研究者として背負うもの

 夏にさしかかる頃、研究院の私の畑ではパトロニエの小さく黄色い花が咲き乱れた。香草として食べる為にはもっと早い段階で摘むのだけど、今回は枯れる直前まで育てて種を採取することにしている。


 ハルガン経由でライニール男爵に経過を報告したところ、私の両親がいるアーレンツ領の大きな畑で試して欲しいという連絡を頂いた。世話を両親に任せられるので実現可能だとは思う。


 月を眺めながら畑でぼんやりと豆の花を眺めた。先生の家では馬の餌として育てているけれど、夜でも閉じきれていない小さな白い花が可愛らしいので鑑賞用に植える家もある。


「少し、お邪魔してもいいかな?」


 いつの間にか先生が桶を手に持って近くに立っていた。


「もちろんです」


 桶をひっくり返して私の横に座ると思い切り伸びをした。先生の香りがふわりと届き少し鼓動が早くなる。


「最近忙しかったから、こうやってのんびりするのは久しぶりだな」


 先生は先週、新しい論文を発表した。先生や先輩たちは忙しそうだったけれど、疲れよりも充実感の方が大きいといった様子で毎日楽しそうに作業をしていた。私にとっても、論文が書き上がるまでの過程を間近で見ることが出来る心躍る日々だった。


「やっと落ち着いて、君の研究を見ることが出来る。もう論文にまとめられる量の成果が出せていると思うよ」


 研究院に入る為の論文は、当然まだ専門の教えを受けていない人間が書くものなので、先生や先輩たちのような高度な内容は求められない。ここまでの研究を出来る人すら少ないのだから、今の材料で十分に書くことが出来ると先輩たちにも言われている。


 私のように現役の教授の教えを受けて、研究院の畑まで使わせてもらえるのは特別に恵まれていると言える。平民出身の先輩の中には、図書館にある限られた本だけで学び、離れた山のふもとに僅かな面積の畑を自分で切り拓き、研究を仕上げた苦労人もいる。


「ありがとうございます。先生と先輩がたのご協力のおかげです」

「何を迷っているの?」


 息が止まりそうになった。態度に出さないようにしていたのに、先生にはお見通しなのだろうか。


「論文を書くことが、正しいのかどうか迷っています」


 さっきまで読み返していた手紙を手渡すと真剣に目を通してくれた。


 ライニール男爵がハルガンに託した手紙には領地のグリリウムを好きなだけ使って良いこと、両親の家の近くの大きい畑を無償で使わせて頂ける事など、私の研究に力添え頂けるという内容が書かれている。


 問題は最後に書かれている提案だった。


「なるほどね。⋯⋯これは、迷って当然だね」


 パトロニエは香草として大変な高値で流通している。現在は特定の場所でしか育たないとされているけれど、私が発見した方法ならもっと広域で育てることが出来るようになる。


 しかしこの方法を広く伝える事を避けてパトロニエをアーレンツ領だけで育成したらどうか、これがライニール男爵からの提案だ。


 論文に書くのを止めて秘密にしたら。漏れたとしてもグリリウムを特定の人だけしか入手できない状態にしたとしたら。国内でも採取できる場所が限られるグリリウムの採掘を男爵が制限すれば実現可能な事だ。


「アーレンツ領はとても潤うでしょう。上手くいけば国王のお考えも変わり家名を復活させて領地を父の手に戻して頂けるかもしれません」


 私の家族は誰もそれを望んでいない。全員が今の生活に心から満足している。だから私の家族はグリリウムの効果を発表しても気にしないだろう。


 でも今のアーレンツ領はライニール家が統治している。アーレンツ領の潤いは、ライニール家の利益でもある。論文として発表したいという私の欲でそれを潰して良いのだろうか。領民だって今よりも豊かな暮らしを望んでいるのではないだろうか。


「ミレットは、なぜ研究をしているの? 研究院に入ることが目的ではなくて、研究を続けるために研究院に入るんでしょう?」


 なぜ研究をするのか。幼い頃に研究者になりたいと思った気持ちを思い起こす。


「知りたいからです。発生している現象について、何故そうなるのかを知りたい。そして知ったことを同じように知りたいと思っている人にも教えてあげたい」


 先生の優しい瞳が細められて、私の大好きな表情になる。


「研究に携わる者としては、知りたい、それを広く伝えたい、という気持ちは当然だと思える。研究院の研究者には、特定の組織などの利害から独立して研究を行う権利がある。それと同時に、社会からの期待に応える責任もある」


 責任を果たすからこそ、研究院に所属する研究者は身分や生活が保障されているという事は、まだ研究者とは言えない私でも理解している。


「研究の成果が社会に与える影響について、常に倫理的な判断を行う事も求められる」


 知りたい事を思うがままに研究する姿勢は求められていない。


「君のパトロニエのように、個人や組織の利益の衝突への配慮も必要だ。今回の事については、しっかり迷って考えなさい。その姿勢はこの先も忘れてはいけない」

「先生も、こういう迷いを持ったことがありますか?」


 先生は天を仰いで軽くため息をついた。


「今でも、いつも迷っているよ。君の先輩たちもそうだし、私が知る限りでは他の研究者も同じだ」


(みんな、同じ迷いを⋯⋯)


 先生は過去の研究について話してくれた。その発見には破壊的行為に悪用される可能性があった。他の教授や研究者とも長い時間をかけて話し合って発表する内容を慎重に検討したそうだ。その結果、公表しない事に決めた大きな発見は人の目に触れないよう厳重に管理される事になったという。世の中には、その発見は存在していない。


「今でもそれが正解だったか分からないんだ。でも私は『これが世の中をより良くすると想像できるか』という事を基準にして常に自分に問いかけることにしている」

「世の中をより良くすると想像できるか」

「研究者の行動規範については研究院に入って一番最初に学ぶ事なんだ。ちゃんと科目としてあるんだよ。でも君は、研究院に入る前にその壁にぶつかってしまったね」


 そう言うと、迷い続ける私の横に、静かに座り続けてくれた。柔らかな風が通るたびに先生の香りが漂い、カエルの鳴き声が聞こえる。


「先生、私、論文にまとめます。サツマイモの効果はまだ分からないけれど、グリリウムが農産物全般に効果があるのだとしたら、アーレンツ領だけでなく世界全体がより良くなると思えます。私たちだけが独占して良い発見ではないと思います」

「うん。では、明日から論文の形にする作業に取り掛かろう。忙しくなるよ?」


 先生の笑顔を見て、また鼓動が早くなる。大きすぎる尊敬なのか違う気持ちなのか。


「先生、よろしくおねがいします」


 気持ちの種類は分からないけれど、この時間がいつまでも続きますように、私は夜空に強く願った。



 ハルガンにお願いして、ライニール男爵には直接お話をさせてもらった。


 男爵は私の気持ちを汲んで下さった。そして困ったような顔をしてため息をついた。優しい、とても優しい微笑みを浮かべて。


「本当に君たちの一家は欲を持たないね。領民達も自分たちの事を優先してくれる君たちの気持ちをを良く理解して敬愛している。やっぱり君のお父さんが領地を治めるべきなんだけどな」


 私の家が領民を優先しているから裕福ではないという事、栄達を目的に国や要職に就く人へ便宜を図らないから没落するはめになる事、私が知らなかった事を色々と教えて頂いた。


「私からすると、もっと自分たちの欲を持てばいいと心配になるくらいだ」


 知らない事ばかりだったけれど意外ではない。恐らく祖父も、曾祖父もそうだったのだろう。例えばコレントが後を継いでいたとしても同じことをしたと思う。


「――でも、そこに私は惹かれるんだ。身分が変わったとしても、ずっと変わらず親しくしてほしいと思っている」


 恐れ多くて汗をかいてしまう。


「私たちの方こそ、いつも男爵やご家族の皆様には感謝を伝えきれないほどのご恩を受けています。今回のご提案もご心配頂いての事なのに、私の勝手を通させて頂きまして、本当にありがとうございます」


 突然、後ろから抱きつかれた。


「ひゃ!」

「難しいお話は終わった? さ、ミレットさん、あちらでお茶にしましょう」


 男爵夫人が私の頭をモフモフしてから、手を引いて立たせる。部屋を連れ出されるとハルガンも心配そうに来てくれる。


 私は多くの人に支えてもらっている。研究で成果を出して世の中をより良くしたら、少しはその恩に報いることが出来る気がする。

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