行して、家の方に状況を説明したから、大丈夫だ」


 彼女は学校まで馬車で来ていて、いつものように御者を控室で待たせていたそうだ。アシュレのことがあったので、モリーナの家には先に学校から連絡が行っていたらしく、モリーナと先生が到着した時には既に騒ぎになっていたらしい。


 ちょうど彼女の父もアシュレの父も王宮にいて知らせを受けたようで、素早く緘口令が敷かれたそうだ。先生も他言無用と丁寧に、しかし逆らう事を許さない調子で言い渡されたらしい。


「先生、ありがとうございました。大変なご面倒をお掛けして申し訳ありませんでした」

「君のせいじゃないんだから、謝らないでくれ」


 モリーナやアシュレの父公爵たちまで出てくる大きな話には現実味がない。私はもっと身近な、片付けも何もせずに放り出して帰ってしまった事や、みんなを嫌な気持ちにさせてしまった事が気になった。先輩たちにも、ちゃんと謝らなければならない。


 確認しておかなければならない事が、もう一つ。


「燃えてしまったのが、私の論文だったかお分かりになりますか?」


 先生は黙って紙包みを取り出した。開くとそこには、綴じた部分がわずかに残った焦げた紙の塊があった。湿って割れた塊の端には、私の文字が少し残っている。


 私は深呼吸した。そして、コレントに伝えた事と同じ内容を二人に伝えた。また来年提出するから大丈夫。


「先生、頂いた改善点を1年で全て直したいです」


 先生は眉根を寄せたまま、少しだけ表情を和らげた。


「君なら、改善点を全て直した上に、違う論文まで書けてしまうかもしれないね」

「はい、頑張ります」


 大丈夫。空元気なんかじゃない。一生懸命笑ったけれど、カノアは怪訝な顔をして私の方に近づいてくる。


「お前、具合悪いんじゃないか?」


 言われてみると、体にしっかり力が入らない。少し頭がぼんやりする。カノアが私の額に手を当てる。


「父さん! こいつ、すごい熱だよ」

「え、あ、ごめんなさい」


 あっと言う間に使用人に引き渡されて、着替えさせられて寝台に寝かされた。横になった途端、地面に吸い込まれるような体の重みを感じた事までしか覚えていない。

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