初めて街に行く、そして買い物をする

「このくらいで、大丈夫かしらね」


 今年は休ませる予定だった畑を、私の検証のために使わせてもらえる事になった。研究院の畑の土や水にグリリウムは含まれていない。どういう形でどの程度の量を与えると、作物に影響を与えるかを検証する。


「パトロニエには、何とか間に合ったかなあ」


 同種の香草は、5月末までは植え替えが出来る。遅れると開花に養分を取られる時期に入り根付き難くなってしまう。


 もう1種類、試している。サツマイモだ。王都とアーレンツ領で特に味の違いを感じたのがサツマイモだ。同じ品種でも、甘味が全く違った。アーレンツ領から持ってきた苗を、研究院の畑に植えた。


「作業は順調かな」


 先生と先輩助手が数人で様子を見に来てくれた。


「ここには畑の土に砕いたグリリウムを混ぜていて、あちらにはグリリウムを沈めた水桶からの水をやります」


 持ち帰った水と土を検査したところ、ライニール領の鉱山から続く地盤を通る地下水が、アーレンツ領の恵みの川にグリリウムをもたらしている事が分かった。鍵はやはりグリリウムだろう。この畑でそれを検証する。


 皆が私の記録を基に助言をくれる。私は改善点をまとめる。香草のパトロニエの方は育ちが早いのですぐに結果が出るはずなので、とても楽しみだ。


 楽しみといえばもう一つ、私に日課に加わった事がある。カノアがアーレンツ領を描いた絵を私にくれた。それを寝る前に眺める事が日々の楽しみになっている。


 ハルガンとライニール領の鉱山に行ってきた数日後のこと。私たちはいつも、広間の大きな机に本を広げて勉強をしている。その日も勉強を終えて部屋に戻ろうと本や帳面をまとめて2階の自室に向かった。


「それでは、おやすみなさい」


 一番手前に部屋がある私が、いつものように挨拶をして部屋に入ろうとした時だった。


「絵が出来たんだ」


 うっかり聞き漏らしそうなほど、小さな声でカノアがつぶやいた。


「見せてくれるの?」


 嬉しい。見せてくれるとは言っていたけれど、あの時だけの気まぐれな言葉だったのではないかと期待はしていなかった。


 カノアがわずかに頷いてくれたので私は慌てて本と帳面を自室に置くと廊下に出た。カノアはちゃんと廊下で待っていてくれた。


「少し手を入れたから、お前が気に入っていた状態からは変わっていると思う」


 カノアの部屋の中央には先日と同じように画架があり、そこには小さな絵が立てかけてある。咎める様子もないので絵に近寄って眺めた。


「わあ!」


 この前と同じ、アーレンツ領の畑が遠く広がる風景なのだけど何かが違う。アーレンツ領で過ごした時間がこの中に詰まっているようだという感想は変わらないのに何かが。


「あの日の風と日差し、土と肥料の香りまで感じられるの。どうしてだろう」


 まるで、あの場所に立っているかのような。絵を見ているという感じではない。この絵の縁を乗り越えるとアーレンツ領のあの日につながっているように感じるのだ。


 絵から目を離すことが出来ない。


「日差しと香りって、言ってくれた?」


 無理やり絵から視線を引き剝がしてカノアに向けると、とても真剣な顔で私を見つめていた。


「芸術に詳しくないから、おかしなことを言ってごめんなさい。でも、手を伸ばすとそのままアーレンツ領につながっているような気がしたの。小さな窓から領地を覗いて、日差しを感じて、香りを感じているような気持ちになるの」


 カノアは柔らかく笑った。


「ありがとう。五感で感じるような絵を描きたかったんだ」

「感じるよ。風の音も、川の流れも、馬のいななきも。土の香り、日光に照らされた葉の香り、肥料の香り」


 私の視線はまた絵にくぎ付けになる。


「この絵、たまに見に来てもいい?」

「もし、良かったら⋯⋯持って行く?」

「私の部屋に持っていっていい、ってこと? 飾らせてもらえるってこと?」


 恥ずかしそうにうなずいてくれた。


「嬉しい、ありがとう。本当に嬉しい」


 部屋にこの絵があったら、いつでもアーレンツ領とつながっていられるような気がする。絵の中に家族を感じることが出来る。


 そこで一つ気が付いた。


「あの、お願いがあるんだけど」

「何?」

「この絵を壁に飾りたいから、額を買いに行きたいのね」


 絵を痛めたくない。額に入れて大切に飾りたい。


「それで、一緒に買いに行ってもらえないかな」


 額を売っているお店が分からないだけではない。私は街で買い物をしたことがない。正直に言うと、ひどく驚かれた。


「一度も買い物をしたことがないのか? 貴族のご令嬢ってそういうものなのか?」

「私は貴族の令嬢らしく育っていないから、違う理由よ」


 確かにちゃんとした貴族のご令嬢は街に買い物など行かない。店員を呼びつけるか使用人が代わりに行く。


 しかし私が街に行った事が無いのは、ただ機会が無かっただけだ。学校と領地を馬で往復する生活だったから、そんな時間もなかった。必要な物は父が領地から出て来てまとめて購入していた。


「カノアは、買い物に行ったことがあるでしょう?」


 この前、本を買いに行くお金を先生からもらっていた。一人で買い物に行ったことないな、と少し羨ましく思いながら聞いていたのだ。


「分かった。一緒に行ってやるよ」


 それほど治安は悪くないけれど、すぐに貴族の子女と分かる制服のまま街に出るのは危ない。学校から帰って着替えてから街に出ることになった。


「先生に聞かなくてもいいと思う?」

「俺は止められてはいないから、お前も大丈夫じゃないかな」


 確かに私より年下のカノアが大丈夫なら、私だって大丈夫だろう。こんなことで、いちいち先生にお伺いをたてて煩わせるのも気がひける。



「ねえ、あれは何のお店?」


 馬車の窓越しにしか見た事がなかった街の中心部は、とてもにぎやかだった。多くの店が立ち並び人々が忙しそうに行き交う。


「あまりよそ見してると、迷子になるぞ」


 私が周りに気を取られてばかりで何度も転びそうになるので、呆れたカノアが私の肘を掴んでいる。


「あれは何?」


 質問ばかりする私に、思った以上に優しく根気強く教えてくれる。そういえば、最近は『馬鹿』『間抜け』は言われなくなった。『お前』だけは定着してしまったようだけど口調が柔らかくなった気がする。


(馬に親しんで、情緒が安定してきたのかもね)


 目当てのお店に着いた。画材が多く置いてある店だった。カノアが慣れた様子で店の人に声をかけ、あの絵に合う額を選んでくれた。


 支払いをして包んでもらった額を受け取ると、しっかり胸に抱きしめた。


「ありがとう、これで部屋に飾れる」


 嬉しくて微笑みかけるとカノアも優しく微笑んでくれた。


(こういう顔すると、先生に似てるんだ⋯⋯)


 似ていない親子だと思っていたけれど、微笑んだ時の瞳の優しさだけは全く同じだった。

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