指導者として、研究者として、父として

「出来た、出来ました!」


 研究院の中、先生の部屋の隣に助手たちの部屋がある。その片隅に私の場所を作ってもらっている。資料をまとめたものや、参考にした論文や本が山積みになっている。論文の草稿も散らばっている。


「頑張ったね!」

「大したもんだよ。教授がご覧になった後で、私たちにも見せてね」


 先輩たちも私の頭をモフモフして喜んでくれる。


「先輩方にも、たくさんのお力添えを頂いて本当に感謝しています。本当にありがとうございます」


 涙ぐんでくれる先輩までいる。先輩たちも努力と苦労を重ねて今の立場にいる。私の気持ちを一番よく理解してくれている人たちだ。


 思えば、没落して先生の助手見習いになれた事で先輩たちとの交流が生まれた。ここで得たものは言葉で表せないくらいに大きい。


「先生、失礼します」


 隣の先生の部屋を覗いても姿が見当たらない。ここにいらっしゃるはずなのにと目で探すと机の奥で床に近い本を引っ張り出そうとしていた。


「先生! 崩れてしまいます」


 慌てて論文を近くの椅子の上に置き、先生の上の本が崩れないように押さえた。


「ごめん、ごめん。じゃあ引っ張るよ。せーの!」


 目当ての本を無事に引き出せた。カノアと同じ石鹸の香りがふわりと漂う。先生が嬉しそうに本をめくった。何か調べの途中だったのだろう。私は出直すことにして論文を手に部屋を出ようとした。


「待って、何か用があったんでしょう」


 先生が本を閉じて机に置いた。


「論文を書き終えたので、見て頂きたいと思いまして」

「早いね! もう何日かかかると思った。見せてくれる?」


 私が差し出した論文を手に取ると腰掛けて目を通し始めた。私も空いている椅子に腰掛けた。


 肌寒くなってきているのに、腕まくりをしたシャツには土汚れがついている。少し俯くとさらさらの黒い髪の毛が時折目にかかり、邪魔そうに手で払いのけている。紙と土とインクの香り。


 私が失うかもしれなかった大切な光景。大切な時間。この論文が認められて研究院への入学が認められたら、この先もこの時間が続く。私は先生の評価を緊張して待った。


 やがて先生が論文を読み終えて、机の上に置いた。紙を取り出して何かを書いている。書き終えると私に論文と一緒に渡してくれた。


「論文は、これで提出していいだろう。期日は来週だけど早めに出しに行きなさい」


 論文には他にも概要や申込書など添えるべき書類がある。それらに不備があってはいけないから早めに提出した方が安心できる。


「その紙は、今後に向けての課題だ。このままで十分に研究院への入学が見込める精度だけど君は納得していないだろう。何をどうすれば良くなるか簡単に書いておいたから、また後日、取り組んでみよう」

「ありがとうございます!」


 今の状態で完璧な論文が書けたら研究院なんていらないじゃないか、何度も先輩たちに言われたけれど納得いかない部分が残っている。提出して終わりではない、先に続くと思うと楽しくなる。


 頂いた紙を見ながら取り組む事の順番を考えて、方法を考えて、頭の中で並べていると、先生が私をじっと見ている事に気付いた。少し細められた目が傾きかけた日差しで優しくゆらめいている。


 何か伝えたいことがあるのか、しばらく待ってみたけれど先生は何も言わない。


「先生?」

「ごめん、最初に会った時のことを思い出していた。君には本当に驚かされることが多いな、と思い返していたんだ」


 最初の出会いから、助手にして家にまで置いて頂いたこと、論文の指導、何から何まで先生のお世話になりっぱなしだ。


「指導者として一番嬉しい瞬間は、自分の知識を受け継いだ教え子が、その知識を活かして新しい事を生み出した時なんだ。研究者として楽しいのは、自分には無い視点をもたらしてくれる人との出会いや語らいだ」


(指導者と、研究者)


「父親として嬉しい瞬間は、子供の新しい一面を見られた時。楽しそうに過ごす姿が見れた時、成長を感じられた時」


 先生は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「君は全てを私にくれる。君と出会えて、私の教え子になってもらえた運命を感謝している。初めて会った頃、研究院の畑にふわふわの女の子がいる事は噂になっていたんだ。他の教授に奪われる前に出会えて本当に良かった」


(誰にも見つかってないと思っていたのに!)


 噂になっていたというのか。思い返すと恥ずかしい。


「君にはかわいそうな事だったけど、家に来てもらえるようになった事も私とカノアにとっては幸運だった。あのカノアが、あんなに誰かに心を許して楽しそうに過ごす姿を見られるとは思わなかったんだ」


 心臓がどきんと跳ねる。まさか先生はカノアと私の間に生まれている気持ちの事までは知らないだろうけど、少し恥ずかしくなる。


「知ってた? カノアは私には絶対に描いた絵を見せてくれないんだ。君には贈ったって聞いて少し悔しかったくらいだ」

「何だか、すみません」


 先生は楽しそうに笑った。


「本当にありがとう。論文も、本当に頑張ったね」

「私こそ、先生と出会えたのは本当に幸運でした。ありがとうございます」


 助手の部屋に戻り書類を整えた。古参の先輩が心配して熱心に書類を確認してくれて、私を送り出してくれた。この時間ならまだ高等部に学園長がいる。自分の所属する学校に提出するのが決まりだ。


 帰ったらカノアに何と言って報告しよう。報告する言葉を考えながら、将来を決める大切な論文をしっかり抱えて学園長の部屋に向かった。



 論文は無事に受け付けられた。気分が楽になった私は、毎年行うという焼き芋の準備に取り掛かった。先輩たちに、いつものやり方を聞いて手配をする。


 畑の端にある広場に枯れ葉を集めて行うそうだ。でも火を焚くので事前に色々な所に申請して許可を取らなければならない。書く書類がたくさんある。


(領地で気軽に焼き芋をするのとは違うわね)


 アーレンツ領の農家では、秋から冬にかけては、あちこちで焚火を起こして焼き芋をしている。風が少ない日に行う、水場の近くで行うなどそれぞれの経験に基づいて危険が無いように行っている。大きな火事の発生も聞いた事はない。


 サツマイモについても、ちゃんと検査が済んで食べてしまって大丈夫かどうかを記録と突き合わせる。


 そういえば残念なことに、サツマイモについてはグリリウムの効果が認められなかった。香草のパトロニエには効果があったけれど、全ての作物に効果があるわけではないようだ。


(アーレンツ領の野菜の味が濃い、という謎はこの先の課題ね)


 まだまた、取り組むべき課題は多い。アーレンツ領からも美味しそうな物を厳選して持ってきた。


 焼き芋を行う日程が決まった。先輩がモリーナを誘っていたことを思い出した。


「私の実験は失敗したから、ただの美味しい焼き芋なんだけど、あなたも来る?」

「行きたい、あなたのセンパイ達が言っていた焚火をして焼く話でしょう? 焚火って見た事がないし、そういう危険なものは家では絶対に許してもらえないもの」


 最近のモリーナはアシュレ付きでも、たまに私に話しかけてくれる。彼女が『おはよう』と私の頭をモフモフした時には教室がしんと静まり返った。それでも気にせず話しかけてくれるようになっている。


 次第に周りの女の子たちも、私に皮肉を言うことをやめ、必要な連絡を隠したりしなくなった。たまに恥ずかしそうにモフモフさせて欲しいと言ってくる子もいる。アシュレだけは、相変わらず私を呪い殺しそうな目で見つめてくるけれど。


「どうして、急にこんなことになったの?」


 ハルガンに不思議そうに聞かれたのでサツマイモが取り持ってくれたと説明したけれど、疑問は消えなかったようだ。でも上手く説明出来ないから仕方ない。


 カノアにも報告した。


「これで、傷つくことがなくなったな。解決して良かった」

「傷つくって⋯⋯全然気にしてなかったよ」


 カノアが呆れたような顔をした。


「お前は変わり者だけど、人の感情が分からないような奴じゃない。悪意を向けられたら傷つくに決まってる」


(どうして、どうして)


 ずっと『大丈夫、こんなの気にならない』と自分に言い聞かせてきた。悲しくならないよう、自分に一生懸命言い聞かせて来た。自分でも気にならないと信じられるようになっていたのに、なぜ分かるのだろう。


「もしかして、解決させるためにモリーナに踏み込んで話してくれたの?」


 アシュレ付きといない時の態度の違いについても、私と仲良くなりたいのだろうと彼女に指摘したことも、他人を構わないカノアにしては、ずいぶん踏み込むものだと不思議に思っていた。


「そんなことした覚えはないよ」


 ぷいっとそっぽを向いて部屋に戻ってしまった。


(ありがとう)


 言葉にできなかったけれど、きっと伝わっていると思う。

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