絵からは化け物が飛び出し、石像は動くかもしれない

 領主の屋敷も美しかった。花が咲き乱れる庭は完璧に整っている。王都でも庭を整えた屋敷を見かけるけれど、ここは全然違う。私でも分かる程の情熱でこだわって手入れされている。


「美しさに疎い私の心も震えさせる、芸術にはそういう力があるんだね」

「多分ね」


 カノアがまた解説をしてくれる。後で帳面に記録しようと思って気が付いた。


(農学のこと以外で、書き残したくなるのは初めてかもしれない)


 お屋敷では私まで歓迎して頂いた。現在の領主は先生の奥さまの兄にあたる人だ。先代の領主は引退していて、屋敷の一角で夫婦そろって絵を描き、彫刻を彫り、芸術家と交流して過ごしているそうだ。


 日に焼けて、のん気な雰囲気を持つ私の両親とは全く違う。ハルガンの家のご両親のように快活で賑やかな様子とも違う。ゆっくりとした優雅な空気をまとった方達だった。口調も穏やかで落ち着いている。


「聞きたいことがあるんだ」


 カノアが色鉛筆の謎を解くべく、逗留していた画家のことを尋ねていた。名前は分かったけれど、現在の所在までは誰も分からないらしい。


「その画家が残した絵を、数枚見かけたことがあるよ」


 領地の奥に芸術家たちが残していった作品を飾ったり、保管してある建物があるそうだ。


 カノアに誘ってもらったので一緒に探しにいく事にした。先生は興味がないらしい。


「今日は天気が悪いから、明日、この領地の畑を見に行こう」


 そう言って書庫にこもってしまった。



「ねえ、カノア、暗いよ!」

「え? 見えるだろ?」

「見えるけど、⋯⋯見えるから怖いの!」


 大きな大きな建物の中は、天気が悪い事もあって薄暗かった。絵画や彫刻、石像、何か良く分からないものが飾られている広間や、暗い廊下が続いている。


 私は暗い所が苦手だ。明かりを持つカノアの後を頑張って追っていたけど限界だ。


「ごめん、年上のお姉さんだからしっかりしようと思ったけど、もう無理。泣きそう」

「え? 何なんだよ」


 カノアの服を引っ張って建物の外まで戻った。


「お前、暗いところが怖いって? 別に暗闇じゃないんだから大丈夫だろう」


 見えるかどうかで言うと見える。慣れた学校や家なら、このくらいの薄暗さでも怖くない。


「だって、よく分からない物がいっぱいあるし、石像が動きそうな気がするし、絵の中から何か出てきそうだし」


 カノアが未知の生物でも見るかのような目で私を眺める。


「お前、それが研究者を目指している人間の言う言葉か! 石像は動かないし、絵からは何も飛び出てこない」

「そんなの分からないじゃない! 怖いものは、怖いんだから仕方ないでしょ」

「じゃあ、ここで待ってる?」


 それも考えた。でも。


「私も、カノアに絵を教えた人の作品を見てみたい」


 カノアは大きなため息をついて、しゃがみ込んでしまった。


「なら、どうするんだよ。ここは美術館と違って見せる事よりも保管を重視しているんだ。作品は日光にさらせないから、ここは晴れた日でも薄暗いよ」

「えっと、手をつないでくれるか、服を掴ませてもらって『ここにいるよ』が分かれば、我慢できる」

「子供みたいだな」


 呆れながらも、カノアは手をつないでくれた。


「ほら、さっさと歩け」

「でも、あそこに何かあるよ」

「そりゃ、色々あるよ」


 カノアは私の手をぐいぐい引っ張るけれど、私は腰がひけてしまって恐るおそるしか進めない。やがてあきらめたのか、ゆっくり歩きながら、私が特に怖がる作品について丁寧に教えてくれた。


「分からないから、怖いんだよ。ほら、お前が怖がったこの絵は、人の顔がみな怯えているから怖いんだろう。視線をたどってみなよ」


 描かれている人の視線を追ってみる。窓の外には稲光が描かれていた。


「雷に怯えているの?」

「そう、小さいから分かりにくいけど。得体のしれないものに怯える絵じゃなくて、雷に怯える絵だと思えば、怖くないんじゃないか?」

「うん、そうだね」


 中には化け物のようなものが描かれているものもある。


「これは、心の動きを描いているものだ。本当に化け物がいるんじゃなくて、そういう心持ちを表現している。画家が表現したいものを描いているんだから、どんなに本物のように見えたって飛び出してきたりはしないよ」

「うん、理屈は分かる」


 分かるけど怖い。でも最初に入った時と比べて怖くなくなってきた。


「少し怖くなくなったけど、手は離さないでね。入り口からこんなに離れたところに置いて行かれたら本当に泣くからね」

「分かったよ。そういう意地悪はしない」

「普段、意地悪してるって自覚はあるのね!」

「さあね」


 カノアの気が変わったら意地悪されるかもしれない。また怖くなってきた私はカノアの手をしっかり握った。ふわりと石鹸の香りがする。


「カノアの匂いがして落ち着く。ここでは本当に意地悪しないでね」

「匂い?」


 カノアが少し身を引こうとした。


「やだ、何で離れるの! 意地悪しないでってお願いしたじゃない!」

「ごめん、だって汗かいたりしたし」


 珍しく少しあせった様子を見せる。


「汗じゃないよ。石鹸の良い匂いがするの。カノアの近くに寄るといつもこの香りがするから、家にいるような気がして怖さが紛れるの」

「そういえばお前は、いつも不思議な香りがするな。何だろう、木の葉や樹皮みたいな少し甘い香りと、香草みたいな香りが混ざってる。森の中みたいな香りだ」


 何と鼻が良い。正解だ。


「多分それは髪を洗う石鹸の香りだね。葉っぱや香草を調合して練り込んだ石鹸を使ってるの。あれが無いと、髪の毛が3倍くらいに膨らんで大変な事になるんだよ」


 カノアが大笑いした。


「ちょっと見てみたいな」


 広間を何か所か抜け、どれだけの廊下を進んだだろうか。


「あった、これだ」


 カノアが1枚の絵の前で立ち止まった。美しい女性が長椅子でくつろぐ姿が描かれていた。窓の外を眺める表情からは、外への憧れのようなものを感じる。


「母なんだ」

「もしかして、色々な画家がモデルにしている?」


 つないだ手に少し力が入った。


「母が幼い頃から、ここに滞在する芸術家が母をモデルにして作品を作ることが多かったんだ。息子の俺から見ても、とても美しい人だったから。そういう作品がここにも多く残っている」


 この場所に来るまでに、色々な絵の中でこの女性を見かけた。先生は恐らく興味がなかったのではなく、ここに来たくなかったのだろう。まだ、先生の心の中にはしっかりと奥さまがいらっしゃる。少しだけ胸が苦しくなった。


 カノアが一人で絵を眺められるよう、私はつないだ手をそっと放して後ろに下がる。カノアはそれを驚いたように見た後に、少し微笑んで視線を絵に戻した。


 静かな時間を過ごした後、カノアが振り返って手をつないでくれた。


「これは絵の具で描かれているけど、色鉛筆の絵もあるって聞いたんだ」


 辺りを探すと、それらしきものを数枚見つけた。


「一度手を離すよ。持って帰っていいと言われてるんだ」


 カノアは廊下の端から踏み台を持ってきて、壁の上の方に飾られている一番小さい絵に手を掛けて外した。踏み台から降りて私に手渡す。


「わあ、綺麗ね」


 馬の絵だった。広い草原で馬が跳ね回っている。馬の楽しそうな気持まで伝わってくるような絵だった。壁に掛かったままの他の絵も馬が描かれている物が多い。


 カノアは踏み台を戻してくると私から絵を受け取り、また手をつないでくれた。


「これは色鉛筆で描いているんだ。俺が知る限り10年以上、色褪せていないように思える。直接日差しを受けないとはいえ、光は入っているんだ。何もせずにこの状態を保つ絵は俺には生み出せない」


 絵には画家の署名が入っていた。これを王都に持って帰り、絵を専門に取り扱うお店で同じ画家の作品を探したり行方を聞いてみるそうだ。


(見覚えがある気がするのは、気のせいかな)


 馬がキリーに似ているからだろうか。どこかで見たことがあるような気がする。


 カノアがもう少し見たいというので他の部屋も見て回った。少し上の空の私の様子に気づいて、カノアが怪訝そうな顔をした。


「ごめん、少し気になることがあって」


 恐らく学校のどこかで、似たような絵を見た事がある気がする。そのことを伝えてみた。馬鹿にされるかと思ったけれど真剣に受け止めてくれた。


 夏休みが終わったら、二人で学校の中を探してみることにした。

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