ミレットのとある1日

 私の朝は早い。起きて身支度を済ませるとすぐに馬小屋に向かいキリーに挨拶をする。


「おはよう、キリー」

「ブルル!」


 キリーが目を細めて鼻を摺り寄せてくる。他の2頭にも挨拶をすると、それぞれブルブルと鼻を鳴らしてくれた。


 水を汲んで3頭に飲ませてから、裏の畑に向かって豆の葉を刈り取り、厨房から持ってきた煮豆と一緒に与える。


 そうこうしているうちに馬の世話人がやって来て、私の頭をモフモフした。


「おはよう、ミレットちゃん。ありがとね」

「3頭とも、元気ですよ!」


 キリーたちを世話人にお任せすると、私は部屋に帳面を取りに行く。そして畑の農作物の様子を記録する。


「おはようございます!」

「おはよう、ミレットちゃん」


 畑の世話人もやって来て私の頭をモフモフした。昨日の作物の様子を教えてもらう。研究者ではないけれど、長年作物を見続けてきた人の話は勉強になる。


 畑の観察が終わった後は、先生とカノアを起こしに行く。二人とも、とても朝に弱い。


 初めに先生。部屋の扉をノックする。


「先生、起きてください! 朝ですよ、起きる時間ですよ!」


 次にカノア。同じように部屋の扉をノックする。


「カノアも起きてください! 朝ですよ、起きる時間ですよ!」


 二人から返事があるまで、これを何度か繰り返す。二人が起きて身支度を始めた音が聞こえたら厨房に行ってお手伝いをする。料理人は忙しく手を動かしているので私の頭をモフモフしない。


「ミレットちゃん、ありがとうね。あ、その皿を食堂に持って行ってくれるかな?」


 食堂に朝食が並んだ頃に二人がやってくる。


「おはよう、ミレット」

「おはようございます、先生」


 先生がいつものように優しく笑ってくれる。


「カノア、おはよう」

「⋯⋯」


 カノアは無言でやってきて席に着く。先生がいつものように叱る。


「カノア、挨拶くらいしなさい」

「⋯⋯ふん」

「カノア!」


 畑や馬の報告など、食卓では先生と私だけが話をしている。カノアは黙々と食べると、さっと席をたち、そのまま学校に行ってしまう。


 私と先生は、一緒に学校に向かう。


 学園の生徒たちは、ほとんどの子が王都の屋敷で暮らしている。両親は領地にいて、家令や使用人と学齢期の子供たちが王都で暮らす家庭が多い。屋敷からは近くても馬車で学校に行く。


 先生の家には馬車もあるけれど、ほとんど使っていないようだ。私たちは徒歩15分ほどの距離をのんびり歩いて通っている。先生と二人だけで話ができる至福の時間。


 学校に到着すると荷物を持ったまま研究院に行って、畑の世話と観察を行う。他の先輩助手と一緒に、記録をつけたり肥料を撒いたり。先輩たちは年若い私の世話を焼き、色々と教えてくれる。


「前から、小さくてふわふわの子がいるのは知ってたけど、話す機会が無くて気になってたんだ」


 先輩たちも会うと頭をモフモフとして挨拶してくれる。一番知識が足りない私は、出来るだけ皆が面倒がるような仕事を引き受けるように心掛けている。


 力仕事も多いけれど、毎日1時間以上かけて馬で通っていた頃に比べると体力面ではかなり楽だ。天候が悪い日の通学は本当に大変だった。


「ミレットちゃん、そろそろ時間じゃないの?」

「わ、本当だ! 後はお願いします!」


 高等部に走る。何とか間に合ったようで担任の先生の姿はまだ見えなかった。あわてて授業の準備をする。


 授業が終わると、また研究院に走って行き、先生のお手伝いをする。私は高等部の授業の合間に研究院の授業を受けさせて頂いているので、分からない所を先生に教えてもらう事もある。先輩助手たちも教えてくれる。


 遅くまで研究院に残ることが多い先生を待たずに、今度は図書室に走る。そこではカノアが勉強しながら待ってくれている。先生から私と一緒に帰るように言いつけられていて、不愛想なカノアもこれだけは守ってくれる。


 王都の治安は悪くない。それでも貴族の子女が通う王立学園の制服を着て一人で歩くのは好ましくない。私は身代金なんて払えない平民だけど、見た目では分からないから仕方ない。


「遅くなって、ごめんなさい」

「⋯⋯」


 カノアが無言で立ち上がる。私は置いて行かれないように付いて行く。私が彼に勉強を教えるのは夕食後だ。この時だけはカノアも口を開く。


「さっき言った事と違うだろう? 馬鹿なのか?」

「いいえ、違わないわ。同じ事柄でも切り口によって表現が異なるの」


 カノアは口が悪い。『お前』『馬鹿』『間抜け』が頻繁に登場する。先生の耳に入ると叱られるので、先生がいる時はカノアも黙っている。


「ほら、この問題が解けないようなら、馬鹿な私よりももっとアレね」

「解けないとは言ってない」


 ムキになるあたりは、まだ子供だ。それに口は悪いけれど頭は悪くない。きっかけさえ与えれば自分で考えて正解を導き出せる。正しい知識を得る方法も、聞いて無いようでいて、ちゃんと学んでくれている。


 カノアの勉強の後は自分の勉強をする。


 この家に来た時には不安で一杯だったけれど、それなりに役に立てていると思う。先生と過ごす時間も研究に使う時間も増えた。


 一番好きなのは夜の畑を眺める時間。作物の種類によっては夜に葉を閉じて休む。夜の観察はここの畑でしか出来ない。


 月明かりの中、ひっくり返した桶に腰かけてぼんやりと畑を眺める。区画ごとに違う作物が育てられ、葉が茂ったものから、まだ双葉が出たようなひょろひょろしたものまで色々な作物がある。どれだけ眺めていても飽きることがない。


「観察してるの?」

「先生!」


 行儀の悪い所を見られてしまった。私は慌てて立ち上がって、桶を元に戻した。先生は笑いながら近くの水場から桶を持ってきて、ひっくり返して腰かけた。私も、もう一度さっきの桶をひっくり返して腰かける。


「ここの生活に少しは慣れたかな」

「はい、すっかり慣れました。とても快適に過ごしています。ありがとうございます」

「良かった、安心した」


 先生が微笑んでくれる。月明かりが映る優しい瞳から目が離せなくなる。今日は書き物を多くされていたのか、インクの香りがする。私は胸いっぱいに先生の香りを吸い込む。


「カノアが面倒をかけて申し訳ない。あれでも、君が来てくれて少し柔らかくなったから助かっている」


(あれで!)


 今までどれだけ反抗的だったのだろう。想像したくない。


「帰りは必ず待っていてくれますし、少し口は悪いですけど、カノアさんは優しいです」


 これは本当だ。帰り道も、さりげなく私に歩調を合わせてくれているし、重い本を持っている時には、半ば奪い取るようにして持ってくれる事もある。不器用なだけで本当は優しい子だと思う。


「ありがとう、よろしく頼むね」


 それから私たちは、畑の気になる区画の育ち具合や新しく発表された論文のことについて、楽しく話をした。

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